ヨハネ聖福音書2 (ラゲ訳)
『公敎宣敎師ラゲ譯 我主イエズスキリストの新約聖書』公敎會、
1910年発行
〔ローマ・カトリック訳〕
『ラゲ訳新約聖書』エミール・ラゲ(Emile Raguet,MEP)
ヨハネ聖福音書-2
目次 |
[編集] 第11章
1然《さ》てマリアと其《その》姉妹《しまい》マルタとの里《さと》なるベタニアに、ラザルと云《い》へる人《ひと》病《や》み居《を》りしが、 2マリアは即《すなは》ち香油《かうゆ》を主《しゆ》に注《そそ》ぎ、御《おん》足《あし》を己《おの》が髪《かみの》毛《け》にて拭《ぬぐ》ひし婦《をんな》にして、病《や》めるラザルは其《その》兄弟《きやうだい》なり。 3然《さ》れば彼《かれ》が姉妹《しまい》等《ら》、人《ひと》をイエズスの御許《おんもと》に遣《つか》はし、主《しゆ》よ汝《なんぢ》の愛《あい》し給《たま》ふ人《ひと》病《や》めり、と言《い》はしめしに、 4イエズス聞《き》きて曰《のたま》ひけるは、此《この》病《やまひ》は死《し》に至《いた》るものに非《あら》ず、神《かみ》の光榮《くわうえい》の為《ため》、神《かみ》の子《こ》が之《これ》に由《よ》りて光榮《くわうえい》を得《え》ん為《ため》なり、と。 5イエズスはマルタと其《その》姉妹《しまい》マリアとラザルとを愛《あい》し居《ゐ》給《たま》ひしが、 6ラザルの病《や》めるを聞《き》き、尚《なほ》同《おな》じ處《ところ》に留《とどま》ること二日《ふつか》にして、 7遂《つい》に弟子《でし》等《たち》に向《むか》ひ、我《われ》等《ら》復《また》ユデアへ趣《おもむ》かん、と曰《のたま》ひしかば、 8弟子《でし》等《たち》云《い》ひけるは、ラビ、唯今《ただいま》ユデア人《じん》が汝《なんぢ》に石《いし》を擲《なげう》たんとしたりしに、復《また》も彼處《かしこ》へ往《ゆ》き給《たま》ふか。 9イエズス答《こた》へて曰《のたま》ひけるは、一日《にち》に十二時《じ》あるに非《あら》ずや、人《ひと》晝《ひる》歩《あゆ》む時《とき》は、此《この》世《よ》の光《ひかり》を見《み》る故《ゆゑ》に躓《つまづ》かざれども、 10夜《よる》歩《あゆ》む時《とき》は、身《み》に光《ひかり》あらざる故《ゆゑ》に躓《つまづ》くなり、と。 11斯《か》く曰《のたま》ひて後《のち》又《また》、我《われ》等《ら》が親友《しんいう》ラザルは眠《ねむ》れり、然《さ》れど我《われ》往《ゆ》きて之《これ》を眠《ねむり》より喚起《よびおこ》さん、と曰《のたま》ひしかば、 12弟子《でし》等《たち》、主《しゆ》と、眠《ねむ》れるならば彼《かれ》は痊《い》ゆべきなり、と云《い》へり。 13但《ただし》イエズスの曰《のたま》ひしは彼《かれ》が死《し》の事《こと》なりしを、弟子《でし》等《たち》は眠《ねむ》りて臥《ふ》せることを曰《のたま》ひしならんと思《おも》ひたりければ、 14イエズス明《あきら》かに曰《のたま》ひけるは、ラザルは死《し》せり、 15我《われ》は汝《なんぢ》等《ら》の為《ため》、即《すなは》ち汝《なんぢ》等《ら》を信《しん》ぜしめん為《ため》に、我《わ》が彼處《かしこ》に在《あ》らざりしことを喜《よろこ》ぶ、卒《い》ざ彼《かれ》が許《もと》に往《ゆ》かん、と。 16然《さ》ればチヂモと呼《よ》ばれたるトマ、其《その》相弟子《あいでし》に謂《い》ひけるは、将《い》ざ我《われ》等《ら》も往《ゆ》きて彼《かれ》と共《とも》に死《し》なん、と。 17斯《かく》てイエズス至《いた》りて見《み》給《たま》ひしに、ラザルは墓《はか》に在《あ》る事《こと》既《すで》に四日《よつか》なりき。 18然《しか》るにベタニアはエルザレムに近《ちか》くして、廿五町《ちやう》許《ばかり》を隔《へだ》てたれば、 19數多《あまた》のユデア人《じん》、マルタとマリアとを其《その》兄弟《きやうだい》の事《こと》に就《つ》きて弔《とむら》はん為《ため》に來《きた》りてありき。 20マルタはイエズス來《きた》り給《たま》ふと聞《き》くや、即《すなは》ち出《いで》迎《むか》へしが、マリアは家《いへ》の内《うち》に坐《ざ》し居《ゐ》たり。 21マルタイエズスに云《い》ひけるは、主《しゆ》よ、若《もし》此處《ここ》に在《いま》ししならば、我《わが》兄弟《きやうだい》は死《し》なざりしものを、 22然《さ》れど神《かみ》に何事《なにごと》を求《もと》め給《たま》ふとも神《かみ》之《これ》を汝《なんぢ》に賜《たま》ふべしとは、今《いま》も我《わ》が知《し》れる所《ところ》なり、と。 23イエズス、汝《なんぢ》の兄弟《きやうだい》は復活《ふくくわつ》すべし、と曰《のたま》ひしかば、 24マルタ云《い》ひけるは、我《われ》は彼《かれ》が終《をはり》の日《ひ》、復活《ふくくわつ》の時《とき》に復活《ふくくわつ》すべきことを知《し》れり、と。 25イエズス、我《われ》は復活《ふくくわつ》なり、生命《せいめい》なり、我《われ》を信《しん》ずる人《ひと》は死《し》すとも活《い》くべし、 26又《また》活《い》きて我《われ》を信《しん》ずる人《ひと》は、凡《すべ》て永遠《えいえん》に死《し》する事《こと》なし、汝《なんぢ》之《これ》を信《しん》ずるか、と曰《のたま》ひしに、 27マルタ云《い》ひけるは、主《しゆ》よ、然《しか》り、我《われ》は汝《なんぢ》が活《い》ける神《かみ》の御子《おんこ》キリストの此《この》世《よ》の來《きた》り給《たま》ひたる者《もの》なるを信《しん》ず、と。 28斯《か》く云《い》ひて後《のち》、往《ゆ》きて其《その》姉妹《しまい》マリアを呼《よ》び*《ささや》きて、師《し》茲《ここ》に在《いま》して汝《なんぢ》を召《め》し給《たま》ふ、と云《い》ひしに、 29彼《かれ》之《これ》を聞《き》くや、直《ただち》に立《た》ちてイエズスの許《もと》に至《いた》れり、 30即《すなは》ちイエズス未《いま》だ里《さと》に入《い》り給《たま》はずして、尚《なほ》マルタが出《いで》迎《むか》へし處《ところ》に居《ゐ》給《たま》ひしなり。 31然《さ》ればマリアと共《とも》に家《いへ》に在《あ》りて之《これ》を弔《とむら》ひ居《ゐ》たりしユデア人《じん》、彼《かれ》が速《すみやか》に立《た》ちて出《いで》しを見《み》、彼《かれ》は泣《な》かんとて墓《はか》に往《ゆ》くぞ、と云《い》ひつつ後《あと》に随《したが》ひしが、 32マリアはイエズスの居《ゐ》給《たま》ふ處《ところ》に至《いた》り、之《これ》を見《み》るや御《おん》足下《あしもと》に平伏《ひれふ》して、主《しゆ》よ、若《もし》此處《ここ》に在《ましま》ししならば、我《わが》兄弟《きやうだい》は死《し》なざりしものを、と云《い》ひければ、 33イエズス彼《かれ》が泣《な》き居《を》り、伴《ともな》ひ來《きた》れるユデア人《じん》も泣《な》き居《を》れるを見《み》、胸中《きようちゆう》感激《かんげき》して御心《おんこころ》を騒《さわ》がしめ給《たま》ひ、 34汝《なんぢ》等《ら》何處《いづこ》に彼《かれ》を置《お》きたるぞ、と曰《のたま》ひしに、彼等《かれら》は、主《しゆ》よ、來《きた》り見《み》給《たま》へ、と云《い》ひければ、 35イエズス涙《なみだ》を流《なが》し給《たま》へり。 36然《さ》ればユデア人《じん》、看《み》よ彼《かれ》を愛《あい》し給《たま》ひし事《こと》の如何許《いかばかり》なるを、と云《い》ひしが、 37又《また》其《その》中《うち》に或《ある》人々《ひとびと》、彼《かれ》は生《うま》れながらなる瞽者《めしひ》の目《め》を明《あ》けしに、此《この》人《ひと》を死《し》せざらしむるを得《え》ざりしか、と云《い》ひければ、 38イエズス復《また》心中《しんちゆう》感激《かんげき》しつつ墓《はか》に至《いた》り給《たま》へり。墓《はか》は洞《ほら》にして、之《これ》に石《いし》を覆《おほ》ひてありしが、 39イエズス、石《いし》を取《とり》除《の》けよ、と曰《のたま》へば死人《しにん》の姉妹《しまい》マルタ云《い》ひけるは、主《しゆ》よ、最早《もはや》四日《よつか》目《め》なれば彼《かれ》は既《すで》に臭《くさ》きなり、と。 40イエズス曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》若《もし》信《しん》ぜば神《かみ》の光榮《くわうえい》を見《み》るべし、と我《われ》汝《なんぢ》に告《つ》げしに非《あら》ずや、と。 41斯《かく》て石《いし》を取《とり》除《の》けしに、イエズス目《め》を翹《あ》げて曰《のたま》ひけるは、父《ちち》よ、我《われ》に聴《き》き給《たま》ひしことを謝《しや》し奉《たてまつ》る。 42何時《いつ》も我《われ》に聴《き》き給《たま》ふ事《こと》は、我《われ》素《もと》より之《これ》を知《し》れども、汝《なんぢ》の我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし事《こと》を彼等《かれら》に信《しん》ぜしめんとて、立《たち》會《あ》へる人々《ひとびと》の為《ため》に之《これ》を言《い》へるなり、と。 43斯《か》く曰《のたま》ひ終《をは》りて聲《こゑ》高《たか》く、ラザル出來《いできた》れ、と呼《よば》はり給《たま》ひしに、 44死《し》したりし者《もの》、忽《たちま》ち手足《てあし》を布《ぬの》に巻《ま》かれたる儘《まま》に出來《いできた》り、其《その》顔《かほ》は尚《なほ》汗《あせ》拭《ふき》に包《つつ》まれたれば、イエズス人々《ひとびと》に、之《これ》を解《と》きて往《ゆ》かしめよ、と曰《のたま》へり。 45然《さ》ればマリアとマルタとの許《もと》に來合《きあは》せて、イエズスの為《な》し給《たま》ひし事《こと》を見《み》しユデア人《じん》の中《うち》には、之《これ》を信《しん》じたる者《もの》多《おほ》かりしが、 46中《なか》にはファリザイ人《じん》の許《もと》に至《いた》りて、イエズスの為《な》し給《たま》ひし事《こと》を告《つ》ぐる者《もの》ありしかば、 47司祭《しさい》長《ちやう》、ファリザイ人《じん》等《ら》、議會《ぎくわい》を召集《せうしふ》して、斯《この》人《ひと》數多《あまた》の奇蹟《きせき》を為《な》すを、我《われ》等《ら》は如何《いか》にすべきぞ、 48若《もし》其《その》儘《まま》に恕《ゆる》し置《お》かば、皆《みな》彼《かれ》を信仰《しんかう》すべく、又《また》ロマ人《じん》來《きた》りて我《われ》等《ら》の土地《とち》と國民《こくみん》とを亡《ほろ》ぼすべし、と云《い》ひたるに、 49其《その》中《うち》の一人《ひとり》カイファと呼《よ》ばるる者《もの》、其《その》年《とし》の大司祭《だいしさい》なりけるが、彼等《かれら》に謂《い》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》は事《こと》を解《かい》せず、 50又《また》一人《いちにん》人民《じんみん》の為《ため》に死《し》して全《ぜん》國民《こくみん》の亡《ほろ》びざるは汝《なんぢ》等《ら》に利《り》ある事《こと》を思《おも》はざるなり、と。 51彼《かれ》は己《おのれ》より之《これ》を言《い》ひしに非《あら》ず、其《その》年《とし》の大司祭《だいしさい》なれば、イエズスが國民《こくみん》の為《ため》に死《し》し給《たま》ふべき事《こと》を預言《よげん》したるなり、 52即《すなは》ち啻《ただ》に此《この》國民《こくみん》の為《ため》のみならず、散亂《ちりみだ》れたる神《かみ》の子等《こども》を一《ひとつ》に集《あつ》めんが為《ため》なりき。 53然《さ》れば此《この》日《ひ》より、彼等《かれら》イエズスを殺《ころ》さんと謀《はか》りしかば、 54イエズス最早《もはや》陽《あらは》にユデア人《じん》の中《うち》を歩《あゆ》み給《たま》はず、荒野《あれの》に接《つづ》ける地方《ちはう》に往《ゆ》き、エフレムと云《い》へる町《まち》に至《いた》りて、弟子《でし》等《たち》と共《とも》に其處《そこ》に留《とどま》り居《ゐ》給《たま》へり。 55斯《かく》てユデア人《じん》の過越《すぎこしの》祭《まつり》近《ちか》づきければ、之《これ》に先《さきだ》ちて身《み》を潔《きよ》めん為《ため》に、地方《ちはう》よりエルザレムに上《のぼ》れる人《ひと》多《おほ》かりしが、 56彼等《かれら》イエズスを探《さが》しつつ[神《しん》]殿《でん》に立《た》ちて、汝《なんぢ》等《ら》如何《いか》に思《おも》ふぞ、彼《かれ》は此《この》祭《まつり》に來《きた》らざるか、と語《かたり》合《あ》へり。 57司祭《しさい》長《ちやう》ファリザイ人《じん》等《ら》は、イエズスを捕《とら》ふべきにより、之《これ》が在所《ありか》を知《し》れる人《ひと》あらば申出《まうしい》づべし、と豫《かね》て命令《めいれい》を出《いだ》したりしなり。
