尭典の歌永言声依永二句に就きて

 
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尭典の歌永言声依永二句に就きて
 
 尚書尭典(偽古文にては舜典)に詩言志、歌永言、声依永、律和声の句あり。此の中二句の永字を史記漢書王充論衡等に詠若くは咏に作れることあり。史記にては普通に行はるゝ諸本の中、及古閣本には歌長言、声依詠に作れり。〈五帝本紀〉漢書にては礼楽志に詩言志、歌咏言、声依咏に作り、芸文志には書曰、詩言志、哥詠言、故哀楽之心感、而哥詠之声発、誦其言謂之詩、詠其声謂之哥とあり。王充論衡射短篇に尚書曰、詩言志、歌詠言、此時已有詩也とあり。陸徳明の経典釈文〈唐初の著述にして当時編纂されたる五経正義以前の古本を多く引用しあるを以て学者に重ぜらるゝ者〉によれば永字は徐仙民の音に詠とあり、又字の如しとあり。孔頴達の正義にも定本経作永字とあり、されば六朝以前の古本には詠に作れる者ありしことを見るべし。

 此の永詠の相異は尭典の義理の内容に於ては誠に瑣細なることの如くなれども、此によりて尚書の今古文に関する疑問、史記の異本、其他尚書を引用せる他書との関係等種々の問題に触接するを以て、其の研究の発展に就き、頗ぶる興味を感じ、オープンアクセスNDLJP:180 少しく所見を開陳することゝせり。其中にて最も重大なる問題は、勿論尚書の今古文に関することなるが、こは随分古くより学者間に争論の種子となれる者なり。漢の文帝の時、済南の人、代生が二十九篇の尚書を以て学者に教へしより、再伝して欧陽生あり、其後大小夏侯氏に伝へて、欧陽氏と並びに学官に立てり、此れ西漢の時の官学の尚書にして、三家ともに、伏生が古文を易へて当時の隷書に訳したる者を用ゐたれば、之を今文尚書といふ。然るに此頃に別に古文尚書を伝ふる者ありき、即ち孔子の奇孫たる孔安国が武帝の時に当つて、其家に存せる古文尚書を今文として読み、因つて其家を起せしが、伏生の今文に逸せる者十余篇ありき右は史記の儒林伝に見えたる所なるが、司馬遷は蓋尚書滋多於此矣とて、其の意を徴示せり。漢書によれば、孔氏の古文の発見には神秘的伝説ありて、孔子の旧宅の壁中より出でたりし其の篇数を十六とせるが、要するに是れ古文尚書といへる者の世に知れたる始めなり。安国は之を朝廷に献じたるが、故あつて未だ学官に立てられざりき。其後成帝の時に至り、劉向が中古文〈中秘の古文といふ義〉を以て欧陽夏侯三家の経文を校して、其脱簡を発見せしといふも、成帝が張覇が上れる百両篇の古文尚書を校し、其の偽作なることを発見せしといふも、皆恐らく此の孔氏の古文ならんといへり。後漢に至り、杜林といふ者、西州に於て漆書の古文尚書一巻を得たり、林が同郡の人賈達之が為に訓を作り馬融伝を作り、鄭玄之を注解す、古文尚書、これより世に顕はれたり。以上の事実に拠れば、漢時に古文尚書三種あり、一は孔氏の壁書、一は張覇の百両篇の偽書、一は杜林の漆書なり。東晋の時に至り、予章の内史梅賾蹟、伏生の尚書以外に二十五篇を増多し、又伏生が二十八篇内より五篇を分出し、孔安国の伝及び序あり、之を孔壁の真本として官に送り、今文三家の書と並び行はれしが、唐初に至り、孔頴達之が正義を作りしかば、後遂に此本のみ行はれて、古来の真本は廃して行はれざることとなれり。以上は今古文尚書の世に出でたる次第の大略なるが、此外に漢時に河内の女子が出せる偽泰誓篇、並びに南斉の時姚方興が大航頭にて得たる舜典二十八字に関する事などあれども今は姑らく略に従ふ。

