清朝姓氏考

 
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清朝姓氏考
 
 清朝の姓氏は太祖実録によれば、愛親覚羅 Aisin gioroである、此は天女仏古倫の生んだ始祖からして、已に称へた姓であるといふことになつて居るが、そこらは何れ疑はしい。愛新といふのは満洲語で金の義である。覚羅とは族の義だといふ説があるが、通例満洲語の氏族はHalaであつてgioroとはいはない、朝鮮語には겨래といふ戚族の意義の語があるから、或は邦語の「うから」「やから」の「から」などゝ共に皆同一源から出たものであるとすれば、覚羅も族の義としても差支へがないやうである。尤も満洲には覚羅姓を称へて居る者が非常に多いので、清朝の支族として、宗室の次に列する覚羅の外に、猶種々の覚羅がある。八旗満洲氏族通譜に、

覚羅為満洲著姓。内有伊爾根覚羅 Irgen gioro 舒舒覚羅 Shushu gioro 西林覚羅 Sirin gioro 通顔覚羅 Dongyan gioro 阿顔覚羅 Ayan gioro 呼倫覚羅 Hulun gioro 阿哈覚羅 Aha gioro 察喇覚羅 Chara gioro 等氏

といつて居る。それから推して見れば愛新覚羅も亦此等の覚羅と同様なる一種オープンアクセスNDLJP:64 の覚羅であるやうにも思はれ、通譜に愛新覚羅だけを載せなかつたのは、国姓であるから避けたのだとも言はれるが、それにしても此等の覚羅が国姓に関係があるとも無いとも、通譜が言はないのは不審である。

 覚羅に就て満洲に居る旗人の間に、一の常套語がある、即ち覚羅姓趙といふことである。此の覚羅は勿論清朝の一族の覚羅を指すらしい。但し其の由来を質しても、旗人等は此れ以上更に何にも知らない。けれども満洲人が漢姓を称へるといふことは、随分古くからある例で、金史の国語解に已に金人の姓と漢姓との対照表を挙げてある。其後明代になつても季娃、楊姓[1]、其他種々の漢姓を称へて居つたことが見える。然らば清朝の祖先は、漢姓として趙氏を称して居つたらしく思はれるが、此に又反対の証拠があるから益々不審である。

 太祖皆録に記してある発群の伝説は万匁既以来の伝説たる三仙女[2]の事から、明初に於ける建州左衛の争乱の事実[3]に接続して、シカも其事実をも全く伝説化して、前後の錯乱を来して居るが、此は皇明実録、東夷考略、吾学編、名山蔵などの明の記録、西征録(李蔵の著)東国与地勝覧、国朝宝鑑、燃藜室記述などの朝鮮の記録によりて考へると、其の事実が明瞭になる、即ち太祖実録では、

愛新覚羅氏布庫里雍順

范察

肇祖原皇帝都督孟特穆Dudu Mengtemu

├─充善Chungshan Toimo
│ │
│ ├─妥羅Tolo
│ │
│ ├─妥義謨Toimo
│ │
│ └─錫宝斉篇古Sibaochi Fyangü
│   │
│   └─興祖直皇帝都督福満Dudu Fuman
│     │
│     ├─徳世庫
│     │
│     ├─劉闡
│     │
│     ├─索長阿
│     │
│     ├─景祖翼皇帝覚昌安Giochangan
│     │ │
│     │ ├─礼敦巴図魯
│     │ │
│     │ ├─額爾衰
│     │ │
│     │ ├─界堪
│     │ │
│     │ ├─顕祖宣皇帝塔古世Taksi
│     │ │ │
│     │ │ └─太祖弩爾哈斉Nurhachi
│     │ │
│     │ └塔察篇古
│     │
│     ├─包朗阿
│     │
│     └─宝実