[編集] 第12章
1過越《すぎこしの》祭《まつり》の六日《むいか》前《まへ》、イエズスベタニアに至《いた》り給《たま》ひしに、是《これ》ラザルの死《し》したりしを復活《ふくくわつ》せしめ給《たま》ひし處《ところ》なれば、 2或《ある》人々《ひとびと》イエズスの為《ため》に晩餐《ばんさん》を設《まう》け、マルタ給仕《きふじ》しけるが、ラザルはイエズスと共《とも》に食卓《しよくたく》に就《つ》ける者《もの》の一人《ひとり》なりき。 3然《しか》るにマリアは價《あたひ》高《たか》き純粋《じゆんすゐ》のナルドの香油《かうゆ》一《いつ》斤《きん》を取《と》りてイエズスの御《おん》足《あし》に注《そそ》ぎ、御《おん》足《あし》を己《おの》が髪《かみの》毛《け》もて拭《ぬぐ》ひしかば、香油《かうゆ》の薫《かをり》家《いへ》に満《み》てり。 4其《その》時《とき》弟子《でし》の一人《ひとり》、イエズスを売《う》るべきイスカリオテのユダ、 5何故《なにゆゑ》に此《この》香油《かうゆ》を三百デナリオに売《う》りて貧者《ひんしや》に施《ほどこ》さざりしぞ、と云《い》へり。 6但《ただ》し斯《か》く云《い》ひしは貧者《ひんしや》を慮《おもんぱか》れる故《ゆゑ》に非《あら》ず、己《おのれ》盗人《ぬすびと》にして、財嚢《かねぶくろ》を預《あづか》り、中《うち》に入《い》れらるる物《もの》を取《と》れる故《ゆゑ》なり。 7然《しか》るにイエズス曰《のたま》ひけるは、此《この》女《をんな》を措《さしお》け、我《われ》葬《はうむり》の日《ひ》の為《ため》に此《この》香油《かうゆ》を貯《たくは》へたるなり、 8其《そ》は貧者《ひんしや》は恒《つね》に汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に居《を》れども、我《われ》は恒《つね》に居《を》らざればなり、と。 9斯《かく》てユデア人《じん》の大《だい》群衆《ぐんしゆう》、イエズスの此處《ここ》に居《ゐ》給《たま》ふを知《し》り、獨《ひと》りイエズスの為《ため》のみならず、死者《ししや》の中《うち》より復活《ふくくわつ》せしめ給《たま》ひしラザルを見《み》んとて來《きた》りしが、 10司祭長《しさいちやう》等《ら》はラザルをも殺《ころ》さんと思《おも》へり、 11是《こ》は彼《かれ》の為《ため》に、去《さ》りてイエズスを信仰《しんかう》する者《もの》、ユデア人《じん》の中《うち》に多《おほ》ければなり。 12翌日《あくるひ》、祭日《さいじつ》の為《ため》に來《きた》りし夥《おびただ》しき群衆《ぐんしゆう》、イエズスエルザレムに來《きた》り給《たま》ふ由《よし》を聞《き》きて、 13梭櫚《しゆろ》の葉《は》を執《と》りて出《いで》迎《むか》へ、ホザンナ、主《しゆ》の御名《みな》によりて來《きた》るイスラエルの王《わう》祝《しゆく》せられ給《たま》へかし、と呼《よば》はり居《を》りしが、 14イエズスは小《こ》驢馬《ろば》を得《え》て之《これ》に乗《の》り給《たま》へり、録《かきしる》して 15シオンの女《むすめ》よ、懼《おそ》るること勿《なか》れ、看《み》よ、汝《なんぢ》の王《わう》は牝《め》驢馬《ろば》の子《こ》に乗《の》りて來《きた》る」とあるが如《ごと》し。 16弟子《でし》等《たち》初《はじめ》は此《これ》等《ら》の事《こと》を暁《さと》らざりしが、光榮《くわうえい》を得《え》給《たま》ひて後《のち》、其《その》イエズスに就《つ》きて録《かきしる》されたりし事《こと》と自《みづか》ら御《おん》為《ため》に為《な》し事《こと》とを思《おもひ》出《いだ》せり。 17然《さ》てイエズスがラザルを墓《はか》より呼出《よびいだ》して、死者《ししや》の中《うち》より復活《ふくくわつ》せしめ給《たま》ひし時《とき》彼《かれ》と共《とも》に居合《ゐあは》せたり夥《おびただ》しき人々《ひとびと》證明《しようめい》し、 18群衆《ぐんしゆう》も亦《また》、イエズスが此《この》奇蹟《きせき》を為《な》し給《たま》ひしを聞《き》きて出《いで》迎《むか》へしかば、 19ファリザイ人《じん》語《かたり》合《あ》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》何《なん》の効験《ききめ》もなきを見《み》ずや、世《よ》既《すで》に挙《こぞ》りて彼《かれ》に從《したが》へり、と。 20然《しか》るに祭日《さいじつ》に禮拝《れいはい》せんとて上《のぼ》りたる人々《ひとびと》の中《うち》に異邦《いはう》人《じん》もありしが、 21此《この》人々《ひとびと》ガリレアのベッサイダ生《うま》れなるフィリッポに近《ちか》づき、之《これ》に乞《こ》ひて、君《きみ》よ、我《われ》等《ら》はイエズスに謁《まみ》えん事《こと》を欲《ほつ》す、と云《い》ひしかば、 22フィリッポ來《きた》りてアンデレアに告《つ》げ、アンデレアとフィリッポと又《また》イエズスに告《つ》げしに、 23イエズス答《こた》へて曰《のたま》ひけるは、人《ひと》の子《こ》が光榮《くわうえい》を得《う》べき時《とき》來《きた》れり。 24誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、麦《むぎ》の粒《つぶ》地《ち》に墮《お》ちて、若《もし》死《し》せざれば、 25唯《ただ》一《ひとつ》にして止《とどま》るも、若《もし》死《し》すれば多《おほ》くの實《み》を結《むす》ぶ。己《おの》が生命《せいめい》を愛《あい》する人《ひと》は之《これ》を失《うしな》ひ、此《この》世《よ》にて生命《せいめい》を憎《にく》む人《ひと》は、之《これ》を保《たも》ちて永遠《えいえん》の生命《せいめい》に至《いた》るべし、 26人《ひと》若《もし》我《われ》に事《つか》へば我《われ》に從《したが》ふべし、而《しか》して我《わ》が居《を》る處《ところ》には、我《われ》に事《つか》ふる人《ひと》も亦《また》居《を》るべし、人《ひと》若《もし》我《われ》に事《つか》へば、我《わが》父《ちち》之《これ》に榮誉《えいよ》を賜《たま》はん。 27今《いま》や我《わが》心《こころ》騒《さわ》げり、我《われ》何《なに》をか云《い》はん、父《ちち》よ、我《われ》を救《すく》ひて此《この》時《とき》を免《まぬか》れしめ給《たま》へ、然《さ》りながら、我《われ》は之《これ》が為《ため》にこそ此《この》時《とき》に至《いた》れるなれ、 28父《ちち》よ、御名《みな》に光榮《くわうえい》あらしめ給《たま》へ、と。其《その》時《とき》聲《こゑ》天《てん》より來《きた》りて曰《いは》く、我《われ》既《すで》に光榮《くわうえい》あらしめたり、更《さら》に光榮《くわうえい》あらしめん、と。 29是《ここ》に於《おい》て立《た》ちて之《これ》を聞《き》きたる群衆《ぐんしゆう》は、雷《いかづち》鳴《な》れりと云《い》ひ、或《ある》人々《ひとびと》は、天使《てんし》彼《かれ》に言《い》ひたるなり、と云《い》へり。 30イエズス答《こた》へて曰《のたま》ひけるは、此《この》聲《こゑ》の來《きた》りしは我《わ》が為《ため》に非《あら》ずして汝《なんぢ》等《ら》の為《ため》なり。 31今《いま》は世《よ》の審判《しんぱん》なり、此《この》世《よ》の長《かしら》、今《いま》逐出《おひいだ》されんとす、 32我《われ》地《ち》より上《あ》げられたらん時《とき》は、萬民《ばんみん》を我《われ》に引《ひき》寄《よ》せん、と。 33斯《か》く曰《のたま》へるは、如何《いか》なる死《しに》状《ざま》を以《もつ》て死《し》すべきかを示《しめ》し給《たま》はんとてなるに、 34群衆《ぐんしゆう》之《これ》に答《こた》へけるは、キリストは永遠《えいえん》に存《そん》すとこそ、我《われ》等《ら》は律法《りつぱふ》より聞《き》けるものを、汝《なんぢ》何《なん》ぞ人《ひと》の子《こ》上《あ》げられるべしと云《い》ふや、人《ひと》の子《こ》とは是《これ》誰《たれ》なるぞ、と。 35イエズス即《すなは》ち彼等《かれら》に曰《のたま》ひけるは、光《ひかり》は尚《なほ》暫《しばら》く汝《なんぢ》等《ら》の中《うち》に在《あ》り、汝《なんぢ》等《ら》光《ひかり》を有《いう》する間《ま》に歩《あゆ》みて、闇《やみ》に追付《おひつ》かるな。闇《やみ》に歩《あゆ》む人《ひと》は行先《ゆくさき》を知《し》らず、 36汝《なんぢ》等《ら》光《ひかり》を有《いう》する間《ま》に、光《ひかり》の子《こ》と成《な》らん為《ため》に光《ひかり》を信《しん》ぜよ、と。斯《か》く曰《のたま》ひて後《のち》、イエズス去《さ》りて身《み》を彼等《かれら》より匿《かく》し給《たま》へり。 37斯《か》ばかり夥《おびただ》しき奇蹟《きせき》を彼等《かれら》の前《まへ》に為《な》し給《たま》ひたれど、彼等《かれら》尚《なほ》イエズスを信《しん》ぜざりき。 38是《これ》預言《よげん》者《しや》イザヤの言《ことば》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なり、曰《いは》く「主《しゆ》よ、誰《たれ》か我《われ》等《ら》に聴《き》きて信《しん》じたるぞ、主《しゆ》の御《み》腕《うで》は誰《たれ》に顕《あらは》れたるぞ」と。 39彼等《かれら》の信《しん》じ得《え》ざりしはイザヤの又《また》云《い》ひし事《こと》によれり、 40曰《いは》く「彼等《かれら》目《め》にて見《み》ず、心《こころ》にて暁《さと》らず、翻《ひるがへ》りて我《われ》に醫《いや》されざらん為《ため》に、神《かみ》彼等《かれら》の目《め》を矇《くら》まし、彼等《かれら》の心《こころ》を頑固《かたくな》にし給《たま》へり」と。 41イザヤが斯《か》く云《い》ひしは、彼《かれ》の光榮《くわうえい》を見《み》て、彼《かれ》に就《つ》きて語《かた》りし時《とき》なり。 42然《しか》れども、重立《おもだ》ちたる人々《ひとびと》の中《うち》にも、イエズスを信仰《しんかう》せる者《もの》多《おほ》かりしが、ファリザイ人《じん》を憚《はばか》り、會堂《くわいどう》より遂《おひ》出《いだ》されじとて、之《これ》を公言《こうげん》せざりき。 43即《すなは》ち彼等《かれら》は神《かみ》の光榮《くわうえい》よりも人《ひと》の光榮《くわうえい》を好《この》みしなり。 44イエズス呼《よば》はりて曰《のたま》ひけるは、我《われ》を信《しん》ずる人《ひと》は、我《われ》を信《しん》ずるに非《あら》ずして、我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし者《もの》を信《しん》ずるなり。 45又《また》我《われ》を見《み》る人《ひと》は、我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし者《もの》を見《み》るなり。 46我《われ》は光《ひかり》として世《よ》に來《きた》れり、是《これ》総《すべ》て我《われ》を信《しん》ずる人《ひと》が暗《やみ》に止《とどま》らざらん為《ため》なり。 47人《ひと》若《もし》我《わが》言《ことば》を聴《き》きて守《まも》らざれば、我《われ》は之《これ》を審《さば》かず、我《わ》が來《きた》りしは世《よ》を審《さば》かん為《ため》に非《あら》ずして、世《よ》を救《すく》はん為《ため》なればなり。 48我《われ》を軽《かろ》んじて我《わが》言《ことば》を受《う》けざる人《ひと》には、之《これ》を審《さば》く者《もの》あり、即《すなは》ち我《わ》が語《かた》りし言《ことば》其《その》物《もの》、終《をはり》の日《ひ》に於《おい》て之《これ》を審《さば》くべし。 49蓋《けだし》我《われ》は己《おのれ》より語《かた》りしに非《あら》ず、我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし父《ちち》自《みづか》ら、我《わ》が言《い》ふべき事《こと》語《かた》るべき事《こと》を我《われ》に命《めい》じ給《たま》ひしなり、 50我《われ》は其《その》命令《めいれい》が永遠《えいえん》の生命《せいめい》たる事《こと》を知《し》る、然《さ》れば我《わ》が語《かた》るは、父《ちち》の我《われ》に曰《のたま》ひし儘《まま》に之《これ》を語《かた》るなり、と。