 然るに唐以後、久しく疑はれずして行はれたる梅氏の古文尚書に対して、最初の疑問を発せしは、宋の呉才老、朱子の二大儒にして、〈陳澧は孔頴達が正義を作る時、巳に孔伝の晩出なることを認め居たりともいへり〉之に次で元の呉澄は書纂言を著して、明白に古文を排斥せり。明に至り、梅鷲に尚書攷オープンアクセスNDLJP:181 異の著あり、始めて詳かに梅氏古文の偽作を抉摘し、更に清の閻若璩が尚書古文疏証、恵棟が古文尚書攷出でゝ、梅氏の偽、遂に定論となれり。其間固より多少の異説を唱ふる者なきにあらず、毛奇齢が清初に於て巳に閻氏に対虫してより、王劼、張崇蘭、洪良品等、各々古文を支持して著書ありと雖も、頽波を廻らすに由なかりき。是れ偽古文と今文との争論にして、尚書研究の第一段なり。其後尚書の研究は更に歩を進めて、真古文と今文との比較を主とする者あるに至る、真古文とは馬融、鄭玄が注せし本、社林の漆書に本づける者にして、即ち孔氏壁中本と伝へられたる者なり。閻恵二氏の若きも、之を真古文とし、江声、王鳴盛等も之によりて偽孔伝、蔡伝を攻撃する材料とし、近日皮錫瑞の今文尚書攷証王先謙の尚書孔伝参正の若きは、実に尚書の真古文説、今文説の比較研究を主とせる者なり。中には極端なる公羊学者たる劉逢禄、宋翔鳳、魏源等の如く、馬鄭本も逸十六篇も皆真古文にあらずと説く者あるも、未だ以て定説と為すべからず。要するに両漢の間に、尚書に古文説、今文説あるは、争ふべからざることにて、此の古文説は実は劉歆より創始せられたりと為す者あり、とにかく劉歆の説、衛宏、賈達及び馬鄭注に、区々にして一定せざるも、こは東漢学風の西漢家法と同じからざる結果にて、併せて之を古文説と称することは妨なし。西漢今文尚書説に在ても、欧陽と大小夏侯とは、又各々異義ありて、必ずしも一致せず、是れ今文説中にも、亦岐異あるなり。皮王二家の著述は、此等今古文並に今文異派の説義に就きて、頗る詳密に剖析せり。惟だこゝに注意すべきは、近時の今文学派、即ち公羊学派は、其の祖たる荘存与よりして、已に偽古文を排斥せざる一種の趨嚮あることにて、最近尚書研究の大師たる皮錫瑞の若きも、偽孔経伝の偽たることは明らかに認めながらも、此の偽作は実に魏の王粛に出でたりとする前人の説を取り、王粛の学は、一方賈達、馬融を承けたるも、一方は又遠く欧陽に本づきて、古文今文に兼ね通じたれば、偽孔伝中には今文説の最旧派たる欧陽義を含むことを論証せり。

 尤も尚書の研究は今文古文の争論に行詰りたるにはあらずして、他の方面より経文の根本的研究を企てたるものなきにあらず、道光年間に於て襲自珍は已に此事に志したれども、其の遂に成ることなきを歎じて、志写定華経一篇を作れり。其の大意は易書詩春秋の文は、十に五は仮借にて、其の本字は蓋し罕なり、其の本字をオープンアクセスNDLJP:182 尽く求めんとすれども肄ふ所も孤立にして、漢師の旧記も闕けたれば、孰れか正字、孰れか仮借なりやを明らかに知り難く、一に択びて定むるの目的を達することを得ずといふに在り。当時の同志者として、王引之、顧広圻、李鋭、江藩、陳奐、劉逢禄、荘綬、甲の名を挙げたれば、此等当時第一流の学者間には、已に此種の希望は存したりしなり。近日に及びて呉大澂等は実に此の希望の一端を試みたり、其著たる字説には間々古経の通仮若くは訳文を匡して、精当を極めるたる者あり、彼は遂に此の最新の研究法により伏生今文尚書中の周書大誥を従来周公摂政の時の作とせるものを攷正して武王の命なりとし、伏生の大伝に大誥を金膝の前に列せるを是なりとせり。又康誥を従来周公が成王に代りて康叔に告ぐるの文なりとせるを、毛公鼎の例を以て推して、同じく武王の命なりとし周書二十篇中、惟だ酒誥、梓材、召誥、洛誥、多士、多方、顧命七篇のみ成王の時の作なりとせり。〈近時林泰輔氏、毛公鵬の考文を史学雑誌に載せられたる中には呉大澂の訳文をも引用せるに此鼎文の尚書の誤謬を正すべき価値ありとする呉説に一言も及ばざりしは不審なり〉されば尚書研究は已に経文の根本にまで及びたるも、こは本問題と直接関係なきを以て、こゝには深く論じ及ぼさずして、主として今古文の研究に関する疑義より永詠二字の相異を考検せんとす。