└─褚宴Chungyan

といふ世系になるが、明、朝鮮の記録では〈朝鮮の方を主にして明の書き方と相違してある者には明の方に方廓を付する〉オープンアクセスNDLJP:65 

┌─建州左衛都督童孟哥帖木児
│ │ 猛可帖木児
│ │
│ ├─童倉
│ │
│ └─董山
│   │
│   └─脱羅脱脱

└─凡察


  叫場
  │ 教場
  │
  └─塔失
    │ 他失
    │
    └─奴児哈赤

となつて居る。此の孟特穆が猛可帖木児と同人であることは、伴信友が巳に気づいたらしく中外経緯伝に見えて居る。さうなると充善が董山で妥羅が脱羅であることは殆ど考ふるまでもなく、覚昌安が叫場又教場で塔克世が塔失又他失であることも明かであるが、明、朝鮮の記録には都督福満に対すべき一代が出て居らぬので、叫場、塔失父子が董山の末孫であるかどうかは確かでない。尤も黄道周の著と称する博物典彙[4]には董山を奴児哈赤の祖先なりとしてあるが、此書は明末の建州衛の事を記した書中で、どちらかといへば晩出の書で、あまり確実なものとは言へない。比較上確実と思はるゝ東夷考略などには単に奴児哈赤は建州の枝部なりとしてある。此の事は後に至りて更に論ずることゝして、もし太祖実録の言ふ如く愛新覚羅氏中に、孟特穆、充善、妥羅といふ父子祖孫があるとすれば此が果して何氏になるかといふことを考へねばならぬ。明、朝鮮の記録に従へば猛可帖木児、童倉、董山といふ父子は董氏でなければならぬ。猛可帖木児を朝鮮では童孟哥帖木児と呼んで居る、其子に童倉があり、董山があるから、童董両字は通用で、姓を見はしたものに相違ない。〈氏族通譜にも佟山といふ人がある佟氏も満洲の姓氏だから此考は無理でない〉金史国語解によれば董姓があつて、童姓がないから、董氏と定むる方が適当である。然るに国語解では朮虎曰董とあつて、愛新とも覚羅とも似つかぬ女真姓である。

 氏族通譜によれば、満洲には董鄂氏といふ大族がある。其部長たる和和哩は太祖の時長公主に尚した人であるが、此事に就ては礼現王の嘯亭雑録[5]に、

高皇初起兵時。満洲軍士尚寡。時董鄂温公諱何和理者。為渾春部長。兵馬精壮。雄長一方。上欲藉其軍力。乃延置至興京。欵以賓礼。而以公主妻之。乃率衆帰降。兵馬五万余。我国頼之締造。薩爾滸之役。卒以敗明師者。皆公兵馬之力也。其前妻聞其尚主。掃境而出。欲与之戦。高皇面諭之。然後オープンアクセスNDLJP:66 罷兵降。故今襲世爵者。皆係公主所出。其前夫人所出者。不許列名。国語呼為厄赫媽媽。蓋譏其鮮徳譲之風也。〈厄林媽媽とは悪婦の弐なり〉

とある。通譜には董鄂の地方に居つたから、地名によりて氏としたのだと書てあるが、此の董鄂の地といふのは、鴨緑江の支流で渾江即ち昔の婆猪江、又佟佳江に注ぐ董鄂河沿岸の地方である。然るに太祖実録には、又此地方を新董鄂とも称して居るから、旧董鄂ともいふべき地方が外に存しなければならぬ。鴨緑江の沿岸、今の輯安県地方をも、洞溝と呼ぶが、此も語音からいへば董鄂に近い。又何和理が渾春の部長だといひ、国史本伝にも此人の先世が瓦爾喀即ち朝鮮でいふ兀良哈又は斡児哈[6]から董鄂に遷つたとあるから、此地方も関係あるに相達ない。さうすれば董鄂の地名が姓氏の名になつたか、董氏が董鄂の地名になつたかは定め難いが、とにかく董鄂に居つた董氏の大族では、太祖の同時代に何和理といふ人があるといふことを見逃してはならぬ。

 処で明の記録では太祖の姓を佟氏としてある。佟姓も違東では名族であつて、永楽十一年、黒龍江の海口に近い地方、今の露領のチルに建てられた刻石、永寧寺記に佟答剌哈といふ名が見え、此人はまた皇明実録にも、其他の明の記録にも見えて居る女真の名族であるが、八旗氏族通譜に達爾漢図墨図としてあるのは、即ち此人である。此人の末孫は撫順地方に居住して、太祖に帰降した佟養正であるけれども、元来は佟佳地方に居つたと通譜にあるから今の渾江、即ち佟佳江沿岸に居住したのである。佟佳江は吉林通志に古い記録を引いて佟家江と書いてあるから、佟佳氏が地名から姓となつたといふ通譜の説は誤りで、やはり、佟家即ち佟氏の一族が居つたから婆猪江に佟家江の名を遺したらしい。太祖が明に対して盛んに敵対を試みる頃、遼陽の佟卜年[7]といふ者が太祖及び佟養性〈佟養正の従弟〉と同族なりとの嫌疑で明の為に殺されたことがある程だから、此の氏族の蕃衍も中々大きなものであるが、佟養性が太祖へ帰服したのは、天命四年即ち明の万暦四十七年で、佟卜年の寃死したのは天啓五年即ち天命十年の事であるが、太祖を佟姓とした明の記録は恐らくその以前からあるであらうから、太祖と佟養性、佟卜年とは元来何の関係もなしに、各々佟氏として知られて居つたのであらうけれども、佟氏の大部分は馬察地方、即ち燃藜室記述に見ゆる馬家寨、雅爾湖地方、即ち太祖実録の鴨児匱で今の渾オープンアクセスNDLJP:67 江に注ぐ大小雅児滸河沿岸、其に佟佳江地方に居住したことは、通譜にも見えて居るから、此等の佟氏と太祖とは、早くより関係をもつて居つたのであらう。しかし太祖が此の佟氏と関係あるといふことゝ、其の覚羅氏であるといふことは益々一致し難くなる。

