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余も亦久く獨乙國の文物兵制を慕ひ、今夕の會頗る素懷に酬ゆとの意を陳べたり。之を米醫の獨乙語一人の解する者なきに比すれば決して讓步せずと雖、猶雄辯座客を驚かすに至らさるを愧づ。要するに胆力未だ足らざるなり。然れども軍醫正ミユルレル Mueller 起ちて余が前に至り、大に余を賞譖し、衆に向ひて大音に是れ吾が養ひし所の學生なりと叫び、得意の色を顯はしたり。ミユルレルは今の大學醫學部の猶ほ東京醫學校と云へる頃校長たりし人なり。會散じて國民骨喜店 Café National に至る。娼婦の濃妝して客を待つ者其數を知らず。其中或は妖艶人を動かす者なきに非ず。然れども其面貌に一種厭ふ可き態あり。名狀すべからずと雖、一見して其の娼婦たるを知る。葢し賣笑は社會の病なり。而して此病は靑樓の禁を得て除く所にあらず。モンテガツツア Montegazza (Firenze 大學敎授) の戀愛生理 Fisiologia dell'Amore に曰く。靑樓の禁は猶ほ中毒を恐れて藥舖を鎖し、交戰を忌みて彈藥を廢するがごとしと。伯林には靑樓なし。故に咖啡店は娼婦の巢窟と爲り、甚しきに至りては、十字街頭客を招き色を鬻げり。其風俗を紊すこと之を靑樓に比して奈何を知らず。

二十一日。トヨツプフエル食店 Restauration Toepfer に朝餐し、公使舘に至りて小松原と議する所あり。三宅秀を砲兵街 Artilleriestrasse に訪ふ。逢はず。三浦、榊、加藤、河本、隈川、靑山、北里、田中等を雅典食店 Restauration zu Stadt Athen (Griechische Weinstube; Leipzigerstrasse) に招き饗應す。

二十二日。書をヒルシユワルド August Hirschwald の店に購ふ。ラアゲルストリヨオムの家を訪ひ、(長)井の許嫁婦たるシユウマツヘル氏 Fraeulein Schumacher と語る。此女は素とアンデルナハ Andernach の人、擧止閑雅愛す可し。田中と輦下戲園 Residenztheater に至る。偶〻ドユマア Alexander Dumas の新作「デニス」Denise を演ず。歸途汽車を用ゐてフリイドリヒ街 Friedrichstrasse に至る。伯林市中の汽車を用るは此を始と爲す。バウエル骨喜店にて加藤に會し、夜加藤の居に宿す。客舘の甚だ遠きを以てなり。

二十三日。田中正平を訪ふ。正平余に貽るに其小照及プリヨルス Robert Proelss の戲曲及演劇史二卷を以てす。午後客舘に歸る。五時三十分伯林を發す。三浦余を送り