まひたい欲求が興つて来たり、かと思ふと、まだまだ生きられると思つて妙に人生が楽観出来たりして、行為と心理、心理と心理、行為と行為、などのつながりが切れ切れになつて、ひどく衝動的になつてゐた。その夜も、おそく帰つて来て酒臭い息をふうふう吐きながら畳に寝転んでゐると、母がさう言ひながら上つて来た。彼は二階に住んでゐた。母は佐七と同じやうにやはりおどおどしてゐるやうだつた。
「お前あしたはお父さんのところへ行つてくれるか、の、お前。あそこにはお父さんもゐることぢやし、ふゆもゐるで――。」
母は身の置場もないといふ風に出来る限り小さくなつて、今にも後ずさつて行きさうに坐つてゐる。彼は起きようともしないで、
「うん、うん。」
と頷いてゐた。しばらく沈黙が続いて、母は赤くなつた眼をおそるおそる開いてゐた。これが俺の母だ、これが、と彼はそんなことをふと口の中で呟いたが、理由もなくその時激しい憎悪に襲はれた。彼は無意識のうちに眼つきをかへて、鋭く瞳を光らせながら母を見つめた。母は息苦しくなつたらしく、そつと立上らうと腰を浮せかけたが、急に顔色を蒼白にしてまた坐つた。息子の憎悪が電波のやうに心に響いたのであらう。と、彼女は顔を急に歪め、歯と歯をがちがちと嚙み合せて、
「佐あさん、怺へて――お母さんは、お母さんは。」
と
「わたしは、の、佐あさん、お前のお父さんにだまされて、それで一緒になつたのだよ。あの人は、わたしと一緒になる前から病気だつたのに、わたしはだまされて――。」
佐吉はその時、みなまで聴かないでむくつと起きた。
「お母さんは、なんで僕にそんなこと教へるんです!」
頭の焼けるやうな怒気が湧き上つて来て、叫ぶやうにさう言つて母を睨みつけたのを覚えてゐる。しかしあれは母に対する怒りであつたであらうか。佐吉は体の冷えるのを感じて横はりながら思つた。それ以来俺は父を思ふ度に憎悪の念がつきまとふやうになつたではないか。それは今まで信じてゐた父の像がぶち
佐吉は、ふゆ子と一緒にこの病室を出て行つた父の後姿を思ひ出した。曲つた両手を腰にあて、不恰好に義足をギチギチいはせながら出て行く姿は、失意そのもののやうに見えた。腰にあてた手を振つて歩く気力もあの時の父にはなかつたに違ひない。さう思ふと佐吉の胸は急に顫へ出して、父への愛情が頭をゆすぶつた。彼は日頃の自分の態度が切実に後悔された。母をあざむいたのは父の罪であるとしても、しかしどうしてその父を自分が鞭打つことが出来るだらう、父がこの地上に自分を産み出したといふこと、自分が父に病気を
彼は自分が今幾分感傷的になつてゐることを意識しながら、すぐに佐七の手を握りたい衝動にかられた。
父と別れて女舎へ帰つて来ると、ふゆ子はすぐ床をとつてもぐり込み、頭から蒲団を被つてクックックッと頸でも締められたやうな声で泣き出した。彼女は自分たち親子三人が、深い穴の中に墜ち込んでゐるやうな気がした。前も、後も、厚い、真黒な壁になつて、押しても叩いてもびくともしない、彼女はそれに鼻をぶちつけてゐるやうな気持であつた。
夜が明けると、彼女は母に手紙を書きたくなつて来たので、畳に腹ばつて鉛筆で書き出した。外は雨が降つて、昨日父と約束した目白捕りも駄目になつてしまつた。
拝啓長らく御無沙汰致しましたお変りも御座いませんか、と機械的に彼女は書いた。そこで彼女は一度鉛筆をなめ、さて、と続けたが後がつまつてしまつた。そして色々と文句を考へてゐると、もう胸がいつぱいになつてぼちぼちと涙が紙の上に落ちた。そして結局紙を五六枚破つただけで、彼女はあきらめて立上つた。すると突然佐太郎に会ひたくてしやうがなくなつて来た。佐太郎と会つて、慰めてやつてゐる自分の姿が浮んで、彼女はその文句を考へ考へ口のうちで呟いて見た。
「ね、佐太さん、大丈夫よ、悲観しないで、ね、きつと快くなつて退院出来るのよ。」
そして、
「姉さんはもうだめだけど。」
と附け加へると、どつと悲しくなつて来た。佐太郎の頰にはきつと赤い斑紋があるに違ひない。彼女はもう六