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ア・ゲルツェン(1812年-1870年)はモスクワの或る富裕な家庭に生れた。彼の母親はドイツ人であった。彼は相当学識ある露・獨・佛等の家庭教師と、獨・佛の18世紀の哲学者の著書を集めた豊富なる父の図書室とに依って教育された。佛の百科全書を読んだ事が彼の心に深い痕跡を残し、その為後年、若き友人たちと同じく獨の純正哲学の研究に貢献した時にも、彼は18世紀の佛哲学者から受けた思索の具象的方法及び心意の自然的傾向を決して棄てなかった。

1830年のフランス革命が全欧州の思想家に深い印象を与えたころ、彼はモスクワ大学へはいって物理と数学を学んだ。ゲルツェンはその親友である詩人オガリョーフ等と共に青年結社を結び、政治上社会上の問題を討議したり殊にサン・シモン主義を提唱したりした。そして当時の露皇帝ニコライ1世を諷罵した或る歌が之れ等の結社から唱えられたため、ゲルツェン等は捕縛された。相当に重罪に処せられる所を或る顕官の運動で赦され、ゲルツェンはウラル地方のヴャトカに追放され其処で6年を暮した。1840年赦されてモスクワに帰った時、彼はロシアの文壇が獨逸哲学の影響を受けて形而上学の抽象的思想に夢中になっているのを見出した。ヘーゲルの絶対説、その人類進歩に就ての三体説及び「実在するものは全て合理である」という結果に対する効果が盛に論議されていた。そしてヘーゲル崇拝家はニコラス1世の専制政治をも合理的であると主張し、大批評家ベリンスキイ(1810年-1848年)ですらも専制政治の歴史的必然説を承認せんとしたほどであった。ゲルツェンも無論ヘーゲル研究に努めたが、彼はその研究によって其友エム・バクーニン(1924年-1876年)と同様全然異なった結論に到達した。かくてゲルツェンやバクーニン、ベリンスキイ、ツルゲーニエフチェルヌイシェーウスキイ等は西欧主義〔ザバドニーチェストフ〕の左翼を組織し、ア・スタンケヴィツチ(1817年-1840年)一派はスラヴ国粋主義〔スラウヤノフイーリストフ〕の右翼を組織した。

西欧主義の大体の綱領は、ロシアは欧州諸国からの除外物ではなく、ロシアも亦西欧諸国の通ってきたと同一の発達の経路を必ずや通るであろう。従ってロシアの踏むべき次の階梯は農奴制度の廃止(後年1857年より63年までに断行された)である。そして次には西欧諸国に於て発達したと同様の発達を見るであろう、というのである。彼らはつまり広義でいう西欧文明の謳歌者であった。これに対しスラヴ国粋主義はロシアはロシア自らの使命をもっている。吾人はノルマン民族の様に外国を征服した事はない。吾人は今尚古い民族時代の組織を保っている。従って吾人は国粋主義者の所謂ロシア生活の三つの根本的原則、即ち希臘正教と露帝〔ツァーリ</ref>の絶対権力と家長的家族の原則に遵って、吾人自らの全然独創的な発達の経路を進まねばならぬというのである。ゲルツェン等前記の人々は西欧主義者の内でも最も進んだ意見をもっていた。即ち、西欧諸国に於て地主並に中産階級の両社が議会に於て無制限の勢力を占めた結果、労働者と農民との蒙った困苦、而して欧州の大陸諸国がその官僚的中央集権によって政治的自由を制限したこと、是等は決して「歴史的必然」ではない。ロシアは恁した失策をくり返す必要はない。寧ろ彼等先進国の経験に鑑みて反対に出でなければならない。而して其土地共有制や帝国の或部面に見らるる自治制や、或はロシアの村落に於ける自治体の制限を失うことなしに工業主義の時代を迎え得るなら、それは莫大な利益であるであろう。従って其村落自治体を破壊し地主貴族の手に土地を集中せしめ、而して無限、多種多様なる地方の政治的生活をプロシア人、或はナポレオン的の政治的中央集権の理想によって中央政府の手に掌握せしむるは、殊に資本主義の勢力の強大なる今日、最も大なる政治上の失策と言うべきである、と彼等は主張した。然るに、後年農奴制が廃止せらるるに至ったとき、この西欧主義者とスラヴ国粋主義者との間に最も注意すべき一致を確立したのであった。国粋主義者は総体に於て保守的ではあったが、その最も立派な代表者達の唱えた或点、即ち農奴制度の廃止に就いての農民の事実上の根本的制度たる村落自治体、普通法律、連邦制度の支持、その他信仰及び言論の自由等の主張は前者と相一致したのである。

