清朝開国期の史料

 
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清朝開国期の史料
 
 清朝の開国期といふは、其の始めは無論、愛新覚羅氏の天降る伝説から起るのであるが、其の終りを何年と定むべきかは一の問題となり得るのである。普通は入関、即ち北京打入を以て、一の紀元として、其以前を開国期とするけれども、魏源の聖武記は開国龍興記の題下に順治十八年、明の永暦帝を獲た事までを記してある。支那を統一した帝室の歴史としては、其の統一の全く成るまでを開国期中に包有させるのは、至当であるけれども、清朝の統一は、前代の明朝などゝは、少し相違があつて、統一者は国内から起つたのでなく、域外から入り込だのであるから、其の侵入が已に一紀元を作る価直がある。故に此にはやはり普通の入関以前を一期とする習慣に従つて、開国期即ち入関前と解し去るのである。

 此時の史料は、大要之を三種に分つことが出来る。即ち

一、清朝人自身の手に成れる者

二、明人の手に成れる者

オープンアクセスNDLJP:71 三、朝鮮其他の国人の手に成れる者。日本人の手によりて、伝来せる史料なども、此中に入る。

 此の三種全体に渉りて、書き出しては、やゝ浩瀚に過ぐるやうになる恐れがあるから、今は第一だけに就て、少しく述べて見やう。

 
三朝実録、満洲実録
 
 支那の史料中、先づ正確な官撰の記録として数へらるゝは、何れの朝でも、実録を第一とせねばならぬ。尤も実録の性質として、本朝の臣子が本朝の事を書くのであるから、随分避諱に渉る記事の多いことを予め知らねばならぬ。又宋代の如く、政治上に党派心の激しかつた時、明代の如く、帝系に屢〻故障のあつた時は、実録は幾度も改修されることになるから、其の信用すべき程度が甚だ低くなる。そこで清朝の実録が果して幾何の程度に於て信用し得べき者なりやといふことが、先づ考へられる。之に就て言つて置く必要のあるは、我邦に随分古い頃から、清三朝実録の写本が伝つて居ることである。即ち清の太祖、太宗、世祖三朝の分である。此の実録を我が文化四年に、邨山芝塢、永根氷斎の二人が抄録して出板したのが、清三朝実録採要十六巻として世に行はれ、一時来朝の支那人などが、本国で実録が容易に見られぬ処から喜で買ひ入れた者である。此の採要の上に更に其の抄略本も二人が作つて二巻としたのが大清三朝事略で、この方が反つて採要よりも前に、即ち寛政十一年に刊行されて居る。とにかく此の我邦に渡つて居る三朝実録が、今日北京、並びに奉天に存して居る実録と同一なりや否やといふことは、考査して置く必要がある。余が此の疑問を懐くに至つたのは、現在世に行はれて居る蔣良騏の東華録、近年増訂された王先謙の東華録が、いづれも実録の略抄本であるのに、其の記事の体裁に頗る伝抄本と同じからざる処があることを見たからであつた。たとへば、満洲、蒙古などの人名の音訳に用ひてある文字が、伝抄本実録と東華録と多く異つて居る上に、伝抄本には官名と人名とを併記する時に、満洲語の法則に従つて人名を上に、官名を下に書いて居る、即ち​ボルチンヒヤ​​博爾晋蝦​といふと、博爾晋は人名、蝦は官名〈侍衛の義〉である。然るに東華録には之を侍衛博爾晋と書いて居る。此の疑問の緒を手繰つて調べて見ると、伝抄本は康熙年間の纂修本で、東華録の原本にした実オープンアクセスNDLJP:72 録は、乾隆以後の重修本であらうといふこと丈が分つた。其故は清太祖の諡号は伝抄本には、太祖承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝容武弘文定業高皇帝としてあるが是は康熙元年に改定したのである。然るに東華録には其後雍正元年に睿武と弘文との間に端毅の二字を加へ、乾隆元年に又端教の下に欽安の二字を加へたことを記してある。此の考査の結果として、清朝の実録にも、或る部分には改修が行はれた事、伝抄本の実録が最初の記録として寧ろ官本の実録よりも質実であることが知られた。

