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 曙覧は擬古の歌も詠み、新様しんようの歌も詠み、慷慨こうがい激烈の歌も詠み、和暢わちょう平遠へいえんの歌も歌み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎たかやまひこくろうをも詠み、御魚屋おさかなや八兵衛はちべえをも詠み、俠家きょうかの雪も詠み、妓院ぎいんの雪も詠み、ありも詠み、しらみも詠み、背中の胡蝶こちょうも詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子しゃくしも詠む。見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。

〔『日本』 明治三十二年四月九日〕



 世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じごうも古格旧例に拘泥せざりしは、なかなかに『万葉』の精神を得たるものにして、『古今集』以下の自ら画して小区域に局促きょくそくたりしと同日に語るべきにあらず。ただ歌全体の調子において曙覧はついに『万葉』に及ばず、実朝に劣りたり。おしむべき彼は完全なる歌人たるあたわざりき。

 曙覧の歌の調子につきて例を挙げて論ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。

書中乾胡蝶しょちゅうのからこちょう

からになる蝶には大和魂を招きよすべきすべもあらじかし

 結句字余りのところ『万葉』を学びたれどいきおい抜けて一首を結ぶに力弱し。『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌しょうじょうの差あり。

緇素月見しそつきをみる

しきみつみたかすゑ道をかへゆけど見るは一つの野路の月影

 この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかにいやしくいとわし。

あないぶせ銚子さしなべかけてたくわらのもゆとはなしに煙のみたつ

「あないぶせ」とかようにはじめに置くこと感情の順序にもとりて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべし。下二句の言い様も俗なり。

賤家しずがいへ這入はいりせばめて物ううる畑のめぐりのほほづきの色

 この歌は酸漿ほおずきを主として詠みし歌なれば一、二、三、四の句皆一気呵成かせい的にものせざるべからず。