再び秦辺紀略に就て

 
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再び秦辺紀略に就て
 
 曩に本誌第三巻第三号に於て、梁份の秦辺紀略に就て、聊か記す所ありたれども、猶ほ語りて未だ詳らかならざる者あり、蓋し当時未だ此書に関する文献に就て、精細なる考査を経るに遑あらざりしを以て、今其の遺漏を補ひ、且つ其の誤謬を訂して再び述ぶる所あらんとす。

 此書に就て評論せる前人の著述中、先づ第一に注意すべきは四庫全書総目とす。即ち史部地理類辺防の属の存目中に、此書を載せて巻数を四巻とし、直隷総督の採進本とし、

不著撰人名氏。書中首巻河州条注内有西夷部落三十有奇。康熙十四年囲衛城一月。康熙二十二年。又犯衛地之語。又四巻近疆西夷伝内載康熙二十四年祝嚢同科爾坤十八部由古北口入覲事。則此書為康熙間人所作。

とあるは、其の巻数の印本並に伝鈔本と合せざる外、其の著作年代の推定は、粗ぼ余の見る所と同じく、正鵠を得たるに近し。又

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首載河州及西寧、荘浪、涼州、甘州、粛州、靖遠、寧夏、綏延等衛形勢要害。次載西寧等衛南北辺堡。次載西寧等衛近疆、及河套、次載外疆近疆西夷伝、河套部落、蒙古四十八部落考略、西域土地人物略。

とあるを見れば、其の編次の順序は、大体に於て印本に合せずして、写本に合することを見るべく、印本の体裁は後人の竄乱を経たる者なることを断じ得べし。但し最後の西域土地人物略を載せたることは、独り印本と合して写本に合せざるは、四庫館臣の見たる本も亦已に梁份の原本に非ざることを推し得べし。

其西域道里。以駅程考之。亦皆在茫味之間。蓋一時得之伝聞。附録巻末。均不足為典要。

といひ、其の明代以来存せる旧文を採録したる者にして、秦辺紀略の著者の手に成りしにあらざることは、四庫館臣も之に思ひ及ばざりしに似たり。

四庫全書総目には、その巻一百八十二別集類存目に左の一項あり。

懐葛堂文集十五巻〈江西巡撫採進本〉

国朝梁份撰。份字質人。南豊人。嘗学於寧都魏禧。頗得其文律。是集前十四巻為雑文。末一巻為詩十二首。漫遊雑録十一条。

 されば今恐らくは佚せる梁份の文集は、四庫館臣は猶ほ之を見るに及びたれども、而かも其の秦辺紀略の著者たるに思ひ及ばざりしが如し。是れ分編の官書に在りて、免がれ難き通弊なり。但し梁の郷貫を記せる者は、此書と下に引ける王崑縄文集の万季野六十序のみ正しきが如く、同じく下に引ける章実斎の劉湘煃伝に梁を以て寧都人とせるは、梁が師魏禧等が寧都の人なるによりて、牽聯して誤を致せる者なるべし。

 次に此書に注意せるは、有名なる西域の研究家たる徐松字は星伯なり。星伯は其の名著西域水道記巻三、哈喇淳爾所受水の条下に於て梁份の西陲今略として洮頼河に関する数句を引けるが、其の書名は偶々劉継荘の広陽雑記に記せる所に合せり。但し梁份の書には洮頼河を討来河に作り、粛州北辺下古城堡の注中に在り。

 近時に及んで、繆荃孫字は彼珊は其の芸風堂文集巻七に於て、秦辺紀略跋一篇を載せ、四庫全書総目、章実斎撰劉湘煃伝、劉継荘広陽雑記等を引きて、考証頗る精しく、余が此の補記も、繆氏に負ふ所多し。其後余は又章実斎文集未刊全稿を得て其のオープンアクセスNDLJP:129 撰する所劉湘煃伝を読むことを得たり。余は曩に秦辺紀略の著者が梁份なることを証せんが為に、郎潜三筆を引き、而かも郎潜紀聞が多く前人の著書を鈔録したるを以て、此項も何か拠る所あらんと云ひしが繆氏の引ける所、並びに余が目睹せる所によりて、其の章実斎の劉湘煃伝より出でたることを知ることを得、又湘灯が著はせる秦辺紀略異同攷は六巻の書なることを知ることを得たり〈章実斎の劉湘煃伝は極めて詳細なる者にして、前に記せる六書世臣説中の暦法が、王道荘の著にかゝることを明記し、余が先きに明の朱伸福の折裏暦法ならんとせるの誤なることをも知り得たり。〉繆氏は秦辺紀略印本に二種あることを言へり。一は即ち余が已に見たる本にして、呉坤修が同治壬申の歳に安徽布政使たりし時に刊行せし者。他の一種は舉人王文瀬が定州に刊せし者にして、此書の著者を尽県の李培とせしは、呉坤修が以て乾隆の時の人とせしと共に誤れりとせり。

