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解題

「孫子」、「吳子」、「司馬法」、「太宗」、「尉繚子」、「六韜」、及び「三略」を武學の雜篇三百九十餘部の中から選出して七書と名づけたのは宋の元豐年中で、我國では慶長十一年に德川家康が始めて之れを覆刻させた。しかし是等の書はずつと古くから別々には渡來してゐて、中臣鎌足が六韜を愛讀した事や、源義家が孫子を學んだ事や、源義經が三略を授けられた事などは史乘にも見えてゐる。儒家の四書五經に對比すべき兵家の「バイブル」で、かつて東鄕元帥や福島中將の口頭には屢〻孫吳の句が出たのである。

「孫子」は戰國時代に齊の孫武の撰したもの、七書中でも最古く且つ最も精明なものである。文章も簡勁にして、正しき古文の模範である。「吳子」は同時代の將軍吳起の著、魏の文侯の問に應じて、軍國の經營から用兵の大法を說いてゐる。文章も孟子を聯想させる。「司馬法」は司馬穰苴を始め周の軍官の長(司馬)の說く所を齊の諸臣の追輯したもの、道德の大本から始めて用衆の術に及んでゐる。「唐太宗李衞公問對」は唐の軍師衞國公李靖が太宗と兵を談じた筆錄であるが、實は同時代の或兵學通が假作したものかも知れぬといふことである。「尉繚子」は周の尉繚の撰、梁の惠王の問に引起し、權謀譎詐よりも正理公道を以て立國の要諦としたところに價値を置かれてある。「三略」は黃石公三略ともいふ。下邳の圯上に張良を呼んで授けた所謂、黃石公の兵書と稱せられてゐるが、全く後人の依託である。用兵の原理を老莊の哲學に取