詩学/第十三章


 以上述べてきた次ぎに論ずべきことは、筋を仕組むに当つて、詩人は何を狙ひ、何を避けねばならないか、さうして、悲劇の効果[瀉泄《カタルシス》]は何から起こるかといふ問題であらう。

 最も優れたる悲劇の筋は、単一でなく、複雑でなければならない。さうして、それは、哀憐と恐怖との感情を起させる行動の模倣でなければならぬ。何とならば、かかる種類の感情誘発に、この種の模倣の特殊な機能が存するからである。[吾吾がこの機能を本位とする時、避けねばならない三つの様式の筋がある事は明かである。]先づ第一に、善き人が幸福から不幸に陥つて行く所を見せてはならない。何とならば、この場合、決して哀憐や恐怖を誘はないばかりでなく、あまりに残忍であるために、不快を起させるに過ぎない。[第二に]また、悪しき人をして、不幸から幸福に移らしてはならない。何とならば、それは、最も非悲劇的であつて、全然、悲劇の要点に外づれ、吾吾の人情にも訴へず、また、哀憐も恐怖の感情をも誘発しない。[第三に]また、ずばぬけて悪しき人が、幸福から不幸へと陥つて行くのを見せてはならない。何とならば、かかる種類の趣向は、たとへ、人情に訴へようとも、決して、哀憐や恐怖の情緒を起させるものでないからである。哀憐は、主人公が不当な不幸に陥つて行くのを見る時、誘発され、恐怖は、この主人公が吾吾と同じ人である場合に起る。それ故今、論じてゐる[第三の]場合に於いては、何等、哀憐を誘ひ、恐怖を催させるものはないのである。あとに残る場合は、中間に位する人物に就いての場合である。即ち、人並以上に、善くあり、さうして、正しくあると言ふではない人が、罪*1や悪を犯してでなく、単に、ある過失誤解*2から、不幸に陥る場合である。さうして、その人は非常な名望と繁栄とを享有してゐる人人の一人であることが必要である。例へば、オイディプス、テュエステス*3、その他、同様な家柄から出た、著明な人達がそれである。

 さて、優れた筋は、単一の結末を持つたものでなくてはならない。決して、一部の人達が説くやうに、二重の結末を持つたものであつてはならない。さうして主人公の運命の変化は、不幸から幸福に移るのでなく、反対に、幸福から不幸へ移る変化でなければならぬ。さうして、主人公のこの落魄〔らくはく〕は、彼が悪を犯したからでなく、彼の大きな誤解に基かねばならぬ。その上、主人公は、吾吾が今説いた如き[吾吾と同じ]人間であるか、もしくは、より善き人間であつて、決して、より悪しき人間であつてはならない。事実がこれを説明してゐる。初期に於て、詩人達は、偶然手に入る如何なる物語をも採用したに反して、今日では、最も優れたる悲劇は、ある少数の家柄に起つた物語の上にのみ脚色されてある。例へば、アルクメオン*4、オイディプス、オレステス、メレアグロス*5、テュエステス、テレフオス*6、及び戦慄すべき出来事の発動者もしくは、受難者であつた他の家柄である。それ故、理論的に言つて、最も優れたる悲劇は、かくの如き種類の筋から成立つ。であるから、エウリピデスが、彼の悲劇に於いて、吾吾が、今説いた如き方針に則り、さうして、多くの悲劇に、不幸な結末を附けたことを非難する批評家は、批評家自身、誤れる者と言ふべきである。エウリピデスのやり方は、吾吾が言つたやうに、正しい。その最も良い証拠に、舞台の上で、さうして、公衆の前で、演ぜられる場合、かやうな種類の悲劇は、それが、只、よく取扱はれてあつたならば*7、吾吾の眼に最も悲劇らしい真の悲劇として見られる。さうして、エウリピデスは、他の多くの点に於いて、欠点あるやり方をしてゐるとしても、それにも拘らず、詩人中、最も悲劇的な作家として、吾吾の眼に映る。かの、一部の人達が、悲劇中、第一に推してゐる筋の趣向、例へば『オデュセイア』の如く、二重の物語を含み善人と悪人との運命が、各、逆に[幸福と不幸とへ]移り変つて行く結末を持つ筋は、第二位のものである。この種類の筋は、単に、観衆の[純悲劇的緊張に堪え切れない]気弱さから第一位に押されてゐるに過ぎない。さうして、詩人達は観衆に追随し、観衆の趣味に投合する。然し、かやうな筋から生まれる悦は、悲劇の悦でなくして、寧ろ、喜劇の部に属する。喜劇に於いては、例へば、オレステスとアイギストスの如く篇中にては、この上もなく、敵意を含み合つてゐた二人が、結末に於いて、お友達になり合つて舞台を去り、誰れが誰れを殺すといふやうな事件なくして終る。


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