[編集] 第13章
1過越《すぎこし》の祭日《さいじつ》の前《まへ》、イエズス己《おの》が時《とき》、即《すなは》ち此《この》世《よ》より父《ちち》に移《うつ》るべき時《とき》來《きた》れるを知《し》り給《たま》ひて、豫《かね》ても世《よ》に在《あ》る己《おの》が[弟子《でし》]を愛《あい》し給《たま》ひしが、極《きよく》まで之《これ》を愛《あい》し給《たま》へり。 2然《さ》て晩餐《ばんさん》の終《は》つるに臨《のぞ》み、惡魔《あくま》既《すで》にイエズスを付《わた》さん事《こと》を、シモンの子《こ》イスカリオテのユダの心《こころ》に入《い》れしかば、 3イエズス父《ちち》より萬事《ばんじ》を己《おの》が手《て》に賜《たま》はりたる事《こと》と、己《おの》が神《かみ》より出《い》でて神《かみ》に至《いた》る事《こと》とを知《し》り給《たま》ひ、 4晩餐《ばんさん》より起《たち》上《あが》りて上衣《うはぎ》を脱《ぬ》ぎ、布《ぬの》片《きれ》を取《と》りて腰《こし》に帯《お》び、 5軈《やが》て水《みづ》を銅盤《かなだらひ》に盛《も》り、弟子《でし》等《たち》の足《あし》を洗《あら》ひて、其《その》帯《お》びたる布《ぬの》片《きれ》もて之《これ》を拭《ぬぐ》ひ始《はじ》め給《たま》へり。 6斯《かく》てシモン、ペトロに至《いた》り給《たま》ふや、ペトロ、主《しゆ》よ、我《わが》足《あし》を洗《あら》ひ給《たま》ふか、と云《い》ひしに、 7イエズス答《こた》へて、我《わ》が為《な》す所《ところ》汝《なんぢ》今《いま》は知《し》らざれども、後《のち》には之《これ》を知《し》るべし、と曰《のたま》ひければ、 8ペトロ云《い》ひけるは、我《わが》足《あし》を洗《あら》ひ給《たま》ふ事《こと》決《けつ》してあるべからず、と。イエズス我《われ》若《もし》汝《なんぢ》を洗《あら》はずば、我《われ》と一致《いつち》する所《ところ》あらじ、と答《こた》へ給《たま》ひしかば、 9シモン、ペトロ、主《しゆ》よ、我《わが》足《あし》のみならず、手《て》をも頭《かうべ》をも、と云《い》ひしが、 10イエズス曰《のたま》ひけるは、既《すで》に身《み》を洗《あら》ひたる人《ひと》は全身《ぜんしん》潔《きよ》くして、足《あし》の外《ほか》洗《あら》ふを要《えう》せず、汝《なんぢ》等《ら》も潔《きよ》けれど総《すべ》てには非《あら》ず、と。 11蓋《けだし》己《おのれ》を付《わた》す者《もの》の誰《たれ》なるを知《し》り給《たま》ひて、汝《なんぢ》等《ら》悉《ことごと》く潔《きよ》きには非《あら》ずと曰《のたま》ひしなり。 12然《さ》て彼等《かれら》の足《あし》を洗《あら》ひ終《をは》りて上衣《うはぎ》を取《と》り、復《また》席《せき》に着《つ》きて彼等《かれら》に曰《のたま》ひけるは、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に為《な》しし事《こと》の何《なん》たるを知《し》るや。 13汝《なんぢ》等《ら》は我《われ》を師《し》又《また》は主《しゆ》と呼《よ》ぶ、其《その》言《い》ふことや宜《よ》し、我《われ》は其《その》なればなり。 14然《しか》るに主《しゆ》たり師《し》たる我《われ》にして汝《なんぢ》等《ら》の足《あし》を洗《あら》ひたれば、汝《なんぢ》等《ら》も亦《また》互《たがひ》に足《あし》を洗《あら》はざるべからず。 15蓋《けだし》我《われ》汝《なんぢ》等《ら》に例《れい》を示《しめ》したるは、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に為《な》しし如《ごと》く、汝《なんぢ》等《ら》にも為《な》さしめん為《ため》なり。 16誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、僕《しもべ》は其《その》主《しゆ》よりも大《おほ》いならず、使徒《しと》は之《これ》を遣《つか》はしし者《もの》よりも大《おほ》いならず、 17汝《なんぢ》等《ら》是《これ》等《ら》の事《こと》を知《し》りて之《これ》を行《おこな》はば福《さいはひ》なるべし。 18我《われ》は汝《なんぢ》等《ら》の凡《すべ》てを指《さ》して云《い》ふに非《あら》ず、曾《かつ》て選《えら》みたる人々《ひとびと》を知《し》れり。然《しか》れども聖書《せいしよ》に「我《われ》と共《とも》に麪《ぱん》を食《しよく》する人《ひと》我《われ》に向《むか》ひて其《その》踵《くびす》を挙《あ》げたり」とある事《こと》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なり。 19我《われ》今《いま》事《こと》の成《な》るに先《さきだ》ちて汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐるは、其《その》成《な》りたらん時《とき》、汝《なんぢ》等《ら》をして我《わ》が其《それ》なることを信《しん》ぜしめん為《ため》なり。 20誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、我《わ》が遣《つか》はす者《もの》を承《う》くる人《ひと》は我《われ》を承《う》け、我《われ》を承《う》くる人《ひと》は我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひしものを承《う》くるなり、と。 21イエズス之《これ》を曰《のたま》ひ終《をは》りて御心《みこころ》騒《さわ》ぎ、證明《しようめい》して、誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、汝《なんぢ》等《ら》の中《うち》一人《ひとり》我《われ》を付《わた》さんとす、と曰《のたま》ひければ、 22弟子《でし》等《たち》、誰《たれ》を指《さ》して曰《のたま》へるぞと訝《いぶか》りて、互《たがひ》に顔《かほ》を見合《みあは》せたりしが、 23イエズスの愛《あい》し給《たま》へる一人《ひとり》の弟子《でし》、御《おん》懐《ふところ》の辺《あた》りに倚《より》懸《かか》り居《ゐ》たるに、 24シモン、ペトロ、腮《あご》もて示《しめ》しつつ、曰《のたま》へるは誰《たれ》の事《こと》ぞ、と云《い》ひければ、 25彼《かれ》御《おん》胸《むね》に倚《より》懸《かか》りて、主《しゆ》よ誰《たれ》なるか、と云《い》ひしかば、 26イエズス答《こた》へて曰《のたま》ひけるは、我《わ》が麪《ぱん》を浸《ひた》して與《あた》ふる者《もの》即《すなは》ち其《それ》なり、と。斯《かく》て麪《ぱん》を浸《ひた》して、シモンの子《こ》イスカリオテのユダに與《あた》へ給《たま》ひしに、 27此《この》一片《いつぺん》を取《と》るやサタン彼《かれ》に入《い》れり。然《さ》てイエズス之《これ》に向《むか》ひて、其《その》為《な》す所《ところ》を速《すみやか》に為《な》せ、と曰《のたま》ひしかど、 28食卓《しよくたく》に就《つ》けるものは一人《ひとり》として、何《なん》の為《ため》に之《これ》を曰《のたま》ひしかを知《し》らず、 29中《なか》にはユダが財嚢《かねぶくろ》を持《も》てるによりて、祭日《さいじつ》の為《ため》に我《われ》等《ら》が要《えう》する物《もの》を買《か》へ、或《あるひ》は貧者《ひんしや》に何《なに》かを施《ほどこ》せ、とイエズスの曰《のたま》へるならん、と思《おも》ふ人々《ひとびと》もありき。 30ユダは彼《かの》一片《ひときれ》を受《う》くるや直《ただち》に出《いで》行《ゆ》きしが、時《とき》は既《すで》に夜《よる》なりき。 31ユダが出《い》でし後《のち》、イエズス曰《のたま》ひけるは、今《いま》や人《ひと》の子《こ》光榮《くわうえい》を得《え》、神《かみ》も彼《かれ》に於《おい》て光榮《くわうえい》を得《え》給《たま》へり、 32神《かみ》彼《かれ》に於《おい》て光榮《くわうえい》を得《え》給《たま》ひたれば、神《かみ》亦《また》己《おのれ》に於《おい》て光榮《くわうえい》を彼《かれ》に得《え》させ、而《しか》も直《ただち》に得《え》させ給《たま》ふべし。 33小子《せうし》よ、我《われ》は尚《なほ》暫《しばら》く汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に在《あ》り、汝《なんぢ》等《ら》将《まさ》に我《われ》を尋《たず》ぬべけれども、曾《かつ》てユデア人《じん》に向《むか》ひて、我《わ》が往《ゆ》く處《ところ》には汝《なんぢ》等《ら》來《きた》る能《あた》はずと言《い》ひし如《ごと》く、今《いま》は汝《なんぢ》等《ら》にも亦《また》然《しか》言《い》ふ。 34我《われ》は新《あたら》しき掟《おきて》を汝《なんぢ》等《ら》に與《あた》ふ、即《すなは》ち汝《なんぢ》等《ら》相《あひ》愛《あい》すべし、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》を愛《あい》せし如《ごと》く、汝《なんぢ》等《ら》も相《あひ》愛《あい》すべし、 35汝《なんぢ》等《ら》相《あひ》愛《あい》せば、人《ひと》皆《みな》之《これ》によりて汝《なんぢ》等《ら》の我《わが》弟子《でし》たる事《こと》を認《みと》めん、と。 36シモン、ペトロ、主《しゆ》よ、何處《いづこ》に往《ゆ》き給《たま》ふぞ、と云《い》ひしにイエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、我《わ》が往《ゆ》く處《ところ》に汝《なんぢ》今《いま》は從《したが》ふ能《あた》はず、後《のち》に從《したが》はん、と。 37ペトロ又《また》、我《われ》今《いま》は汝《なんぢ》に從《したが》ふ能《あた》はざるは何《なん》ぞや、我《われ》は汝《なんぢ》の為《ため》に生命《いのち》をも棄《す》てんとす、と云《い》ひしかば、 38イエズス之《これ》に答《こた》へ給《たま》ひけるは、汝《なんぢ》は我《わ》が為《ため》に生命《いのち》をも棄《す》てんとするか、誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》に告《つ》ぐ、汝《なんぢ》が三《み》度《たび》我《われ》を否《いな》む迄《まで》は鶏《にはとり》鳴《うた》はざるべし。