ゲルツェンは1842年に再びノヴゴーロドへ追放され、次いで47年外国へ行ったが遂に再び母国へ帰らず70年に59才で、スイスに於て寂しく死んだ。その頃フランスに2月革命(1848年)あり、やがてナポレオン3世が出でて帝政時代再び出現し、フランスを中心に全欧を風靡していた社会主義運動の痕跡すらも一掃さるるに及んで、ゲルツェンは西欧の文明に深い絶望を感ずるに至った。彼はプルードンと共に『人民の友』なる新聞を巴里で発刊したが官憲の厭迫甚しく、遂にフランスから追われた。彼は其後スイスに帰化したが、1857年ロンドンに定住し、その年始めて自由なロシア語の雑誌『北極星』を発刊した。この誌上で彼は政治上の論文及びロシアの最近史に関する極めて価値ある材料であると同時に、嘆賞に価する追憶記『過去の事実と思想』を発表した。この雑誌の次に『鐘』と称する新聞を発行した。この新聞によって彼は海外に在りながら、その勢力はロシアに於ける一つの真の力となった。ツルゲーニェフはこの新聞の為に遠く援助する所があった。『鐘』紙上にはロシア国内では迚も発表され難い失敗の事実を摘発し、一方論説はゲルツェンによって政治文学稀にみる力と、内部的な温情と、形式の美を持って書かれた。『鐘』の多数はロシアへ密かに搬入され、至る所に撒布された。アレクサンドル2世皇后マリアまでがその毎号を読んでいた。ゲルツェンのロシア国内での勢力がその晩年おとろえて、彼にとって代わったのは共産党の青年たちであった。

ゲルツェンは政治、社会、哲学、芸術に関する多くの有名な論文を残したが、また『誰の罪?』〔クト ウイノワート〕ほか数種の小説を書いたことも忘れてはならない。問題小説である『誰の罪?』は1842年ノヴゴ―ロドに追放されたときに書き起したもので、ロシアに於ける知識的典型の発達史のなかにしばしば引あいに出される、彼の有名な代表作である。内容は前篇と後編とに別れていて、かなり興味ある複雑を示しているが、要するにこの全編の主要人物は、貧しい家に生まれて大学を卒業し、退役将軍邸に家庭教師となり、のち中学校〔ギムナジヤ〕教師となったクルチフェールスキイと、そこの将軍の妾腹の娘でクルチフェールスキイと、自由恋愛より結婚生活にはいったリューポニカ、それからクルチフェールスキイの旧友でその家庭に来って、恋の三角関係をひき起こしたベェリトフ、独身主義の医者クルーポフ等である。ゲルツェンは彼独特の簡潔、明快な、而も老巧な風刺に富んだ筆法を以て、彼らを心ゆくまで活躍せしめている。そこに描き出されたロシア貴族、官吏、軍人、知識階級〔インテリゲンツイヤ〕、保守階級、無産者、農奴等は、ゲルツェンの目をとおしては容赦なく衣をぬがされ、おどろくべき赤裸々とされて、その真実、その本体を毫も掩うよしがない。しかもこの全編は恰も現今わが日本に見るが如き社会問題、婦人問題、恋愛問題、教育問題、家庭問題等を多量に、また縦横に含み、そこに生ずる経緯の興味あり又おそるべき結果に向って徐々として進む。ゲルツェンはこの結果に至って、即ち三つの破壊された生活の残骸を指して、これは果して『誰の罪』であるか?と世間に問わんとしたのである。この問題小説はロシア後来の文学者、批評家に常に愛読され、諸種の議論の材料とされたもので、わが国には未だ紹介されていなかったのが不思議なほどである。

因にこの拙訳は1921年ベルリン、ラドゥイジュニコフ書店発行の露語原書による。

1924年1月
訳者