 此の永詠の相異に就きて、前に引きたる如く、唐初に於て、陸徳明、孔穎達の二人は巳に之に注意したり。陸は其の永字に二義あることを容認したれども、孔は定本に従ひて、永を訓じて長と為すべき者なることを断ぜり。〈勿論こは歌永言の句の永字に就て言へるなり〉其後久しく此の相異に注意せる者なかりしが、近日皮錫瑞の今文尚書攷証に至りて、詳細なる論弁を加へたり。但し皮氏が見たる史記は汲古閣本にあらざりしと見え、普通の評林本其他と同じく歌長言、声依永とあるを史記の本文とし、こは今文の欧陽説を用ゐたるなりとし、漢書の経を引きし文が史記と同じからざるは、大小夏侯説を用ゐたりといひ、王充も班固と同じき本に拠りたりとせり。漢書礼楽志の咏字に就きては、顔師古の注に咏古詠字也、在心為志、発言為詩、咏永也、永長也、歌所以長言之とあるを引き、又説文の歌詠也、又哥声也、古文以為謌字、詠或作咏とあるを引きて、哥歌詠咏皆即ち一字なりとなせども、班固が咏字を用ゐたるは歌詠の詠にて、永字として解せずといひ、礼楽志の篇首に和親之説難形、則発之於詩歌詠言鐘石筦弦とあるを引き、詠を以て実字と為せる証拠なりとせり。然るに皮氏が疑問として遺したりしは、史記が上旬に於て歌長言とし、史記の慣例として詁訓の字を以て経文にオープンアクセスNDLJP:183 代へ、永を長としながら、下旬には声依永として、永を長に代へず、上下文を異にせしことにて、皮氏は疑ふらくは、史公が拠れる経文は上下の両永字に、其の意義必ず異なることあらん、若し皆永に作りて、皆長と訓ずべくば、上句の歌長言とあるは通ずべきも、下句の声依永とあるは不辞甚しといひ、釈文に徐音詠とあるは蓋し今文尚書に本づけるなるべく、疑ふらくは史記の永字は、亦当さに詠と読むべし、漢書の志に明らかに咏字に作れるを顔師古が永長の義を以て解するは非なりと。

 元来史記が尚書を解釈するに今文説を用ゐしや、古文説を用ゐしやは、又一の問題となり居る者にして尚書今古文注疏の大著ある孫星衍の若きは、司馬遷は古文を用ゐたる者なりとせり。然るに漢書の儒林伝に、司馬遷が孔安国に従て故を問ひたるを以て、遷が書に載せたる尭典、禹貢、洪範微子、金縢諸篇には古文説多しとあるにより、此の諸篇は古文説なれども、其以外は皆今文説なりとする者あり、王先謙の如き、是なり。又史記の用ゐし所は、徹頭徹尾今文説にして、馬鄭の古文と異なりとし、今文中にても、当時行はれしは欧陽説なれば、史遷は之に拠り、大小夏矦説と異なりといふ者あり、陳寿祺、皮錫瑞の若き、是なり。されば上に挙げたる皮氏の説は、史記を今文欧陽説と見たる立論なりと知るべし。

 王先謙の尚書孔伝参正は、皮氏の書に比して、更に晩出の者なるが、其書の七八分は皮説を取りたるも往々又所見の同じからざる処あり。王氏は漢書によりて、史記は尭典に古文説を用ゐたりとし、史記の歌長言の集解に馬融注を引きて謌所以長言詩之意也と注せるにより、古文の永に作れることは、馬注が明証なれば、班固、王充の今文を用ゐて詠に作れると同じからず、史遷の歌長言に作りて、長を以て永に代へたるは、又尭典に古文説を用ゐたるの一なりとし、皮氏の欧陽異義なりとするを非としたり。王氏は又声依永とあるも古文なりとし、史記の異本に就きては官本此の如しとて、汲古本の詠に作れるを誤れりとし、上文既に永に作りながら、下文にて又詠に作るべきはづなし、且つ集解に引ける鄭注に、声之曲折又依長言とあると合せずとして、全く之を斥けたり。但だ王氏の此の説は、皮氏の疑問を全く解決したる者にあらず、王氏は二永字の同一なるべきを断言するも皮氏は史記の一は長と訳し、一は訳せざるにより異義あるべきことを想定したる程なれば、汲古本の詠に作れるは、正に其の疑問に適合せる者にて、鄭注の長言の説は固より正義の此オープンアクセスNDLJP:184 の句を解して、謂五声依附長言而為之とあると同じく、古文説なれば、今文説を主持する皮氏の疑を釈くに足らざるなり。