 奉天に存してある実録は、崇謨閣中に蔵せられてあるので、満文漢文の両種になつて居る。この閣中には実録の外に聖訓(満漢両文)其他重要な史料を蔵して居る。共中で実録と最も緑の近いものに、満洲実録といふ標題のものがある。これは八冊になつて居る絵入の写本で、満洲、蒙古、漢文の三体並べ挙げてある。其の記事は殆ど太祖実録と同様で其の図画は満洲開闢の長白山、三神女の伝説から始まつて、太祖一代の事跡を画いたもので、末の方に左の数句が記されてある。

実録八冊。乃国家盛京時旧本。敬貯乾清宮。恐子孫不能尽見。因命依式重絵二本。以一本貯上書房。一本恭送盛京尊蔵。伝之奕世。以示我大清億万年子孫。母忘開創之艱難也。

之で見ると、原本は北京の乾清宮に存してあるべき筈であるが、今其の存亡を知るよしがない。さて其原本が出来た由来は、太宗実録天聡九年八月乙酉の条に

画匠張倫張応魁恭画太祖実録図成。賞倫人戸一。牛一頭。応魁人戸一。

とあるがそれなるべく、今盛京にあるは転写本ではあるが、画中に太祖太宗などの面貌を画いたのが、幾つあつても殆ど一定して、一種の特異な相好を示して居るなど、何様根拠のある者と見えるが、之を我が伝抄本の実録と、崇謨閣本の実録とに比較して見ると、益〻其史料としての価値を知り得ることがある。伝抄本実録に太祖が崩じた当時、正妻なる大福金は、呉喇国満大貝勒の女で、三十七歳になつたが、この大福金は元来後妻で、其前に已に嫡出庶出の子が多数あつて、この大福金の腹には有名な容親王、予親王等の兄弟を生んだ。其の異腹の諸貝勒が、太祖の遺言と称して大福金に殉死を強請した。それは大福金は美人なれども、心の善からぬ人なので、太祖が乱を生ぜんことを恐れて殉死の遺言をしたといふのである。大福金はオープンアクセスNDLJP:73 いやながら強請されたので、礼服を着て、金玉珠翠珍宝の物を飾つて、二幼子の事をくれも頼んで殉死したといふ事が載せてある。処が東華録には此事が全く載せて居ない。それから満洲実録の方を見ると、之には載つて居る。此疑問は崇謨閣本の実録を親しく賭て決するより外ないと思つて居たが、後それを見ると、果して此記事は全く載つて居ない。之で見ると伝抄本実録と満洲実録とは質実な最初の記録で、かやうの事も避諱しなかつたが乾隆重修の際に、満洲族の不名誉を恐れて删除したものと見える。

 以上研究の結果、開国期の実録としては、我が伝抄本実録が最も信拠すべく、それに絵入の満洲実録は、太祖一代の事跡に就ては、之と殆ど同様の価値あること、殊に満洲実録は其の満蒙両文を備へて満洲蒙古の原語の意義を正確に伝へる点に於て長処があるといふことを知つた。尤も閣本の実録には、各朝とも満文の分もあるが、我が三朝実録には之が備はらない丈は、已むを得ざる欠点である。

この満洲実録は、余は明治三十八年及び今年の両回、崇謨閣に於て検閱し今年は全部之を写真に取りたい希望であつたが、故障ありて出来なかつたのは、いかにも遺憾である。閣本実録も今年は、其の伝抄本との異同を校対したいと思つたが、是も果さなかつた。但し其の序文を読で、康熙、乾隆両度の重脩を経た者たること丈は明らかに知ることを得た。

余が蔵書に嘉慶廿四年十月の写本で太祖高皇帝本紀書と題する満文の書二巻ある。多分満文の官本実録の抄略本らしい。満文の実録を有せざる我邦では、己むを得ず余は此の略本を以て従来代用して居た。今年は満洲実録を写し取つて、略本を廃物に帰するつもりであつたが、今以て此本にたよることを免れない。史料採訪の不自由に制限さるゝ我等が研究の困難をつく感ぜざるを得ない。