[編集] 第14章
1汝《なんぢ》等《ら》の心《こころ》騒《さわ》ぐべからず、神《かみ》を信《しん》ずれば我《われ》をも信《しん》ぜよ。 2我《わが》父《ちち》の家《いへ》に住《すみ》所《ところ》多《おほ》し、然《しか》らずば我《われ》既《すで》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》げしならん、其《そ》は至《いた》りて汝《なんぢ》等《ら》の為《ため》に處《ところ》を備《そな》へんとすればなり。 3至《いた》りて汝《なんぢ》等《ら》の為《ため》に處《ところ》を備《そな》へたる後《のち》、再《ふたた》び來《きた》りて汝《なんぢ》等《ら》を携《たづさ》へ、我《わ》が居《を》る處《ところ》に汝《なんぢ》等《ら》をも居《を》らしめん。 4汝《なんぢ》等《ら》は我《わ》が往《ゆ》く處《ところ》を知《し》り、又《また》其《その》道《みち》をも知《し》れり、と。 5トマ云《い》ひけるは、主《しゆ》よ、我《われ》等《ら》は其《その》往《ゆ》き給《たま》ふ處《ところ》を知《し》らず、争《いか》でか其《その》道《みち》を知《し》る事《こと》を得《え》ん、と。 6イエズス之《これ》に曰《のたま》ひけるは、我《われ》は道《みち》なり、眞理《しんり》なり、生命《せいめい》なり、我《われ》に由《よ》らずしては父《ちち》に至《いた》る者《もの》はあらず。 7汝《なんぢ》等《ら》若《もし》我《われ》を知《し》りたらば、必《かなら》ず我《わが》父《ちち》をも知《し》りたらん、今《いま》より汝《なんぢ》等《ら》之《これ》を知《し》らん、而《しか》も既《すで》に之《これ》を見《み》たり、と。 8フィリッポ之《これ》に向《むか》ひ、主《しゆ》よ、父《ちち》を我《われ》等《ら》に示《しめ》し給《たま》へ、然《しか》らば我《われ》等《ら》事足《ことたり》るべし、と云《い》へるを、 9イエズス曰《のたま》ひけるは、我《われ》斯《かく》も久《ひさ》しく汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に居《を》れるに、汝《なんぢ》等《ら》尚《なほ》我《われ》を知《し》らざるか、フィリッポよ、我《われ》を見《み》る人《ひと》は父《ちち》をも見《み》るなり、何《なん》ぞ父《ちち》を我《われ》等《ら》に示《しめ》せと云《い》ふや、 10我《われ》父《ちち》に居《を》り父《ちち》我《われ》に在《いま》す、とは汝《なんぢ》等《ら》信《しん》ぜざるか、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》る言《ことば》は己《おのれ》より語《かた》るに非《あら》ず、父《ちち》こそ我《われ》に在《ましま》して自《みづか》ら業《わざ》を為《な》し給《たま》ふなれ。 11汝《なんぢ》等《ら》は、我《わ》れ父《ちち》に居《を》り父《ちち》我《われ》に在《いま》すと信《しん》ぜざるか、 12然《しか》らば業《わざ》其《その》物《もの》の為《ため》に信《しん》ぜよ。誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、我《われ》を信《しん》ずる人《ひと》は自《みづか》ら亦《また》我《わ》が為《な》す業《わざ》をも為《な》し、而《しか》も之《これ》より大《おほ》いなる者《もの》を為《な》さん、其《そ》は我《われ》父《ちち》の許《もと》に之《ゆ》けばなり。 13汝《なんぢ》等《ら》が我《わが》名《な》に由《よ》りて(父《ちち》に)求《もと》むる所《ところ》は、何事《なにごと》も我《われ》之《これ》を為《な》さん、是《これ》父《ちち》が子《こ》に於《おい》て光榮《くわうえい》を歸《き》せられ給《たま》はん為《ため》なり。 14汝《なんぢ》等《ら》我《わが》名《な》によりて何《なに》をか我《われ》に求《もと》めば、我《われ》之《これ》を為《な》さん。 15汝《なんぢ》等《ら》若《もし》我《われ》を愛《あい》せば我《わが》命《めい》を守《まも》れ、 16而《しか》して我《われ》は父《ちち》に請《こ》ひ、父《ちち》は他《た》の弁護《べんご》者《しや》を汝《なんぢ》等《ら》に賜《たま》ひて、永遠《えいえん》に汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に止《とどま》らしめ給《たま》はん。 17是《これ》即《すなは》ち眞理《しんり》の霊《れい》にして、世《よ》は之《これ》を見《み》ず且《かつ》知《し》らざるに由《よ》りて、之《これ》を承《う》くるに能《あた》はず、然《しか》れども汝《なんぢ》等《ら》は之《これ》を知《し》らん、其《そ》は汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に止《とどま》りて、汝《なんぢ》等《ら》の中《うち》に居《ゐ》給《たま》ふべければなり。 18我《われ》汝《なんぢ》等《ら》を孤児《みなしご》として遺《のこ》さじ、将《まさ》に汝《なんぢ》等《ら》に來《きた》らんとす。 19今《いま》暫時《しばし》にして、世《よ》は最早《もはや》我《われ》を見《み》ざるべし、然《さ》れど汝《なんぢ》等《ら》は我《われ》を見《み》る、其《そ》は我《われ》は活《い》き居《を》りて汝《なんぢ》等《ら》も亦《また》活《い》くべければなり。 20汝《なんぢ》等《ら》彼《かの》日《ひ》に、我《われ》わが父《ちち》に居《を》り、汝《なんぢ》等《ら》我《われ》に居《を》り、我《われ》汝《なんぢ》等《ら》に居《を》る事《こと》を暁《さと》らん。 21我《わが》命令《めいれい》を有《いう》して之《これ》を守《まも》る者《もの》は、是《これ》我《われ》を愛《あい》する者《もの》なり、我《われ》を愛《あい》する者《もの》は我《わが》父《ちち》に愛《あい》せらるべく、我《われ》も之《これ》を愛《あい》して之《これ》に己《おのれ》を顕《あらは》すべし、と。 22彼《かの》イスカリオテに非《あら》ざるユダ、イエズスに謂《い》ひけるは、主《しゆ》よ何《なに》為《すれ》ぞ、己《おのれ》を我《われ》等《ら》に顕《あらは》して世《よ》に顕《あらは》し給《たま》はざるや。 23イエズス答《こた》へて曰《のたま》ひけるは、人《ひと》若《もし》我《われ》を愛《あい》せば、我《わが》言《ことば》を守《まも》らん、斯《かく》て我《わが》父《ちち》は彼《かれ》を愛《あい》し給《たま》ひ、我《われ》等《ら》彼《かれ》に至《いた》りて其《その》内《うち》に住《す》まん、 24我《われ》を愛《あい》せざる者《もの》は我《わが》言《ことば》を守《まも》らず、而《しか》して汝《なんぢ》等《ら》の聞《き》きしは我《わが》言《ことば》に非《あら》ずして、我《われ》を遣《つかは》し給《たま》ひし父《ちち》のなり。 25我《われ》尚《なほ》汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に居《を》りて是《これ》等《ら》の事《こと》を汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りしが、 26父《ちち》の我《わが》名《な》に由《よ》りて遣《つか》はし給《たま》ふべき弁護《べんご》者《しや》たる聖霊《せいれい》は、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に謂《い》ひし総《すべ》ての事《こと》を教《をし》へ、且《かつ》思《おもひ》出《い》でしめ給《たま》ふべし 27我《われ》は平安《へいあん》を汝《なんぢ》等《ら》に遺《のこ》し、我《わが》平安《へいあん》を汝《なんぢ》等《ら》に與《あた》ふ、我《わ》が之《これ》を與《あた》ふるは、世《よ》の與《あた》ふる如《ごと》くには非《あら》ず、汝《なんぢ》等《ら》の心《こころ》騒《さわ》ぐべからず、又《また》怖《おそ》るべからず、 28曾《かつ》て我《われ》往《ゆ》きて復《また》汝《なんぢ》等《ら》に來《きた》らんとと云《い》ひしは、汝《なんぢ》等《ら》が聞《き》ける所《ところ》なり、汝《なんぢ》等《ら》我《われ》を愛《あい》するならば、必《かなら》ず我《わ》が父《ちち》の許《もと》に歸《かへ》るを喜《よろこ》ぶならん、父《ちち》は我《われ》より更《さら》に大《おほ》いに在《ましま》せばなり。 29今《いま》事《こと》の成《な》るに先《さき》だちて我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》げたるは、其《その》成《な》りて後《のち》汝《なんぢ》等《ら》に信《しん》ぜしめん為《ため》なり。 30最早《もはや》多《おほ》く汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》らじ、蓋《けだし》此《この》世《よ》の長《かしら》來《きた》る、彼《かれ》は我《われ》に何《なん》の権《けん》をも有《いう》せず。 31然《さ》れど我《わ》が父《ちち》を愛《あい》して父《ちち》の我《われ》に命《めい》じ給《たま》ひし如《ごと》く行《おこな》ふ事《こと》を世《よ》の知《し》らん為《ため》に、立《た》て、将《いざ》此處《ここ》より去《さ》らん。
[編集] 第15章
1我《われ》は眞《しん》の葡萄《ぶだうの》樹《き》にして、我《わが》父《ちち》は栽培《さいばい》者《しや》なり、 2我《われ》に在《あ》る枝《えだ》の果《み》を結《むす》ばざる者《もの》は、父《ちち》悉《ことごと》く之《これ》を伐《きり》去《さ》り、果《み》を結《むす》ぶ者《もの》は、尚《なほ》多《おほ》く果《み》を結《むす》ばしめん為《ため》に、悉《ことごと》く之《これ》を切《きり》透《す》かし給《たま》ふべし。 3我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りたる言《ことば》に由《よ》りて汝《なんぢ》等《ら》は既《すで》に潔《きよ》きなり。 4我《われ》に止《とどま》れ、我《われ》も亦《また》汝《なんぢ》等《ら》に止《とどま》るべし。枝《えだ》が葡萄《ぶだうの》樹《き》に止《とどま》るに非《あら》ずば自《みづか》ら果《み》を結《むす》ぶこと能《あた》はざる如《ごと》く、汝《なんぢ》等《ら》も我《われ》に止《とどま》るに非《あら》ずば能《あた》はじ。 5我《われ》は葡萄《ぶだうの》樹《き》にして汝《なんぢ》等《ら》は枝《えだ》なり、我《われ》に止《とどま》り我《わ》が之《これ》に止《とどま》る人《ひと》、是《これ》多《おほ》くの果《み》を結《むす》ぶ者《もの》なり、蓋《けだし》我《われ》を離《はな》れては、汝《なんぢ》等《ら》何事《なにごと》をも為《な》す能《あた》はず。 6人《ひと》若《もし》我《われ》に止《とどま》らずば枝《えだ》の如《ごと》く棄《す》てられて枯《か》れ、然《さ》て拾《ひろ》はれ、火《ひ》に投入《なげい》れられて焚《や》けん。 7汝《なんぢ》等《ら》若《もし》我《われ》に止《とどま》り、我《わが》言《ことば》汝《なんぢ》等《ら》に止《とどま》らば、欲《ほつ》する所《ところ》を願《ねが》はんに叶《かな》へらるべし。 8我《わが》父《ちち》の據《よ》りて以《もつ》て光榮《くわうえい》を得《え》給《たま》ふは、汝《なんぢ》等《ら》が夥《おびただ》しき果《み》を結《むす》びて我《わが》弟子《でし》と成《な》らん事《こと》是《これ》なり。 9父《ちち》の我《われ》を愛《あい》し給《たま》へ如《ごと》く、我《われ》も亦《また》汝《なんぢ》等《ら》を愛《あい》せり、汝《なんぢ》等《ら》我《わが》愛《あい》に止《とどま》れ。 