然るに此に汲古本の声依詠とあるを誤れりとし難き他の証拠あり。元来汲古本は単集解本として、宋本の面目を存したる佳処あること、瞿氏の鉄琴銅剣楼書目、宋本史記集解の攷証にも見えたるが、近頃余が挿架に帰せる朱紹興八年板本史記集解と対校するに、汲古本は必ずしも宋本の佳処を尽く具存せるに非ざるも、此に問題とせる下句の詠字に就きては、宋本も汲古本と同一なり。されば王氏が元来信用薄き官本に拠りて史記が古文説を用ゐたる証とするは、甚非也。尤も宋板の集解、索隠、正義合刻本を覆刻せる震沢王氏本史記よりして、已に永字に作りたれば、史記の真面目を失したることも已に久しといふべきも、同じく宋時の板本にても単集解本の貴きことは、此の一事にても証せらるべく、皮氏が誤れる板本に拠りてすら、彼が如き疑問を発せるは、又其の研究の精細なることを見るべく、今文尚書攷証が近代の名著たる価値も、推して知るべし。近時金陵書局本史記は宋元本十数種によりて校正し、其札記も世に行はれ居れども、此字に就きて何等の所見なきは、かゝる問題に注意せずして漫然校過せる為なるべし。研究心の伴はざる漫然たる校勘の実用に適せざることも、之によつて知らるべし。

 余は又文心雕龍に於て、一の証拠を得たり。明詩篇に大舜云、詩言志歌永言とありて、楽府篇には、楽府者声依咏、律和声也とあり正しく上句は永に、下句は咏に作れり。此書には又数種の板本ありて、余がこゝに引けるは較々旧き者に属せる明の閔斉仮の五色批本、及び何允中の漢魏叢書本に拠れり。清朝刻本は黄叔琳本、紀昀朱批本ともに既に改めて声依永とせり。清朝の学者は動もすれば明人が恣に古書の字を改むることを難ずれども、こは反つて清人が明人の改めざりし旧本を竄改せし例なり。

 余は以上に論じたる結果として、左の諸点を抽出し得る者と信ず。

、尭典の歌永言、声依永の二句は今文説欧陽義によれば、歌永言、声依詠とすべく、大小夏侯義によれば歌詠言、声依詠とすべく、馬鄭古文説によれば歌永言、声依永とすべき者なること。

、史記の尭典等各篇に尚書古文説を用ゐたりといふことの未だ確ならざるこオープンアクセスNDLJP:185 と、並びに今文欧陽説を用ゐたりといふことの較信ずべきこと。

、尚書を引用せる他書は、本書よりも、反つて旧き面目を存すること。

、尚書を引用せる他書の中にても、史記の若き、関係近き者は、宋代より、已に晩出の本書に拠つて改められたるも、文心雕龍の若き縁故遠き書は、明代までも旧本の面目を保存せること。

、史記の中にても、旧板本の貴ぶべきは勿論旧板本の中にても、最も旧き体裁即ち唐以前の体裁を存せる単集解本の貴ぶべきこと。

、文心雕龍は黄本、紀本を善本と称するも、其価値は評注に在りて、本文の貴ぶべきは、反つて明以前の旧本に在ること。

附記、此一篇は去る四月、東京史学会大会に於ける研究発表の講演会に際し、余が大意を略述したる者にして、六十六番を作るに臨み聊か其の足らざる処を補説したり

(大正三年九月芸文第五年第九号)

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又附記

、百衲本史記の五帝本紀は北宋小字集解本を用ゐたるが、其の影印本によれば、尭典の此二句は汲古本と同一なり。

、漢書芸文志の哥詠言の句は本文には汲古本を用ゐたるが、明南監本、広東崇文書院本ともに哥を歌に作れり。

、文心彫龍は敦煌唐草字写本、明嘉靖本(四部叢刊本)、明嘉靖本(四部叢刊本)、両京遺編本、王惟倹訓故本、梅慶生校注本ともに歌永言、声依永に作れば、余が之に関する結論は未だ確ならす。

(昭和三年十月記)

 
 

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