 
漢文旧檔
 
 崇謨閣には又漢文旧檔と称する六冊の写本がある、其中一冊は重複になるので、実は五冊である。即ち其の内容は

一、各項稿簿一冊

オープンアクセスNDLJP:74 二、朝鮮国来書簿三冊

三、奏疏稿一冊

の三種に分たれる。第一の各項稿簿といふのは、太宗の天聡二年九月から、同五年十二月に至る往復文書を蒐集写録したもので、

 金国汗致朝鮮国王書十七道

 金国汗致毛大将軍書

○下八旗固山貝勒勅諭

○祷告天地誓状

○下各漢官勅諭

○王府伝諭金漢蒙古軍民人等

○下官生軍民人等勅諭

○下某島某官勅諭

○下各城屯堡秀才勅諭

 与劉三苐兄諭帖八通

 下皮島副将陳継盛等勅諭

 劉興賢家信七通

 下静安堡劉千惣勅諭

○金国汗及執政衆王等告天盟誓疏

○下遊撃李献箴勅諭

○下永平還漢等処軍民人等勅諭

○頒行各官及貼八門鐘楼勅論

○下黄旗下旗鼓該管人民勅諭

○伝八固山下各堡官民勅諭

○下査僧尼官勅諭

○下各寺僧衆勅諭

○下参将祝世昌勅諭

○下国中漢人勅論

○下尉馬総兵佟養性勅諭

○下衆将官勅諭

○下僧綱司勅諭

○下僧録司勅諭

○下靖安堡住民孟安邦勅諭

○与朝鮮会事府者

○下道録司勅諭

○下金漢官生軍民人等勅諭

○下諸将領勅諭

○下金漢蒙古官員勅諭

○下礼部勅諭三道

○下兵部転行八門上勅諭

○孫副総兵伝諭兵丁等

 金国汗致祖大将軍書附祖家弟兄等禀稿

オープンアクセスNDLJP:75   附録島中劉府来書七通(附記参看)

 其外猶瑣細の記事をも載せてある。金国汗とあるは即ち清太宗で、実録によれば此頃満洲国皇帝と称して居つたやうに見えるが、事実は金国汗と称したのである。此等は奉天省の各地に存する刻石、又は明、朝鮮等の記録と符合するので、甚だ正確な史料である。毛大将軍とは明の将毛文龍、祖大将軍とは祖大寿であるが、此等の文書中には、全く実録に採録されないものも多く、採録されてあつても、皆脩飾されてしまつて、此書の如く有のまゝには出て居ない。此等の文書によつて始めて入関前の政治、外交等の真相が分るのである。

 朝鮮国来書簿は、第一冊は天聡元年より八年十二月まで、第二冊は天聡九年より崇徳四年十二月まで、第三冊は崇徳五年六月の分であるが、これは太宗が第一次の朝鮮征伐以後、第二次の征伐を経過した後までの国書の留書であつて、朝鮮の同文彙考には第二次征伐以前の国書は載つて居らず、朝鮮の実録には果して載つて居るかどうかは知らないが、清朝の実録にも採録されない分が少からずある。しかも之によりて両国交際の変態其の再戦に至るまでの原因が明らかになる史料である。