10若《もし》我《わが》命《めい》を守《まも》らば汝《なんぢ》等《ら》我《わが》愛《あい》に止《とどま》る事《こと》、我《われ》も我《わが》父《ちち》の命《めい》を守《まも》りて其《その》愛《あい》に止《とどま》るが如《ごと》くなるべし。 11是《これ》等《ら》の事《こと》を汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》れるは、我《わが》喜《よろこび》汝《なんぢ》等《ら》の衷《うち》に在《あ》りて、汝《なんぢ》等《ら》が喜《よろこび》の全《まつた》うせられん為《ため》なり。 12汝《なんぢ》等《ら》相《あひ》愛《あい》すること、我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》を愛《あい》せしが如《ごと》くせよ、是《これ》我《わが》命《めい》なり。 13誰《たれ》も其《その》友《とも》の為《ため》に生命《いのち》を棄《す》つるより大《おほ》いなる愛《あい》を有《も》てる者《もの》はあらず。 14汝《なんぢ》等《ら》若《もし》我《わ》が命《めい》ずる所《ところ》を行《おこな》はば是《これ》我《わが》友《とも》なり。 15我《われ》最早《もはや》汝《なんぢ》等《ら》を僕《しもべ》と呼《よ》ばじ、僕《しもべ》は其《その》主《しゆ》の為《な》す所《ところ》を知《し》らざればなり。然《さ》て我《われ》は汝《なんぢ》等《ら》を友《とも》と呼《よ》べり、是《これ》総《すべ》て我《わが》父《ちち》より聞《き》きし事《こと》を悉《ことごと》く汝《なんぢ》等《ら》に知《し》らせたればなり。 16汝《なんぢ》等《ら》が我《われ》を選《えら》みたるに非《あら》ず、我《われ》こそ汝《なんぢ》等《ら》を選《えら》みて立《た》てたるなれ、是《これ》汝《なんぢ》等《ら》が往《ゆ》きて果《み》を結《むす》び其《その》果《み》永《なが》く存《そん》して、我《わが》名《な》によりて父《ちち》に何事《なにごと》を願《ねが》ふも、父《ちち》が汝《なんぢ》等《ら》に之《これ》を賜《たま》はん為《ため》なり。 17我《わ》が斯《か》く汝《なんぢ》等《ら》に命《めい》ずるは、汝《なんぢ》等《ら》が相《あひ》愛《あい》せん為《ため》なり。 18世《よ》若《もし》汝《なんぢ》等《ら》を憎《にく》まば、汝《なんぢ》等《ら》より先《さき》に我《われ》を憎《にく》めりと知《し》れ。 19汝《なんぢ》等《ら》世《よ》のものなりしならば、世《よ》は己《おの》がものとして愛《あい》せしならん、然《さ》れども、世《よ》のものに非《あら》ずして、我《わ》が世《よ》より選出《えらみいだ》せる汝《なんぢ》等《ら》なれば、世《よ》は汝《なんぢ》等《ら》を憎《にく》むなり。 20僕《しもべ》は其《その》主《しゆ》より大《おほ》いならず、と我《わ》が曾《かつ》て汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りしを記憶《きおく》せよ、人《ひと》我《われ》を迫害《はくがい》したれば、亦《また》汝《なんぢ》等《ら》をも迫害《はくがい》せん、我《わが》言《ことば》を守《まも》りたれば、亦《また》汝《なんぢ》等《ら》の言《ことば》をも守《まも》らん、 21然《しか》れども此《この》凡《すべ》ての事《こと》は、彼等《かれら》我《わが》名《な》の為《ため》に之《これ》を汝《なんぢ》等《ら》に為《な》さん、是《これ》我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし者《もの》を知《し》らざる故《ゆゑ》なり。 22若《もし》我《わ》が來《きた》りて彼等《かれら》に告《つ》ぐる事《こと》なかりせば、彼等《かれら》罪《つみ》なかりしならん。然《さ》れど今《いま》は其《その》罪《つみ》を推《かこ》*《つ》くるに所《ところ》なし。 23我《われ》を憎《にく》む人《ひと》は我《わが》父《ちち》をも憎《にく》むなり、 24若《もし》我《われ》彼等《かれら》の中《うち》に在《あ》りて、何人《なにびと》も曾《かつ》て為《な》さざりし業《わざ》を行《おこな》はざりせば、彼等《かれら》罪《つみ》なかりしならん。然《さ》れど今《いま》は現《げん》に之《これ》を眼前《まのあたり》に見《み》て而《しか》も我《われ》と我《わが》父《ちち》とを憎《にく》みたるなり。 25但《ただ》し是《これ》彼等《かれら》の律法《りつぱふ》に録《かきしる》して「彼等《かれら》謂《いはれ》なく我《われ》を憎《にく》めり」とある言《ことば》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なり。 26斯《かく》て父《ちち》の許《もと》より我《わ》が遣《つか》はさんとする弁護《べんご》者《しや》、即《すなは》ち父《ちち》より出《い》づる眞理《しんり》の霊《れい》來《きた》らば、我《われ》に就《つ》きて證明《しようめい》を為《な》し給《たま》はん、 27汝《なんぢ》等《ら》も初《はじめ》より我《われ》に伴《ともな》へるに由《よ》りて亦《また》證明《しようめい》を為《な》さん。
[編集] 第16章
1我《わ》が斯《か》く汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りしは、汝《なんぢ》等《ら》の躓《つまづ》かざらん為《ため》なり。 2人々《ひとびと》汝《なんぢ》等《ら》を會堂《くわいどう》より逐出《おひいだ》さん、而《しか》も汝《なんぢ》等《ら》を殺《ころ》す人《ひと》凡《すべ》て自《みづか》ら神《かみ》に盡《つく》すと思《おも》ふ時《とき》來《きた》らん。 3人《ひと》の斯《かか》る事《こと》を汝《なんぢ》等《ら》に為《な》さんとするは、父《ちち》をも我《われ》をも知《し》らざる故《ゆゑ》なり。 4但《ただ》し我《わ》が斯《か》く汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りたるは、時《とき》至《いた》らば汝《なんぢ》等《ら》をして、我《わ》が之《これ》を告《つ》げたるを思《おもひ》出《い》でしめんが為《ため》なり。 5而《しか》も之《これ》を初《はじめ》より告《つ》げざりしは、汝《なんぢ》等《ら》と共《とも》に居《を》りし故《ゆゑ》なり、今《いま》我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし者《もの》に至《いた》らんとするに、何處《いづこ》に至《いた》るぞと我《われ》に問《と》ふ者《もの》、汝《なんぢ》等《ら》の中《うち》に一人《ひとり》もあらず、 6然《さ》れど斯《か》く語《かた》りしに因《よ》りて、憂《うれひ》汝《なんぢ》等《ら》の心《こころ》に満《み》てり。 7然《さ》りながら我《われ》實《じつ》を以《もつ》て汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、我《わ》が去《さ》るは汝《なんぢ》等《ら》に利《り》あり、我《われ》若《もし》去《さ》らずば弁護《べんご》者《しや》は汝《なんぢ》等《ら》に來《きた》るまじきを、去《さ》りなば我《われ》之《これ》を汝《なんぢ》等《ら》に遣《つか》はすべければなり。 8彼《かれ》來《きた》らば世《よ》を責《せ》めて、罪《つみ》と義《ぎ》と審判《しんぱん》とに就《つ》きて其《その》過《あやまち》を認《みと》めしめん。 9罪《つみ》に就《つ》きてとは、人々《ひとびと》我《われ》を信《しん》ぜざりし故《ゆゑ》なり。 10義《ぎ》に就《つ》きてとは、我《われ》父《ちち》の許《もと》に去《さ》りて汝《なんぢ》等《ら》最早《もはや》我《われ》を見《み》ざるべき故《ゆゑ》なり。 11審判《しんぱん》に就《つ》きてとは、此《この》世《よ》の長《かしら》既《すで》に審判《しんぱん》せられたる故《ゆゑ》なり。 12我《わ》が汝《なんぢ》等《ら》に云《い》ふべき事《こと》尚《なほ》多《おほ》けれども、汝《なんぢ》等《ら》今《いま》は之《これ》に得《え》堪《た》へず。 13彼《かの》眞理《しんり》の霊《れい》來《きた》らん時《とき》、一切《いつさい》の眞理《しんり》を汝《なんぢ》等《ら》に教《をし》へ給《たま》はん。其《そ》は己《おのれ》より語《かた》るに非《あら》ずして、悉《ことごと》く其《その》聞《き》きたらん所《ところ》を語《かた》り、又《また》起《おこ》るべき事《こと》を汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》げ給《たま》ふべければなり。 14彼《かれ》は我《われ》に光榮《くわうえい》あらしむべし、其《そ》は我《わ》がものを受取《うけと》りて汝《なんぢ》等《ら》に示《しめ》し給《たま》ふべければなり。 15凡《すべ》て父《ちち》の有《いう》し給《たま》ふものは悉《ことごと》く我《わが》ものなり、彼《かれ》は我《わが》ものを受取《うけと》りて汝《なんぢ》等《ら》に示《しめ》し給《たま》はんと云《い》へるは、之《これ》を以《もつ》てなり。 16暫《しばら》くにして汝《なんぢ》等《ら》最早《もはや》我《われ》を見《み》ざるべく、又《また》暫《しばら》くにして我《われ》を見《み》ん、是《これ》我《わが》父《ちち》に至《いた》ればなり、[と曰《のたま》へり]。 17是《ここ》に於《おい》て弟子《でし》の或《ある》人々《ひとびと》、暫《しばら》くにして汝《なんぢ》等《ら》我《われ》を見《み》ざるべく、又《また》暫《しばら》くにして我《われ》を見《み》ん、又《また》我《わが》父《ちち》に至《いた》ればなり、と曰《のたま》へるは何事《なにごと》ぞ、と語《かたり》合《あ》ひつつ、 18然《さ》て、暫《しばら》くにしてと曰《のたま》へるは何《なん》ぞや、我《われ》等《ら》は其《その》語《かた》り給《たま》ふ所《ところ》を知《し》らず、と云《い》ひ居《を》りしに、 19イエズス彼等《かれら》が己《おのれ》に問《と》はんと欲《ほつ》するを暁《さと》りて曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》は、暫《しばら》くにして汝《なんぢ》等《ら》を見《み》ざるべく、又《また》暫《しばら》くにして我《われ》を見《み》ん、と我《わ》が云《い》へるを僉議《せんぎ》し合《あ》へるか、 20誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、汝《なんぢ》等《ら》は悲《かな》しみ且《かつ》泣《な》かんに世《よ》は喜《よろこ》ぶべく、汝《なんぢ》等《ら》は憂《うれ》ふべけれども、其《その》憂《うれひ》は變《かは》りて喜《よろこび》となるべし。 21婦《をんな》の産《う》まんとするや、我《わが》時期《じき》來《きた》れりとて憂《うれ》ふれども、既《すで》に子《こ》を産《う》み了《をは》れば、世《よ》に人《ひと》一人《ひとり》生《うま》れたる喜《よろこび》によりて、最早《もはや》苦痛《くつう》を覚《おぼ》ゆる事《こと》なし。 22汝《なんぢ》等《ら》も今《いま》は憂《うれひ》を懐《いだ》けども、我《われ》再《ふたた》び汝《なんぢ》等《ら》を見《み》ば、汝《なんぢ》等《ら》の心《こころ》は喜《よろこ》ぶべく、而《しか》も其《その》喜《よろこび》を汝《なんぢ》等《ら》より奪《うば》ふ者《もの》なかるべし。 23彼《かの》日《ひ》には、汝《なんぢ》等《ら》何事《なにごと》をも我《われ》に問《と》はざらん。誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐ、汝《なんぢ》等《ら》もし我《わが》名《な》によりて父《ちち》に求《もと》むる所《ところ》あらば、父《ちち》は之《これ》を汝《なんぢ》等《ら》に賜《たま》ふべし。 