 但し次の如きことは考へらる。董鄂氏は五万も兵馬を有して居つた大族であるのに、八旗通譜ではその居住地が董鄂地方に限られて居るのが疑はしい。董鄂の地は佟佳氏の居住地たる佟佳江、馬察、雅爾滸の中間に介まつて居ることなどから考へると、董氏も佟氏も原は一姓ではあるまいか。金史国語解には、董氏のみあつて佟氏はないから、佟氏といふものは董氏から分れて、類似した音の字に変つたものではあるまいか。かくすれば太祖が明に対して佟氏を称して居ることが、即ち内部に於て董氏の猛可帖木児及び董山の末孫であるとしてあることゝは一致し得ることゝなる。太祖が内部に於て董氏と称しながら、何故明には佟氏で知られて居るかといふことは、佟氏は佟答剌哈以来明朝に従順で其の覚えもよく、恩賞なども都合よく運ぶのに、董氏は董山といふ雄猾な酋長が明の中世に盛に明を悩ました果は、誅殺されたが、其余威が絶えないで、明でも已むを得ず其子の脱羅に職事を世襲させた位だから、女真族の間に人望のある姓氏なれども、明の覚えはめでたくないので、太祖はこゝに董佟二氏の使ひ分けをしたのではあるまいかと思はれる。

 以上で董佟二氏の事は先づ方づくとして、覚羅氏と董氏との方は、まだ之だけでは方付かぬのである。処でこゝに一の妙な事実から、又之をも方づけ得られるやうになつて来た。清朝の嘉慶の頃、有名な満洲人に鉄保といふ詩にも書にも工みな大官があつた。字を冶亭といふ。此人の事に就て、嘯亭雑録には左の記事がある。

近日董鄂冶亭制府考其宗譜。乃知其先為宋英宗越王之裔。後為金人所沢処。居董鄂。以地為氏。

これで見ると董鄂氏が宋の後で趙氏であることが知られる。然るに此の鉄保の董鄂氏は元来覚羅氏であるといふことが近年宗室盛昱の編纂した八旗文経の作者考の中に記してある[8]〈[#底本では注釈なし]〉

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鉄保字治亭。一字鉄卿。号梅庵。旧譜姓覚羅氏。自称趙宋之裔。後改棟鄂。

鉄保の覚羅は宗室覚羅の覚羅ではなく、恐らく満洲各地に散布せる各種の覚羅の一であらうと思はれるけれども、要するに覚羅姓趙といふ伝来の語と一致し、且つそれが又董氏とも関係あることは此で証明せられる。

 最後に残つた問題は、満洲居住の旗人が伝へて居る愛新覚羅氏と趙氏との一致が如何にして出来るかといふことであるが、此は二様に見られる。一は太祖は其の国号を始めて建てた時に金国 Aisin gurunと称した。此時に元来満洲の各種の覚羅の一であつたのを改めて愛新覚羅と称したものと見ること。一は金史国語解の姓氏によれば、斡准曰趙とある。此の斡准といふのが、其の音愛新に近い。金史国語解では、金を按春といつて、愛新とはいはぬ。しかし満洲語の愛新の転であること疑ない。金より以来六百余年の間には、按春が愛新にもなるのであるから、斡准も又愛新と転じ得ないことはない。さうすれば少々牽強に渉るかも知れぬが、金代で趙姓を称した斡准が愛新になつたと見ることも出来る。これでどうかかうか愛新覚羅が趙姓であつて、シカモ不思議にも清朝の天子がやゝもすれば、担ぎたがる金の末孫ではなくて、反て趙宋の末孫だといふことになる。此の結論は決して牽強ではなくして、満洲居住の旗人が無意識に伝へて居る覚羅姓趙の語に帰着するのである。