 余は又王源字は崑縄の居業堂文集を読み、其中に梁份に関する者数篇あるを見たり。王源は顔元〈習斎〉の門人にして、又好んで兵を談じたる一種異様の学者たること、劉継荘等と相類せり。されば梁份とも交り至つて厚かりしが如し。居業堂集巻六に与梅称長書ありて其中に、

源於六月抵洪都。細訪江西人文。大不及曩時。自易堂諸君子歿。湯惕菴謝秋水諸先生。相継謝世。後起者率多浮沈。独蔡静子、梁質人古文。可称後勁。

とあり。易堂諸子とは即ち下に出せる魏彭諸人をいへるなり。又巻十三に梁質人文集序あり、其中に

梁子質人受業彭躬庵魏叔子両先生門。両先生倶負経世学。弗獲用。而叔子先生則以文章顕。質人樸撃強毅。嘗隻身走数万里。欲継両先生志。而其文則一法魏先生。(中略)而子与質人倶落拓京師。窮且老依人。故老凋喪已尽。行輩存者無二三。悵帳然白頭相対。俛仰一無可為。世情変益荒奇。非復人所料。時時握手悲献泣下。為文章呼搶天地。或痛飲酒。坑概笑罵古今。相娛楽。而質人之文。益復沈鬱炫爛。如千金之璞。川谷潴研。因出其生平之文。使予序。予窃以質人閱歴深矣。燕趙秦晋呉楚斉魏之墟。西尽武威張掖。南極漢点。迹之所及者広矣。山川形勢。近代興亡成敗。荒遐軼事。得諸見聞者多矣。(中略)故其為文。莫不足以別是非。闡幽隠[1]。維世運。斯文之緒之不墜。其在是歟。

オープンアクセスNDLJP:130 等の句ありて、極めて、其文を称揚せり。又巻十六万季野六十序に

高士万季野浙人。客京師。成六十。時丁丑春正月。(中略)子与南豊梁質人、嘉禾呉商志、新安栄予庵、黄自先、蔡瞻岷、漢水楊東里、福清許不棄、黄叔威、龍眠戴田有、孫幼服、毘陵銭亮功、下相徐壇長共置酒商志寓。為万子寿。

とあれば、丁丑即ち康熙三十六年頃に於ける、梁份が北京に於ける交游状態を見るべく、万季野は即ち万斯同にして、清初の史学大家なり。又巻十九には十三陵記上下二篇あり。其中に

歳癸未。源友梁份曁新安黄曰瑚。徒歩往謁。(十三陵)份為図説。曰瑚歩跬形勢。規制遠近。吉凶無不載。又参考国史諸陵建立始末。悉正粛松録、水東日記諸書之誤。

癸未は康熈四十二年にして、此歳梁份は十三陵拝謁の挙ある程なれば其の老健なること知るべく其の謁陵の志は顧炎武等と同じく、明朝を慕ふの余に出でたる者にして、炎武が第六次の謁陵を為したる康熙十六年より後るゝこと二十六年なれば、当時志士の気風尚ほ此の如き者あるを見るべし。然るに此の文中に又、

丙戌二月二十三日壬子源偕份子文中過昌平。癸丑雇役担嚢。歩登天寿。

とあり。是れ康熙四十五年の事にして、此の記事によりて、份が子に文中といへる者あることを知ると共に、此時王源の謁陵に梁份の借にせざるを見れば、其の存亡已に知るべからず。是れ梁份が事歴の記録に見えたる最後の者なれば、其の没年も概推することを得べし。

梁份と共に謁陵の挙を為したる黄曰瑚は、蓋し劉継荘の門人黄宗夏なるべし。居業堂集巻十六に黄復庵隠君六十序あり。

黄復庵隠君以癸未登六十。其子宗夏請予文為之寿。(中略)君新安人。家於呉。(中略)甲寅逆藩耿精忠叛。君与耿有旧。為仇家陥。繋獄者十有四年。乃家破而君之学益進。(中略)宗夏為予友劉継荘先生高弟。既又請執贄於予。

とあれば、黄宗夏の父も亦明末遺民の一人にして、劉継荘、王崑縄、梁質人等と同臭味の人たるべく、随て黄宗夏も此等先輩に薫陶せられたるならん。劉湘煃が著述目録に与黄宗夏論点粤苗疆形勢機宜書あり。その自註に宗夏幕粤西撫提署五次書問とあり。宗夏の事歴、並びに劉湘煃が宗夏とも交友たりしことを窺ひ知るに足オープンアクセスNDLJP:131 る。凡そ此等の事実は皆梁份が著書の事情を繹ぬるに於て、発明する所あるべき者なり。

(大正八年十月史林第四巻第四号)


  附註

  1. 別是非。闡幽隠。維世運。の九字、予章叢書本懐葛堂集序に砥頽廉。昭軌物。而維世運の十字に作る。

(昭和三年十二月記)

 
 

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