 奏疏稿は天聡六年正月より九年三月に至る諸臣の奏疏を蒐集したもので、刑部承政高鴻中、新副将張弘謨等、参将高光輝、遊撃方献可、参将姜新、新服生員孫応鳴、礼部侍郎李伯龍、秀才高士俊総兵佟養性、廂紅旗相公胡貢明、秀才馬国柱、書房相公王文奎、相公江雲深、廂白旗副将孫得功、書房鮑承先、整白旗備禦劉学成、書房秀才李棲鳳、藍旗総兵官馬光遠、書房秀才楊方興、兵部啓心郎丁文盛、趙福星、整黄旗下副将祖可法、凌河備禦陳延齢、総兵官麻登雲、正白旗下隠士扈応元、正白旗下遊撃佟整、永平府新人徐明遠、大凌河都司陳錦、生員沈佩瑞新順生員楊名顕等、整紅旗牛禄章京許世昌、俘臣仇震等の名が見え、明の降将としては有名な孔有徳耿仲明、尚可喜、又帷幄の謀臣といはるゝ范文程、寧完我などの奏疏も多く載つて居る。其中の多数殊に降附の徒の奏疏は、大抵明を取るの策を上つるので、破廉耻な一種の漢奸の性情を暴露して居る。此等の中にも無論、実録には採録されないものが少からずあるので貴重な史料である。官名などの書法、たとへば章京を相公と書き正黄旗、整黄旗を両用するなども、制度草剏の際、未だ一定しない状態を想像するに足るので、奉天の西十余清里にオープンアクセスNDLJP:76 在る塔湾の塔の刻石に章京を将軍と書いたのなども思ひ合されるのである。

 この旧橋は明治三十八年に東京の市村教授と共同で、藍写真で全部録出した。

(大正元年十一月芸文第三編第十一号)


 
満文老檔
 
 崇謨閣に蔵せらるゝ史料中、開国期に最も重大の関係を有つて居るのは、満文老檔である。此は同一の文が二様に書いてある、即ち一は旧満洲字で、一は新満洲字である。

   Tongi fuka akū hêrgê i dangsê(点圏なき檔子)

と題してあるのが旧字で

   Tongi fuka sindaha hêrgê i dangsê(点圏を置きたる檔子)

と題してあるのが新字である。元来満洲字は蒙古字の字母を用ひて、それを以て満洲語を書くやうにしたのであるが、其の創立は太祖の己亥の年である。(天命紀元の前十七年)其の如何にして創立したかに就ては、実録、国史額爾徳尼伝(者献類徴に引ける所による)、皇朝通志六書略等に記す所によると、太祖が蒙古字を以て製して国語として、国中に頒行せんとして、額爾徳尼巴克什と嚆蓋札爾固斉とをして之を酌定せしめたるに、二人辞して曰く、蒙古文字は臣等習て之を知り、相伝ふること久しきも、未だ更製する能はずと、太祖之に諭して曰く、漢人が漢文を読むことは、凡そ漢字を習ふ者も、未だ漢字を習はざる者も皆之を知る、蒙古人が蒙古文を読むことも、未だ蒙古字を習はざる者も亦皆之を知る今我国の語は必ず訳して蒙古語と為して之を読めば、未だ蒙古語を習はざる者は知る能はず、如何ぞ我国の語を以て字を製することを難しとして、反て他国の語を習ふを以て易しとするやと、二人同じく対へて曰く、我が国語を以て字を製するは最も善し、但だ更製の法、臣等未だ明らかなる能はざるが故に難きのみと、大祖因て諭して曰く、阿字の下に一の麻字を合せば、阿麻にあらずや〈満洲語amaは父の義〉額字の下に一の墨字を合せば、額墨にあらずや 〈満洲語êmêは母の義〉蒙古字を以て我が国の語音に合し、聯綴して句を成さば、即ち文に因りて義を見すべし、吾れ此を籌ること已に悉せり、爾等試みに之を書せよ、何為ぞ不可なオープンアクセスNDLJP:77 らんと、二人は太祖の独断より出でたる旨に遵ひ、編輯することとなりたるが、会々噶蓋は他事によりて法に伏したるを以て、額爾徳尼は独り擬製に任じ、奏上して裁定を仰ぎ、国中に頒行したりとある。これが即ち蒙古字を其のまゝ用ひた満洲字で、後には之を無圏点檔案といつて居る、旧満洲字である。然るに蒙古の語音と満洲の語音とは、相異の処があつて、たとへば蒙古語ではkha ghaと発音するある字母を満洲語ではka. ha. gaの三音に通用して居るが、それが為にaga雨といふ語と、 aha奴僕といふ語とが混同し、boigon戸口の戸といふ語と、boihon泥土の土といふ語と混同し、haga魚剌といふ語と、haha男子といふ語と混同するやうな困難を免れ得ない。そこで太宗の天聡六年三月に、太宗が達海巴克什に命じて、初学の読む所十二字頭、即ち十二字母に圏点を加へさすことにした。それは即ち従来の字母が圏点なきが為に、上下の字が雷同して別が無いから、書籍の中で尋常の語言をこの旧字で綴つた者は、上下の文義を考へると、まだ通暁し得るけれども、人名地名などになると、必ず錯誤を来し易い、因て圏点を加へて同形異音を区別し、且つ漢字の音で満蒙字で書き見はしにくい者は、十二字頭の外に字を添へ、それでも十分でない者は、両字を連写し其の切音で見はすこととし、漢字よりも精当の音が出るやうにしたのが、即ち加圏点檔案といふ、新満洲字である。此の新旧両様の文字で、各々一通づゝ書いたのを、即ち標題の如き書名としたので、それが古い時代の記録であるから、通例老檔と称して居る。檔子といふ語は、正確には記録といふ語になるので、檔冊、又た檔案などいふも同一である。

