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生時代からの理想として文学者になろうとした意志の潜在に違いなかった。

 暫くを苦悶し続けた時、彼はふと小森の身の上を思い出しても一度手紙をみつめた。

 ………自分の総てを偽って病弱故の失業者として……偉大なる人格的青年……

 「ウーム」彼は唸るように太息して決心した。

 「そうだ、千耶ちゃんに詫びるんだ、そして俺は今から本当の自分に立ちかえるんだ、そうだよし行こう」

 そう独語して彼は走るように歩き出した。


 千耶子のカフェーは戸を閉め切って軒燈の影に静にママ眠っていた。柚崎は半狂のように急いで来た歩をその前にとめて暫く茫然としていたが、気がついたように「もう遅い、明日にしよう」と口の中で云ってたち去ろうとした。其の時軒燈の下の潜り戸が静かに五寸ばかりスッと開いた。と同時だった。柚崎は背後に佩剣がガチャリと鳴ったのを聞きつけ、直感的にその音に怯え、本能的にすばやく身を返して走る様にそこをたち去った。

 外の響音に気兼ねてか開けかけた戸はそのまま動かなかったが、軈て、足音が遠く消え去ると狭い潜戸を一ぱい開けて静かに、忍ぶように物音をぬすんで、旅仕度をした千耶子が、バスケットを提げて出て来た。彼女は外へ出ると小走りに街路を横切って五六丁筋向うの円タクの集合所へ馳け込んだ。

 それから暫くの後、千耶子は神戸行急行車に揺られ乍ら、遠く離れゆく、住み慣れた都の灯の瞬きをありとあらゆる、執著と憎悪と呪咀と哀愁との入り乱れた感慨にあふれ出る涙の眼で、じっといつまでも見つめていた。やがて華やかな灯影が視野から消え去ると、未だ見ぬ異国の南京街の光景を涙の中に浮べて身ぶるいした。次の瞬間には、不幸な病気の兄の幻影を闇の中に描きつづけて身悶えた。