24汝《なんぢ》等《ら》今《いま》までは、我《わが》名《な》によりて何《なに》をも求《もと》めざりしが、求《もと》めよ、然《さ》らば受《う》け得《え》て汝《なんぢ》等《ら》の喜《よろこび》全《まつた》かるべし。 25我《われ》喩《たとへ》を以《もつ》て斯《か》く汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りしかど、最早《もはや》喩《たとへ》を以《もつ》て語《かた》らずして明白《あからさま》に父《ちち》に就《つ》きて汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》ぐべき時《とき》は來《きた》る、 26其《その》日《ひ》には汝《なんぢ》等《ら》我《わが》名《な》によりて求《もと》めん、而《しか》も我《われ》汝《なんぢ》等《ら》の為《ため》に父《ちち》に祈《いの》らんとは云《い》はず、 27其《そ》は汝《なんぢ》等《ら》我《われ》を愛《あい》して、我《わ》が神《かみ》より出《い》でたるを信《しん》じたるが故《ゆゑ》に、父《ちち》自《みづか》ら汝《なんぢ》等《ら》を愛《あい》し給《たま》へばなり。 28我《われ》は父《ちち》より出《い》でて世《よ》に來《きた》りしが、復《また》世《よ》を離《はな》れて父《ちち》に至《いた》る、と曰《のたま》ひしかば、 29弟子《でし》等《たち》云《い》ひけるは、今《いま》は明白《あからさま》に語《かた》り給《たま》ひて豪《すこし》も喩《たとへ》を語《かた》り給《たま》はず。 30今《いま》にして我《われ》等《ら》は、汝《なんぢ》が萬事《ばんじ》を知《し》り給《たま》ひて、人《ひと》の問《と》ふを待《ま》ち給《たま》はざる事《こと》を知《し》り、是《これ》によりて汝《なんぢ》の神《かみ》より出《い》で給《たま》へる事《こと》を信《しん》ず、と。 31イエズス彼等《かれら》に答《こた》へ給《たま》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》は今《いま》信《しん》ずるか、 32看《み》よ時《とき》は來《きた》る、最早《もはや》來《きた》れり、汝《なんぢ》等《ら》は何《いず》れも己《おの》がじし散亂《ちりみだ》れて我《われ》を獨《ひと》り棄《すて》置《お》くに至《いた》らん。然《さ》れど我《われ》は獨《ひとり》に非《あら》ず、其《そ》は父《ちち》我《われ》と共《とも》に在《いま》せばなり。 33斯《か》く汝《なんぢ》等《ら》に語《かた》りたるは、汝《なんぢ》等《ら》が我《われ》に於《おい》て平安《へいあん》を得《え》ん為《ため》なり。世《よ》に於《おい》ては汝《なんぢ》等《ら》難《なやみ》に遇《あ》はん、然《さ》れど頼《たの》もしかれ、我《われ》は世《よ》に勝《か》てり、と。
[編集] 第17章
1イエズス斯《か》く語《かた》り果《は》てて、目《め》を翹《あ》げ天《てん》を仰《あふ》ぎて曰《のたま》ひけるは、父《ちち》よ時《とき》來《きた》れり、御子《おんこ》をして汝《なんぢ》に光榮《くわうえい》あらしめん為《ため》に、御子《おんこ》に光榮《くわうえい》あらしめ給《たま》へ、 2其《そ》は父《ちち》より賜《たま》はりし人々《ひとびと》に永遠《えいえん》の生命《せいめい》を與《あた》へしめんとて、之《これ》に萬民《ばんみん》の上《うへ》に権能《けんのう》を賜《たま》ひたればなり。 3抑《そもそも》永遠《えいえん》の生命《せいめい》は、唯一《ゆゐいつ》の眞《まこと》の神《かみ》にて在《ましま》す汝《なんぢ》と、其《その》遣《つか》はし給《たま》へるイエズス、キリストとを知《し》るに在《あ》り。 4我《われ》は地上《ちじやう》にて汝《なんぢ》に光榮《くわうえい》あらしめ、我《われ》に為《な》さしめんとて賜《たま》ひし業《わざ》を全《まつた》うせり。 5父《ちち》よ、世界《せかい》の存在《そんざい》に前《さき》だちて我《わ》が汝《なんぢ》と共《とも》に有《いう》せし光榮《くわうえい》を以《もつ》て、今《いま》汝《なんぢ》と共《とも》に我《われ》に光榮《くわうえい》あらしめ給《たま》へ。 6我《われ》は、此《この》世《よ》より選《えら》みて我《われ》に賜《たま》ひし人々《ひとびと》に御名《みな》を顕《あらは》せり。彼等《かれら》汝《なんぢ》のものたりしに之《これ》を我《われ》に賜《たま》ひ、彼等《かれら》は汝《なんぢ》の言《ことば》を守《まも》り、 7我《われ》に賜《たま》ひし事《こと》悉《ことごと》く汝《なんぢ》より出《い》づることを今《いま》にして暁《さと》れり。 8蓋《けだし》我《われ》に賜《たま》ひし言《ことば》を我《われ》彼等《かれら》に授《さづ》け、彼等《かれら》は之《これ》を受《う》けて、深《ふか》く我《わ》が汝《なんぢ》より出《い》でたるを暁《さと》り、汝《なんぢ》の我《われ》に遣《つか》はし給《たま》ひしことを信《しん》ぜり。 9我《われ》彼等《かれら》の為《ため》に祈《いの》る。我《わ》が祈《いの》るは世《よ》の為《ため》に非《あら》ずして、我《われ》に賜《たま》ひたる人々《ひとびと》の為《ため》なり、彼等《かれら》は汝《なんぢ》のものなればなり。 10我《わが》ものは悉《ことごと》く汝《なんぢ》のもの、汝《なんぢ》のものは我《わが》ものにして、我《われ》彼等《かれら》の中《うち》に光榮《くわうえい》を得《え》たり。 11我《われ》最早《もはや》世《よ》に居《を》らず、彼等《かれら》は世《よ》に居《を》り、我《われ》は汝《なんぢ》に至《いた》る。聖《せい》なる父《ちち》よ、我《われ》に賜《たま》ひたる人々《ひとびと》を御名《みな》を以《もつ》て護《まも》り給《たま》へ、是《これ》我《われ》等《ら》の如《ごと》く彼等《かれら》も一《いつ》ならん為《ため》なり。 12我《われ》彼等《かれら》と共《とも》なりし間《あひだ》、御名《みな》を以《もつ》て彼等《かれら》を護《まも》り居《ゐ》たりしが、我《われ》に賜《たま》ひたる人々《ひとびと》を保《たも》ち、其《その》中《うち》の一人《ひとり》も失《う》せず、唯《ただ》聖書《せいしよ》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》に、亡《ほろび》の子《こ》の失《う》せたるのみ。 13今《いま》は我《われ》汝《なんぢ》に至《いた》る、世《よ》に在《あ》りて斯《か》く語《かた》るは、我《わが》喜《よろこび》を彼等《かれら》の身《み》に円満《えんまん》ならしめんが為《ため》なり。 14我《われ》は御言《おんことば》を彼等《かれら》に授《さづ》け、世《よ》は彼等《かれら》を憎《にく》めり、是《こ》は我《われ》も世《よ》のものに非《あら》ざる如《ごと》く、彼等《かれら》は世《よ》のものに非《あら》ざればなり。 15我《わ》が祈《いの》るは彼等《かれら》を世《よ》より取去《とりさ》り給《たま》へとには非《あら》ず、彼等《かれら》を護《まも》りて惡《あく》を逃《のが》れしめ給《たま》へとなり。 16我《われ》も世《よ》のものに非《あら》ざる如《ごと》く、彼等《かれら》は世《よ》のものに非《あら》ず、 17願《ねがは》くは彼等《かれら》を眞理《しんり》の中《うち》に聖《せい》ならしめ給《たま》へ、御言《おんことば》は即《すなは》ち眞理《しんり》なり、 18我《われ》を世《よ》に遣《つか》はし給《たま》ひし如《ごと》く、我《われ》も彼等《かれら》を世《よ》に遣《つか》はせり、 19且《かつ》彼等《かれら》をも眞理《しんり》の中《うち》に聖《せい》ならしめんとして、彼等《かれら》の為《ため》に己《おのれ》を聖《せい》ならしむ。 20我《わ》が祈《いの》るは彼等《かれら》の為《ため》のみならず、又《また》彼等《かれら》の言《ことば》によりて我《われ》を信《しん》ずる人々《ひとびと》の為《ため》にして、 21彼等《かれら》が悉《ことごと》く一《いつ》ならん為《ため》なり。父《ちち》よ、是《これ》汝《なんぢ》の我《われ》に在《いま》し我《わ》が汝《なんぢ》に居《を》るが如《ごと》く、彼等《かれら》も我《われ》等《ら》に居《を》りて一《いつ》ならん為《ため》にして、汝《なんぢ》の我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし事《こと》を世《よ》に信《しん》ぜしめんとてなり。 22我《われ》に賜《たま》ひし光榮《くわうえい》を我《われ》彼等《かれら》に與《あた》へたり、是《こ》は我《われ》等《ら》の一《いつ》なるが如《ごと》く、彼等《かれら》も一《いつ》ならん為《ため》なり。 23我《われ》彼等《かれら》に居《を》り汝《なんぢ》我《われ》に在《いま》す、是《こ》は彼等《かれら》が一《いつ》に全《まつた》うせられん為《ため》、又《また》汝《なんぢ》の我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし事《こと》と、我《われ》を愛《あい》し給《たま》ひし如《ごと》く彼等《かれら》をも愛《あい》し給《たま》ひし事《こと》とを、世《よ》の暁《さと》らん為《ため》なり。 24父《ちち》よ、願《ねがは》くは我《われ》に賜《たま》ひし人々《ひとびと》も、我《わ》が居《を》る處《ところ》に我《われ》と共《とも》ならん事《こと》を、是《これ》世界《せかい》開闢《かいびやく》以前《いぜん》より我《われ》を愛《あい》し給《たま》ひて我《われ》に賜《たま》ひたる我《わが》光榮《くわうえい》を、彼等《かれら》に見《み》せん為《ため》なり。 25正《ただ》しき父《ちち》よ、世《よ》は汝《なんぢ》を知《し》らざれども我《われ》は汝《なんぢ》を知《し》り、彼等《かれら》も亦《また》汝《なんぢ》の我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひしことを知《し》れり。 26我《われ》は御名《みな》を彼等《かれら》に知《し》らせたり、又《また》知《し》らせんとす、是《これ》我《われ》を愛《あい》し給《たま》ひたる愛《あい》の彼等《かれら》に存《そん》して、我《われ》も彼等《かれら》に居《を》らん為《ため》なり、[と曰《のたま》へり]。
[編集] 第18章