此の旧字の製作者たる額爾徳尼が、其名の後蔵の班禅額爾徳尼に類せる処から、之を西蔵人なりと思ふ西洋人あれどもそれは誤りである。此の額爾徳尼は元よりの満洲人で、都英額地方の納喇氏である。

 此の老檔の内容如何といふに、即ち太祖、太宗二代の記録の残本である。今其の目録を左に記す。

太祖第一套 四冊 丁未年より乙卯年に至る〈即ち明の万暦三十五年より四十三年まで〉

第一冊 丁未年より庚戌年に至る

第二冊 辛亥年より癸丑年に至る

第三冊 癸丑年より甲寅年に至る

第四冊 乙卯年

オープンアクセスNDLJP:78 太祖第二套 九冊 天命元年正月より四年十二月に至る〈明の万暦四十四年より四十七年まで〉

第五冊 天命元年二年

第六冊 天命三年正月より四月に至る

第七冊 天命三年五月より十二月に至る

第八冊 天命四年正月より三月に至る

第九冊 天命四年三月より五月に至る

第十冊 天命四年五月より六月に至る

第十一冊 天命四年七月

第十二冊 天命四年八月

第十三冊 天命四年八月より十二月に至る

太祖第三套 九冊 天命五年正月より六年五月に至る〈明の泰昌元年より天啓元年まで〉

第十四冊 天命五年正月より三月に至る

第十五冊 天命五年四月より六月に至る

第十六冊 天命五年七月より九月に至る

第十七冊 天命五年九月より六年二月に至る

第十八冊 天命六年二月三月

第十九冊 天命六年三月

第二十冊 天命六年三月四月

第廿一冊 天命六年四月五月

第廿二冊 天命六年五月

太祖第四套 九冊 天命六年六月より十二月に至る〈明の天啓元年〉

第廿三冊 天命六年六月

第廿四冊 天命六年七月

第廿五冊 天命六年八月

第廿六冊 天命六年九月

第廿七冊 天命六年九月十月

第廿八冊 天命六年十一月

第廿九冊 同上

第三十冊 天命六年十二月

第卅一冊 同上

太祖第五套 十一冊 天命七年正月より六月に至る〈明の天啓二年〉

第丗二冊 天命七年正月

第卅三冊 同上

第丗四冊 天命七年正月二月

第丗五冊 天命七年二月

第卅六冊 同上

第卅七冊 同上

第卅八冊 天命七年三月

第卅九冊 同上

第四十冊 天命七年三月四月

オープンアクセスNDLJP:79 第四十一冊 天命七年四月より六月に至る

第四十二冊 天命七年六月

太祖第六套 八冊 天命八年正月より五月に至る〈明の天啓三年〉

第四十三冊 天命八年正月

第四十四冊 天命八年正月二月

第四十五冊 天命八年二月

第四十六冊 天命八年二月三月

第四十七冊 天命八年三月

第四十八冊 天命八年三月四月

第四十九冊 天命八年四月

第五十冊 天命八年四月五月

太祖第七套 九冊 天命八年五月より九月に至る〈明の天啓三年〉

第五十一冊 天命八年五月

第五十二冊 同上

第五十三冊 天命八年五月六月

第五十四冊 天命八年六月

第五十五冊 同上

第五十六冊 天命八年六月七月

第五十七冊 天命八年七月

第五十八冊 天命八年七月八月

第五十九冊 天命八年九月

太祖第八套 七冊 天命九年正月より十年十一月に至る〈明の天啓四年五年〉

第六十冊 天命九年正月

第六十一冊 天命九年正月より六月に至る

第六十二冊 天命九年六月

第六十三冊 同上

第六十四冊 天命十年正月より三月に至る

第六十五冊 天命十年四月五月

第六十六冊 天命十年八月より十一月に至る

太祖第九套 六冊 天命十年及び十一年〈明の天啓六年七年〉

第六十七冊 天命十年

第六十八冊 同上

第六十九冊 同上

第七十冊 同上

第七十一冊 天命十一年三月より六月に至る

第七十二冊 天命十一年六月より八月に至る

太祖第十套 九冊 太祖皇帝の天命年間に記せる年月具備せざる檔子

第七十三冊 天命年に記せる檔案三件、月日を記して独り年次を記さざる者

第七十四冊 天命年に記せる檔案十二件、年月倶に無き者

第七十五冊 各大臣等に誓はしめたる書、年月を記さゞる者

オープンアクセスNDLJP:80 第七十六冊 同上

第七十七冊 同上

第七十八冊 同上

第七十九冊 族姓窩舗を記したる檔子、年月なき者(即ち族籍表なり)