 勿論董鄂と覚羅とは、元来右の如く同族の関係あるとしても、太祖の頃は明らかに分れて居つたに相違なく、分れた上からは太祖の家は覚羅に属して居つて、董鄂に属せなかつたことも明らかである。さうすれば太祖の家の祖とする猛可帖木児、董山などは、これば董氏の人で、覚羅氏でないから、恐らくは、董鄂の名族何和理の家の祖先であらう。此家が渾春、瓦児喀から遷つて董鄂へ来たといふのも、猛可帖木児、董山父子の事実に符合する。〈此事は別に詳論するを要す〉太祖は多分、其長女の増として、何和理を迎へて之と一家の好を結び、其家系をも併せて、己が家に取つてしまつたのであらう。東夷考略には、固より太祖を建州の枝部として、建州左衛の都督たる正統の董氏とは書いてないのである。是が真正の記録である。

此の稿を書いて居る時に、恰かも清朝の最後の幼帝が辞政の報を得た、昔からして宋の太祖の敵を殺さぬ功徳で、趙氏の後は絶えぬ、元の順帝も宋の瀛国公の子オープンアクセスNDLJP:69 だといふ説がある位であるが、若し愛新覚羅氏も趙氏の後であるとすれば、此たびの罪なき幼帝の平和なる譲国が、其家の運命を重ねて将来に保留したやうな気がする。自分は憐れなる隣国の幼帝の上に幸多かれと祈る一人である。

(明治四十五年三月、四月芸文第三編第三号、第四号)

  附記

一、本文中の満洲語は写本満文太祖本紀、満文宗室王公表伝、満文八旗氏族通譜により、羅馬字を以て改写せり。

二、本文中に考証の誤りあり、これは礼親王嘯亭雑録の誤を襲つたのである。宋史の宗室列伝には、越王偲を神宗の第十二子として、初めには武成軍節度使検校太尉祁国公を授けられ、哲宗の時、開府儀同三司を加へられ、永寧郡王に封ぜられ、更に進んで眭王に封ぜられ、徽宗の時に進で定王、鄧王、越王に封ぜられ、靖康元年には永興成徳軍節度使雍州牧、真定牧となる、二年には徽宗欽宗とゝもに金営に送られて北行し、韓州にて薨じたとある。大金国志には越王の名を俣として、燕王の名を偲としてあるけれども、是は誤りである。とにかく越王は神宗の子で、英宗の子ではない。聊かこゝに考を補つて置く。

  附註

  1. 李満住の事は明、朝鮮の諸種の記録に見えて居る、又李撤赤哈といふ名も見える。楊木答兀の事は李蔵の西征録等に見ゆ、即ち猛哥帖木児を襲殺せる者、其他張姓には張額的里、王姓には王台、王杲、王兀堂等があり、劉姓には劉八当哈があり、趙姓には趙那渣があり、いづれも東夷考略に見えて居る。
  2. 高句麗三仙女の伝説は高麗李奎報の東国李相国全集巻三東明王篇に出でゝ居る。満洲の開闢説たる三仙女伝説も此から出でたものらしい。
  3. 建州左衛争乱の事実は李蔵の西征録記する所が最も翔実である。
  4. 博物典彙は黄道周の著と称せられ、清朝官撰の皇朝開国方略も亦之を採つて居るけれども、実は坊刻の俗書で、決して黄道周の如き学者の手に成つた者ではない。清朝にてはたゞ此書が明末の奴酋の事を記せる書中、やゝ奴酋を悪罵してないので之を引用したのである。
  5. 嘯亭雑録は礼親王昭植の著で、清朝掌故に関する書として最も学者に信用せらるゝものである。
  6. 斡児哈の名は盛京崇謨閣所蔵の朝鮮国来書簿に出て居る。
  7. 佟卜年の事は銭謙益の有学集外集中、明故山東登薬監軍道按察司僉事修公墓誌銘に出て居る。有学集外集は鈔本で、銭氏の未刻文を集めた者らしく、余は明治三十八年、東京文求堂の蔵本より此篇を鈔出したのである。
  8. 八旗文経の作者考は盛昱の表弟楊鍾義の筆に成つて居る。

(昭和三年十二月記)

 
 

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