1イエズス斯《か》く曰《のたま》ひて、弟子《でし》等《たち》と共《とも》にセドロンの渓流《たにがは》の彼方《かなた》に出《い》で給《たま》ひしが、其處《そこ》に園《その》の在《あ》りけるに、弟子《でし》等《たち》を伴《ともな》ひて入《い》り給《たま》へり。 2イエズス屡《しばしば》弟子《でし》と共《とも》に此處《ここ》に集《あつま》り給《たま》ひければ、彼《かれ》を売《う》れるユダも處《ところ》を知《し》り居《ゐ》たり。 3然《さ》ればユダは、一隊《いつたい》の兵卒《へいそつ》及《およ》び下役《したやく》等《ども》を大司祭《だいしさい》ファリザイ人《じん》より受《う》けて、提燈《ちやうちん》と炬火《たいまつ》と武器《ぶき》とを持《も》ちて此處《ここ》に來《きた》れり。 4イエズス我《わ》が身《み》に來《きた》るべき事《こと》を悉《ことごと》く知《し》り給《たま》ひて、進出《すすみい》でて彼等《かれら》に向《むか》ひ、誰《たれ》を尋《たず》ぬるぞ、と曰《のたま》ひしかば彼等《かれら》、ナザレトのイエズスを、と答《こた》へしに、 5イエズス、其《そ》は我《われ》なり、と曰《のたま》ひしが、彼《かれ》を付《わた》せるユダも彼等《かれら》と共《とも》に立《た》ち居《ゐ》たり。 6然《さ》てイエズスが我《われ》なりと曰《のたま》ふや、彼等《かれら》後退《あとずさり》して地《ち》に倒《たふ》れたり。 7イエズス乃《すなは》ち復《また》、汝《なんぢ》等《ら》誰《たれ》を尋《たず》ぬるぞ、と問《と》ひ給《たま》ひしに彼等《かれら》、ナザレトのイエズスを、云《い》ひたれば、 8イエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、我《われ》既《すで》に我《われ》なりと汝《なんぢ》等《ら》に告《つ》げたり、我《われ》を尋《たず》ぬるならば、此《この》人々《ひとびと》を容《ゆる》して去《さ》らしめよ、と。 9是《これ》曾《かつ》て、我《われ》に賜《たま》ひたる人々《ひとびと》を我《われ》一人《ひとり》も失《うしな》はざりき、と曰《のたま》ひし御言《おんことば》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なり。 10時《とき》にシモン、ペトロ剣《つるぎ》を持《も》ちたりしかば、抜《ぬ》きて大司祭《だいしさい》の僕《しもべ》を撃《う》ち、其《その》右《みぎ》の耳《みみ》を切《きり》落《おと》ししが、其《その》僕《しもべ》の名《な》をマルクスと云《い》へり。 11然《さ》てイエズスペトロに曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》の剣《つるぎ》を鞘《さや》に収《をさ》めよ、父《ちち》の我《われ》に賜《たま》ひたる杯《さかずき》は我《われ》之《これ》を飲《の》まざらんや、と。 12斯《かく》て兵隊《へいたい》、千夫長《せんぷちやう》、及《およ》びユデア人《じん》の下役《したやく》等《ども》、イエズスを捕《とら》へて之《これ》を縛《しば》り、 13先《まず》アンナの許《もと》に引行《ひきゆ》けり、是《これ》其《その》年《とし》の大司祭《だいしさい》たるカイファの舅《しうと》なるが故《ゆゑ》にして。 14カイファは曾《かつ》てユデア人《じん》に向《むか》ひて、一人《いちにん》が人民《じんみん》の為《ため》に死《し》するは利《り》なり、との忠告《ちゆうこく》を與《あた》へたりし人《ひと》なり。 15然《しか》るにシモン、ペトロ及《およ》び他《た》の一人《ひとり》の弟子《でし》、イエズスの後《のち》に從《したが》ひたりしが、彼《かの》弟子《でし》は曾《かつ》て大司祭《だいしさい》に知《し》られたりければ、イエズスと共《とも》に大司祭《だいしさい》の庭《にわ》に入《い》りしも、 16ペトロは門《もん》の外《そと》に立《た》ちてありしに、彼《かの》大司祭《だいしさい》に知《し》られたりし弟子《でし》出《い》でて門番《もんばん》の婦《をんな》に語《かた》らいしかば、ペトロを内《うち》に入《い》れたり。 17斯《かく》て門番《もんばん》の婦《をんな》ペトロに向《むか》ひ、汝《なんぢ》も彼《かの》人《ひと》の弟子《でし》の一人《ひとり》ならずや、と云《い》ひしに彼《かれ》、然《しか》らずと云《い》へり。 18時《とき》しも寒《かん》かりければ、僕《しもべ》及《およ》び下役《したやく》等《ども》、炭火《すみび》の傍《そば》に立《た》ちて煬《あた》り居《を》るに、ペトロも立《たつ》交《まじ》りて煬《あた》り居《を》れり。 19然《さ》て大司祭《だいしさい》は其《その》弟子《でし》と教《をしへ》とに就《つ》きてイエズスに問《と》ひしかば、 20イエズス之《これ》に答《こた》へ給《たま》ひけるは、我《われ》は白地《あからさま》に世《よ》に語《かた》り、何時《いつ》も凡《すべ》てのユデア人《じん》の相《あひ》集《あつ》まる會堂《くわいどう》及《およ》び[神《しん》]殿《でん》にて教《をし》へ、何事《なにごと》をも密《ひそか》に語《かた》りし事《こと》なし、 21汝《なんぢ》何《なん》ぞ我《われ》に問《と》ふや、我《わ》が語《かた》りし所《ところ》を聴聞《ちやうもん》したる人々《ひとびと》に問《と》へ、彼等《かれら》こそ我《わ》が言《い》ひし所《ところ》を知《し》るなれ、と。 22斯《か》く曰《のたま》ひしかば、立合《たちあ》へる一人《ひとり》の下役《したやく》、手《て》にてイエズスの頬《ほほ》を打《う》ち、汝《なんぢ》大司祭《だいしさい》に答《こた》ふるに斯《かく》の如《ごと》きか、と云《い》ひしを、 23イエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、我《わ》が言《い》ひし事《こと》惡《あし》くば其《その》惡《あし》き所以《ゆゑん》を證《しよう》せよ、若《もし》善《よ》くば何《なに》為《すれ》ぞ我《われ》を打《う》つや、と。 24斯《かく》てアンナはイエズスを縛《しば》りたる儘《まま》に、大司祭《だいしさい》カイファの許《もと》に送《おく》りたりき。 25然《さ》てシモン、ペトロ火《ひ》に煬《あた》りつつ立《た》てるに、人々《ひとびと》、汝《なんぢ》も彼《かれ》が弟子《でし》の一人《ひとり》ならずや、と云《い》ひしかばペトロ否《いな》みて、然《しか》らずと云《い》へり。 26又《また》一人《ひとり》、大司祭《だいしさい》の僕《しもべ》にしてペトロに耳《みみ》を切《せつ》落《お》とされし人《ひと》の親族《しんぞく》なる者《もの》、我《われ》汝《なんぢ》が園《その》にて彼《かれ》に伴《ともな》へるを見《み》たるに非《あら》ずや、と云《い》ふを、 27ペトロ又《また》否《いな》みたるに、鶏《にわとり》忽《たちま》ち鳴《うた》へり。 28斯《かく》て人々《ひとびと》、イエズスをカイファの許《もと》より官《くわん》廰《ちやう》に引《ひ》きしが、時《とき》は天明《よあけ》なりき。彼等《かれら》は汚《けが》れずして過越《すぎこし》の犠牲《いけにへ》を食《しよく》し得《え》ん為《ため》に、其《その》身《み》は官廰《くわんちやう》に入《い》らざりしかば、 29ピラト彼等《かれら》の居《を》る所《ところ》に出《い》でて、汝《なんぢ》等《ら》彼《かの》人《ひと》に對《たい》して如何《いか》なる事《こと》を告訴《こくそ》するぞ、と云《い》ひしに、 30彼等《かれら》答《こた》へて、彼《かれ》若《もし》惡人《あくにん》ならずば我《われ》等《ら》之《これ》を汝《なんぢ》に付《わた》さざりしならん、と云《い》ひければ、 31ピラト彼等《かれら》に向《むか》ひ、汝《なんぢ》等《ら》之《これ》を引受《ひきう》けて汝《なんぢ》等《ら》が律法《りつぱふ》の儘《まま》に審《さば》け、と云《い》ひしにユデア人《じん》、我《われ》等《ら》は人《ひと》を殺《ころ》す事《こと》を允《ゆる》されず、と云《い》へり。 32是《これ》イエズスが曾《かつ》て、如何《いか》なる死《しに》状《ざま》を以《もつ》て死《し》すべきかを、示《しめ》して曰《のたま》ひし御言《おんことば》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なりき。 33是《ここ》に於《おい》てピラト再《ふたた》び官《くわん》廰《ちやう》に入《い》り、イエズスを呼出《よびいだ》して、汝《なんぢ》はユデア人《じん》の王《わう》なるか、と云《い》ひしに、 34イエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、汝《なんぢ》之《これ》を己《おのれ》より云《い》へるか、又《また》人《ひと》我《われ》に就《つ》きて汝《なんぢ》に告《つ》げたるか。 35ピラト答《こた》へけるは、我《われ》豈《あに》ユデア人《じん》ならんや、汝《なんぢ》の國民《こくみん》と大司祭《だいしさい》等《ら》と汝《なんぢ》を我《われ》に付《わた》したるが、汝《なんぢ》何《なに》を為《な》したるぞ。 36イエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、我國《わがくに》は此《この》世《よ》のものに非《あら》ず、若《もし》我國《わがくに》此《この》世《よ》のものならば、我《われ》をユデア人《じん》に付《わた》されじとて、我《われ》臣《しん》僕《ぼく》は必《かなら》ず戰《たたか》ふならん、然《さ》れど今《いま》我國《わがくに》は茲《ここ》のものならず、と。 37斯《かく》てピラトイエズスに向《むか》ひ、然《しか》らば汝《なんぢ》は王《わう》なるか、と云《い》ひしにイエズス答《こた》へたまいけるは、汝《なんぢ》の云《い》へる[が如《ごと》し、]我《われ》は王《わう》なり、我《われ》之《これ》が為《ため》に生《うま》れ、之《これ》が為《ため》に世《よ》に來《きた》れり。即《すなは》ち眞理《しんり》に證明《しようめい》を與《あた》へん為《ため》なり、総《すべ》て眞理《しんり》に據《よ》れる人《ひと》は我《わが》聲《こゑ》を聴《き》く、と。 38ピラトイエズスに謂《い》ひけるは、眞理《しんり》とは何《なん》ぞや、と。斯《か》く云《い》ひて再《ふたた》びユデア人《じん》の所《ところ》に出《いで》行《ゆ》き、彼等《かれら》に云《い》ひけるは、我《われ》彼《かの》人《ひと》に何《なん》の罪《つみ》をも見出《みいだ》さず、 39但《ただ》し過越《すぎこしの》祭《まつり》に當《あた》りて、我《われ》汝《なんぢ》等《ら》に一人《ひとり》を赦《ゆる》すは汝《なんぢ》等《ら》の慣例《かんれい》なるが、然《しか》らばユデア人《じん》の王《わう》を我《われ》より赦《ゆる》されん事《こと》を欲《ほつ》するか、と。 40是《ここ》に於《おい》て彼等《かれら》復《また》一同《いちどう》に叫《さけ》びて、其《その》人《ひと》ならでバラバを、と云《い》へり、バラバは即《すなは》ち強盗《がうたう》なりき。
[編集] 第19章
1其《その》時《とき》ピラトイエズスを捕《とら》へて之《これ》を鞭《むちう》ち、 2兵卒《へいそつ》等《ら》は茨《いばら》の冠《かんむり》を編《あ》みて御《おん》頭《かうべ》に冠《かむ》らせ、又《また》赤《あか》き上衣《うはぎ》を着《き》せ、 3然《さ》て御前《みまへ》に至《いた》りて、ユデア人《じん》の王《わう》よ、安《やす》かれ、と云《い》ひて手《て》を以《もつ》て御《おん》頬《ほほ》を打《う》ち居《ゐ》たり。 4斯《かく》てピラト復《また》出來《いできた》り、人々《ひとびと》に向《むか》ひて言《い》ひけるは、我《わ》が何《なん》の罪《つみ》をも彼《かれ》に見《み》出《いだ》さざる事《こと》を汝《なんぢ》等《ら》に知《し》らしめん為《ため》に、看《み》よ彼《かれ》を汝《なんぢ》等《ら》の前《まへ》に引出《ひきいだ》すぞ、と。 5此《ここ》に於《おい》てイエズス、茨《いばら》の冠《かんむり》赤《あか》き上衣《うはぎ》にて出來《いできた》り給《たま》ひしかば、ピラト、看《み》よ人《ひと》を、と云《い》ひしに、 6大司祭《だいしさい》及《およ》び下役《したやく》等《ども》イエズスを見《み》るや叫《さけび》出《い》でて、十字架《じふじか》に釘《つ》けよ、十字架《じふじか》に釘《つ》けよ、と云《い》ひければピラト、汝《なんぢ》等《ら》自《みづか》ら之《これ》を執《と》りて十字架《じふじか》に釘《つ》けよ、我《われ》は何《なん》の罪《つみ》をも之《これ》に見《み》出《いだ》さざるを、と云《い》ひしに、 7ユデア人《じん》答《こた》へけるは、我《われ》等《ら》に律法《りつぱふ》あり、其《その》律法《りつぱふ》によりて彼《かれ》は死《し》せざるべからず、其《そ》は、己《おのれ》を神《かみ》の子《こ》としたればなり、と。 8ピラト此《この》言《ことば》を聞《き》きて、益《ますます》懼《おそ》れ、 9復《また》官《くわん》廰《ちやう》に入《い》りてイエズスに向《むか》ひ、汝《なんぢ》は何處《いづこ》の者《もの》ぞ、と云《い》ひしかど、イエズス答《こた》へ給《たま》はざれば、 10ピラト云《い》ひけるは、汝《なんぢ》我《われ》に言《ものい》はざるか、汝《なんぢ》を十字架《じふじか》に釘《つ》くるの権《けん》も、亦《また》免《ゆる》すの権《けん》も、我《われ》に在《あ》る事《こと》を知《し》らざるか、と。 