第八十冊 同上

第八十一冊 同上

太宗第一套 八冊 天聡元年正月より十二月に至る〈明の天啓七年〉

第一冊 天聡元年正月二月

第二冊 天聡元年三月四月

第三冊 天聡元年四月

第四冊 同上

第五冊 天聡元年四月五月

第六冊 天聡元年五月六月

第七冊 天聡元年七月八月

第八冊 天聡元年九月より十二月に至る

太宗第二套 七冊 天聡二年正月より十二月に至る〈明の崇禎元年〉

第九冊 天聡二年正月より三月に至る

第十冊 天聡二年三月より八月に至る

第十ー冊 毛文龍に関する記事

第十二冊 同上

第十三冊 天聡二年八月より十月に至る

第十四冊 天聡二年十二月

第十五冊 天聡年間に漢大臣官員等に給せる勅論

太宗第三套 五冊 天聡三年正月より十二月に至る〈明の崇禎二年〉

第十六冊 天聡三年正月より七月に至る

第十七冊 天聡三年七月より十月に至る

第十八冊 天聡三年十月十一月

第十九冊 天聡三年十一月

第二十冊 天聡三年十二月

太宗第四套 七冊 天聡四年正月より四月に至る〈明の崇禎三年〉

第廿ー冊 天聡四年正月

第廿二冊 天聡四年正月二月

第廿三冊 天聡四年二月

第廿四冊 同上

第廿五冊 天聡四年三月

第廿六冊 天聡四年三月四月

第廿七冊 天聡四年四月

太宗第五套 六冊 天聡四年五月より十二月に至る〈明の崇禎三年〉

第廿八冊 天聡四年五月

第廿九冊 天聡四年五月六月

オープンアクセスNDLJP:81 第三十冊 天聡四年六月

第卅一冊 天聴四年六月七月

第卅二冊 天聡四年八月より十二月に至る

第卅三冊 天聡四年、満漢官員等に官街を加ふる勅諭を給したる檔子、蒙古台吉等に誓はしめたる書、並に差遣はしたる書

太宗第六套 六冊 天聡五年正月より八月に至る〈明の崇禎四年〉

第卅四冊 天聡五年正月

第卅五冊 天聡五年二月三月

第卅六冊 天聡五年三月四月

第丗七冊 天聡五年四月

第卅八冊 天聴五年四月より七月に至る

第卅九冊 天聡五年七月八月

太宗第七套 五冊 天聡五年八月より十二月に至る〈明の崇禎四年〉

第四十冊 天聡五年八月九月

第四十一冊 天聡五年九月

第四十二冊 天聡五年十月

第四十三冊 天聡五年十月十一月

第四十四冊 天聡五年十二月

太宗第八套 六冊 天聡六年正月より二月に至る〈明の崇禎五年〉

第四十五冊 天聡六年正月

第四十六冊 同上

第四十七冊 同上

第四十八冊 同上

第四十九冊 天聡六年二月

第五十冊 同上

太宗第九套 六冊 天聡六年三月より六月に至る〈明の崇禎五年〉

第五十一冊 天聡六年三月四月

第五十二冊 天聡六年四月

第五十三冊 天聡六年五月

第五十四冊 天聡六年六月

第五十五冊 同上

第五十六冊 同上

太宗第十套 五冊 天聡六年七月より十二月に至る〈明の崇禎五年〉

