Page:上白河侯書.pdf/1

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 布衣賴襄謹みて再拜して少將樂翁公閣下に白す。襄、嘗て宋の蘇轍の韓魏公に上るの書を讀みて、之を愛す、以爲おもへらく、古より言を當世の王侯に進むる者は、大抵求むる有りて自らる。識者のいやしむ所なり。獨り轍は魏公の人物を偉なりとし、之を名山大川に比し、其言貌に接して己の作文の氣を養はんと欲す。言、狂に近しと雖、其澹泊にして求むる無きこと知る可きなり。然りと雖、魏公は、是の時猶路に當り權をれり。人將に轍の求むる有るを疑はんとす。閣下は、今代の魏公なり。而して勇退高踏、久しく閑地にる、襄をして轍の所爲しよゐを學ばしむるも、以てきらひ無かる可し。ことに貴賤懸絕、啻に轍の魏公に於けるが如きのみならず。卽ち徒に仰ぎて心之に嚮ふのみ。

 今玆ことし尊嫡君侯、幕命をけ、入朝して大拜の恩を謝す。襄、草莽さうまうに伏在し、ほのかに盛事を聞く。而して圖らずも邸吏、閣下の命を帶び、來りて襄の家に就きて、著す所の私史を取り、覽觀を賜はんと欲す。禮意慇懃、愧悚きしようこも至る。夫れ襄、敢て閣下に求めず。而して閣下、襄に求む。襄の榮、大なり。また何の嫌ふ所ありて辭避せんや。未だ謦欬けいがいに接せずと雖、其詞命しめいを聞く。亦以て自ら壯とす可し。是に於て、蕪穢ぶくわいを忘れて、出して下執事かしつじに納れ、又敢て瀆吿とくこくする所有り。