第五十七冊 天聡六年七月八月

第五十八冊 天聡六年八月九月

第五十九冊 天聡六年十月

第六十冊 天聡六年十一月十二月

第六十一冊 天聡年間の檔案六件、年月を記さゞる者

太宗第十一套 六冊 崇徳元年正月より三月に至る〈明の崇禎九年〉

第一冊 崇徳元年正月

オープンアクセスNDLJP:82 第二冊 崇徳元年二月

第三冊 同上

第四冊 同上

第五冊 崇徳元年三月

第六冊 同上

太宗第十二套 六冊 崇徳元年四月五月〈明の崇禎九年〉

第七冊 崇徳元年四月

第八冊 同上

第九冊 同上

第十冊 崇徳元年五月

第十ー冊 同上

第十二冊 同上

太宗第十三套 六冊 崇徳元年五月六月〈明の崇禎九年〉

第十三冊 崇徳元年五月

第十四冊 同上

第十五冊 崇徳元年六月

第十六冊 同上

第十七冊 同上

第十八冊 同上

太宗第十四套 七冊 崇徳元年七月八月〈明の崇禎九年〉

第十九冊 崇徳元年七月

第二十冊 同上

第廿一冊 同上

第廿二冊 同上

第廿三冊 同上

第廿四冊 崇徳元年八月

第廿五冊 同上

太宗第十五套 七冊 崇徳元年九月十月〈明の崇禎九年〉

第廿六冊 崇徳元年九月

第廿七冊 同上

第廿八冊 同上

第廿九冊 崇徳元年十月

第三十冊 同上

第丗一冊 同上

第卅二冊 同上

太宗第十六套 六冊 崇徳元年十一月十二月〈明の崇禎九年〉

第丗三冊 崇徳元年十一月

第丗四冊 同上

第卅五冊 同上

第卅六冊 同上

第卅七冊 崇徳元年十二月

オープンアクセスNDLJP:83 第丗八冊 同上

以上の通りで、実に天命紀元の前九年より起り、崇徳元年に至る三十年間に渉る日記体の記録で、其中に天聡七年八年九年の三年は欠け、天命七年の下半年も欠け、其他にも処々残欠して居る処があるが、とにかくに瑣屑の事までも一々記した極めて詳細の者である。実録では太祖一代が八巻に過ぎないのに、此老檔は其半世の分で、八十一冊に達して居り、太宗の実録は在位十七年間の分六十七巻に過ぎないのに、老檔は七年の分で九十九冊に達して居る。殊に初めて大清の国号と皇帝の尊号を称した崇徳元年などは、一年間の記事が卅八冊にもなつて居る。縦令満文は漢文に比して、篇帙を要すること多しとはいへ、其の遥かに詳密の度を加へて居ることは、疑ふべからざる所である。余はまだ精細に其の内容を明らむるには到らないけれども、其の開国期の史料中、第一位に置くべき者なることはこゝに断言し得ると思ふ。

 さて此の老檔の由来に就て、実録によりて知り得べきは、次の記事の如きものあるのみである。即ち太宗実録、天聡三年夏四月丙戌朔の条に

上命儒臣。分為両直。大海榜式同剛林、蘇開、顧爾馬渾、托布戚等四筆帖式。翻訳漢字書籍。庫爾纒榜式同呉巴什、査蘇喀、胡丘、詹覇等四筆帖式。記注本朝得失、以為信史。(伝抄本実録による)

と見えて居る。これによりて天聡三年以後に、記録の専職があつたことは知らるるが、其以前の事は明白な記事がない。但し現に老檔の存在する処から考へると、太祖が満洲字を創立した後、間もなく記録は已に始まつたらしく、天聡三年には、殊に其の翻訳職と記録職とを分任するまで進歩したものと思はれる。この記事に大海榜式といふは即ち達海巴克什で、この相異が即ち康熙以前の実録と、後の改脩本との音訳の相違から来たのである。榜式、巴克什、ともに漢語博士から出でた満洲語で、文人の義となつて居る。庫爾纒榜式は改脩本には、庫爾禅巴克什となつて居る。筆帖式も蒙古語の必闍赤から来た満洲語で、始めは学士の義であつたが、後には書記といふやうな微官の名になつた。

 前にもいふ如く、加圏点檔案即ち新満洲字は、天聡六年に改定されたのであるから、この老檔の大部分が、最初旧字即ち無圏点檔案で書かれたことは、推測し得られオープンアクセスNDLJP:84 る。然るに現存の老檔は、其の写定の年月が明らかでないけれども、大方乾隆の頃に、反古同様に、鼠囓蠹蝕に委されてあつた旧本を発見して之を整理し、新たに改写して今の体裁にしたものと思はれ、文中処々に、「原檔残欠」と記した黄箋を貼附してあるから、此の改写の際に、其の読み難き旧字本の外に、更に新字本を作つたものと推測され、其の新字改定後に成つた崇徳年間の分は、乾隆帝の性質として、体裁の整備を好む上から、無圏点檔案を書き添へたものでもあらうか。

 太祖と殆ど同時代なる我が徳川家康公に、これだけの記録が備はつて居らうか。女直の夷種から勃興した汗のやつた事としては、実に見上げたものといはねばならぬ。此の記録は、始めて発見されてから七年後の今年に至りて、其の四千余張の全部が撮影されて、清朝史研究者の前に提供さるゝことゝなつた。現に整理中に在る写真は、遠からずして完成せられ、此の新鮮にして貴重なる史料は、研究者に自由に利用せしめらるゝことゝ為る筈である。

 此の以外にも、北京の内閣の庫中に久しく蔵せられて、近年学部に交付された史料中には、清初の文書等が少からずあることは、光緒二年に調製された「清査東大庫底檔」によりて、推知せられる。其中にはこの老橋に匹敵し得べき、もしくは以上なる根本史料の存在することも推測される。将来此等史料をも寓目する機会が更に来らんことを跂望して、既に見たる史料の解説をこゝに終局することゝする。

(大正元年十二月芸文第三編第十二号)


  附記

、此次の刊印に当り、漢文旧檔の項に補訂を加へた。

、漢文旧檔中の各項稿簿は、近年に至り羅叔言の史料叢刊中に

 太宗皇帝致朝鮮国書

 招撫皮島諸将諭帖

として刊行されたが、致朝鮮国書は天聡五年正月二十三日の分一道を脱し、劉興治等来書(即ち島中劉府来書)は天聡四年十月二十三日の分一通を脱し、其他にも誤謬があり、其の附圏したる各項は皆遺脱せる所の者である。又羅氏は奏疏稿を天聡朝臣工奏議として刊行したが、これも天聡六年正月参将姜新の奏疏の下半を脱し、猶ほ寧完我、范文程、孫応時等の奏疏三本を全脱して居る。

オープンアクセスNDLJP:85 、大正六年、余は北京にて趙爾異氏の厚意により清史館の史料を一覧した際に、満文老檔の原檔が猶保存されてあつたのを見ることが出来た。しかし近年になつて、清史館にあつた史料が往々散佚して、売物に出るのを見ることがあるから、その原檔が猶今日保存されてあるや覚束なく思ふ。

(昭和三年十二月記)

 
 

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