11イエズス答《こた》へ給《たま》ひけるは、汝《なんぢ》上《うへ》より與《あた》へられたるに非《あら》ずば、我《われ》に對《たい》して何《なん》らの権《けん》あらんや。我《われ》を汝《なんぢ》に付《わた》したる者《もの》の罪《つみ》、是《ここ》に於《おい》てか更《さら》に大《おほ》いなり、と。 12是《これ》よりピラト復《また》イエズスを免《ゆる》さんと謀《はか》り居《ゐ》たれども、ユデア人《じん》叫《さけ》びて、汝《なんぢ》若《もし》此《この》人《ひと》を免《ゆる》さばセザルの忠《ちゆう》友《いう》に非《あら》ず、凡《すべ》て己《おのれ》を王《わう》とする人《ひと》はセザルに叛《そむ》く者《もの》なればなり、と云《い》ひければ、 13ピラト斯《かか》る言《ことば》を聞《き》きてイエズスを伴《つれ》出《いだ》し、切《きり》嵌《ばめ》の敷石《しきいし》、ヘブレオ語《ご》にてはガパタと云《い》へる處《ところ》にて、審判《しんぱん》席《せき》に就《つ》けり。 14恰《あたか》も過越《すぎこしの》祭《まつり》の用意《ようい》日《び》にして、十二時《じ》頃《ごろ》なりしが、ピラトユデア人《じん》に向《むか》ひ、看《み》よ汝《なんぢ》等《ら》の王《わう》を、と云《い》ひしに、 15彼等《かれら》、取《とり》除《の》けよ、取《とり》除《の》けよ、十字架《じふじか》に釘《つ》けよ、と叫《さけ》び居《ゐ》ければピラト彼等《かれら》に、我《われ》豈《あに》汝《なんぢ》等《ら》の王《わう》を十字架《じふじか》に釘《つ》けんや、と云《い》へるを大司祭《だいしさい》等《ら》、セザルの外《ほか》我《われ》等《ら》に王《わう》なし、と答《こた》へたり。 16斯《かく》てピラト、十字架《じふじか》に釘《つ》くる為《ため》にイエズスを彼等《かれら》に付《わた》しければ、兵卒《へいそつ》等《ら》之《これ》を取《と》りて引出《ひきいだ》ししが、 17イエズス自《みづか》ら十字架《じふじか》を負《お》ひ、彼《かの》髑髏《されかうべ》、ヘブレオ語《ご》にてゴルゴタと云《い》へる處《ところ》に出《い》で給《たま》へり。 18彼等《かれら》此處《ここ》にて之《これ》を十字架《じふじか》に釘《つ》け、又《また》別《べつ》に二人《ふたり》を左右《さいう》に、イエズスをば中央《まんなか》にして磔《はりつ》けたり。 19然《しか》るにピラト亦《また》罪標《すてふだ》を書《か》きて十字架《じふじか》の上《うへ》に置《お》きしが、ユデア人《じん》の王《わう》ナザレトのイエズスと記《しる》されたりき。 20イエズスの十字架《じふじか》に釘《つ》けられ給《たま》ひし處《ところ》は市街《まち》に近《ちか》くして、罪標《すてふだ》はヘブレオとギリシアとラテンとの語《ことば》にて書《か》きたれば、ユデア人《じん》の中《うち》に之《これ》を読《よ》みたる者《もの》多《おほ》し。 21然《さ》ればユデア人《じん》の大司祭《だいしさい》等《ら》ピラトに向《むか》ひ、ユデア人《じん》の王《わう》と書《か》かずして、ユデア人《じん》の王《わう》と自稱《じしよう》せし者《もの》と書《か》き給《たま》へ、と云《い》ひしをピラトは、 22我《わ》が書《か》きし所《ところ》は書《か》きし[儘《まま》なれ、]と答《こた》へたり。 23斯《かく》て兵卒《へいそつ》等《ら》、イエズスを十字架《じふじか》に釘《つ》けし後《のち》、其《その》衣服《いふく》と下衣《したぎ》とを受《う》け、衣服《いふく》は四《し》分《ぶん》して一人《ひとり》に一《いち》分《ぶん》づつ分《わか》ちしが、下衣《したぎ》は上《うへ》より一《ひと》つに織《お》りたる縫《ぬひ》目《め》なき物《もの》なりしかば、 24之《これ》を裂《さ》かずして、誰《たれ》のになるべきか鬮《くじ》引《びき》にせんと言《いひ》合《あ》へり。是《これ》聖書《せいしよ》に録《かきしる》して「彼等《かれら》は互《たがひ》に我《わ》が衣服《いふく》を分《わか》ち、我《わが》下衣《したぎ》を鬮《くじ》引《びき》にせり」とある事《こと》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》にして、即《すなは》ち兵卒《へいそつ》等《ら》は實《じつ》に此《この》事《こと》を為《な》せるなり。 25然《さ》てイエズスの十字架《じふじか》の傍《かたはら》に、其《その》母《はは》と母《はは》の姉妹《しまい》、即《すなは》ちクレオファの[妻《つま》]マリアと、マグダレナ、マリアと立《た》ちてありしが、 26イエズス其《その》母《はは》と愛《あい》せる弟子《でし》との立《た》てるを見《み》給《たま》ひて母《はは》に向《むか》ひ、婦人《ふじん》よ、是《これ》汝《なんぢ》の子《こ》なり、と曰《のたま》ひ、 27次《つぎ》に弟子《でし》に向《むか》ひて、是《これ》汝《なんぢ》の母《はは》なり、と曰《のたま》ひければ、此《この》時《とき》より其《その》弟子《でし》イエズスの母《はは》を我家《わがいへ》に引《ひき》取《と》りたり。 28軈《やが》てイエズス何事《なにごと》も成《な》り終《をは》れるを知《し》り給《たま》ひて、聖書《せいしよ》の成就《じやうじゆ》し果《は》てん為《ため》に、我《われ》渇《かわ》くと曰《のたま》ひしが、 29其處《そこ》に酢《す》の満《み》ちたる器《うつは》置《お》かれてありしに、兵卒《へいそつ》等《ら》海綿《かいめん》を醋《す》に浸《ひた》し、イソプに刺《さ》して其《その》口《くち》に差付《さしつ》けしかば、 30イエズス醋《す》を受《う》け給《たま》ひて、成《な》り終《をは》れりと曰《のたま》ひ、首《かうべ》を垂《た》れて息《いき》絶《た》え給《たま》へり。 31時《とき》は用意《ようい》日《び》にて大《だい》安息日《あんそくじつ》の前《まへ》なれば、安息日《あんそくじつ》に屍《しかばね》の十字架《じふじか》上《じやう》に遺《のこ》らざらん為《ため》に、其《その》脛《はぎ》を折《を》りて取《とり》下《おろ》さん事《こと》を、ユデア人《じん》ピラトに願《ねが》ひしかば、 32兵卒《へいそつ》等《ら》來《きた》りて、先《さき》なる者《もの》及《およ》び共《とも》に十字架《じふじか》に釘《つ》けられたる他《た》の一人《ひとり》の脛《はぎ》を折《を》りしが、 33イエズスに至《いた》り、其《その》既《すで》に死《し》し給《たま》へるを見《み》て脛《はぎ》を折《を》らざりき。 34然《さ》れど兵卒《へいそつ》の一人《ひとり》鎗《やり》もて其《その》脇《わき》を披《ひら》きしかば、直《ただち》に血《ち》と水《みづ》と流出《ながれい》でたり。 35目撃《もくげき》せし人《ひと》之《これ》を證明《しようめい》せしが、其《その》證明《しようめい》は眞實《しんじつ》にして、彼《かれ》は其《その》云《い》ふ所《ところ》の眞實《しんじつ》なるを知《し》れり、是《これ》汝《なんぢ》等《ら》にも信《しん》ぜしめん為《ため》なり。 36是《これ》等《ら》の事《こと》の成《な》りしは、聖書《せいしよ》に「汝《なんぢ》等《ら》其《その》骨《ほね》の一《ひとつ》も折《を》るべからず」とある事《こと》の成就《じやうじゆ》せん為《ため》なり。 37更《さら》に又《また》聖書《せいしよ》に曰《いは》く「彼等《かれら》は其《その》貫《つらぬ》けるものを仰《あふ》ぎ見《み》ん」と。 38其《その》後《のち》アリマテアのヨゼフ、ユデア人《じん》を憚《はばか》りて密《ひそか》にはすれども、イエズスの弟子《でし》なれば、其《その》御《おん》屍《しかばね》を引《ひき》取《と》らん事《こと》をピラトに願《ねが》ひしに、ピラト許《ゆる》ししかば來《きた》りてイエズスの御《おん》屍《しかばね》を取《とり》下《おろ》せり。 39又《また》嚮《さき》に夜《よる》イエズスに至《いた》りしニコデモも、没薬《もつやく》と蘆《ろ》薈《くわい》との混合《あはせ》物《もの》を百《ひやく》斤《きん》許《ばかり》携《たづさ》へて來《きた》りしが、 40兩人《りやうにん》イエズスの御《おん》屍《しかばね》を受取《うけと》り、ユデア人《じん》の葬《はうむり》の習慣《ならひ》に從《したが》ひて香料《かうれう》と共《とも》に布《ぬの》にて之《これ》を捲《ま》けり。 41然《さ》てイエズスの十字架《じふじか》に釘《つ》けられ給《たま》ひし處《ところ》に園《その》ありて、園《その》の中《うち》に未《いま》だ誰《たれ》をも葬《ほうむ》らざる墓《はか》ありければ、 42彼等《かれら》はユデア人《じん》の用意《ようい》日《び》なるに因《よ》り、墓《はか》の手《て》近《ぢか》きに任《まか》せて、イエズスを其處《そこ》に斂《をさ》めたり。
[編集] 第20章
1週《しう》の第《だい》一《いち》日《じつ》、マグダレナ、マリア朝《あさ》爽《まだき》に墓《はか》に往《ゆ》き、墓《はか》より石《いし》の取《とり》除《の》けられたるを見《み》しかば、 2走《はし》りてシモン、ペトロ及《およ》びイエズスの愛《あい》し居《ゐ》給《たま》ひし今《いま》一人《ひとり》の弟子《でし》の許《もと》に至《いた》り、主《しゆ》を墓《はか》より取去《とりさ》りたる人《ひと》あり、何處《いづこ》に置《お》きたるか我《われ》等《ら》は之《これ》を知《し》らず、と云《い》ひければ、 3ペトロと彼《かの》一人《ひとり》の弟子《でし》出《い》でて墓《はか》に往《ゆ》けり。 4二人《ふたり》共《とも》に走《はし》り居《を》りしが、彼《かの》一人《ひとり》の弟子《でし》ペトロに走《はしり》勝《か》ちて先《まず》墓《はか》に着《つ》き、 5身《み》を屈《かが》めて、布《ぬの》の横《よこた》はれるを見《み》しも、未《いま》だ内《うち》に入《い》らざる程《ほど》に、 6シモン、ペトロ後《あと》より來《きた》り、墓《はか》に入《い》りて見《み》れば布《ぬの》は横《よこた》はりて、 7頭《かうべ》を覆《おほ》ひたりし汗《あせ》拭《ふき》は布《ぬの》と共《とも》に置《お》かれずして、巻《ま》きて別《べつ》の處《ところ》に在《あ》りき。 8其《その》時《とき》先《まず》墓《はか》に着《つ》きし彼《かの》一人《ひとり》の弟子《でし》も内《うち》に入《い》り、見《み》て信《しん》じたり。 9其《そ》は彼等《かれら》未《いま》だ、イエズスが死者《ししや》の中《うち》より復活《ふくくわつ》し給《たま》ふべし、との聖書《せいしよ》を知《し》らざりければなり。 10斯《かく》て兩人《ふたり》の弟子《でし》は己《おの》が家《いへ》に歸《かへ》れり。 11然《さ》れどマリアは墓《はか》の外《そと》に立《た》ちて泣《な》き居《を》りしが、泣《な》きつつ身《み》を屈《かが》めて墓《はか》を覗《のぞ》きしに、 12白衣《びやくえ》を着《き》たる二《ふたつ》の天使《てんし》、イエズスの御《おん》屍《しかばね》の置《お》かれたりし處《ところ》に、一《ひとつ》は頭《かしら》の方《かた》に、一《ひとつ》は足《あし》の方《かた》に坐《ざ》せるを見《み》たり。 13彼等《かれら》マリアに向《むか》ひ、婦《をんな》よ、何故《なにゆゑ》に泣《な》くぞ、と云《い》ひしかば、マリア云《い》ひけるは、我主《わがしゆ》を取去《とりさ》りたる人《ひと》ありて、何處《いづこ》に置《お》きたるか我《われ》之《これ》を知《し》らざる故《ゆゑ》なり、と。 14斯《か》く言《いひ》終《をは》りて後《うしろ》を回顧《ふりかへ》りしに、イエズスの立《た》ち給《たま》へるを見《み》たり。然《さ》れど其《その》イエズスなる事《こと》を知《し》らざりしが、 15イエズス之《これ》に、婦《をんな》よ、何故《なにゆゑ》に泣《な》くぞ、誰《たれ》を尋《たず》ぬるぞ、と曰《のたま》ひしかば、マリア園丁《えんてい》ならんと思《おも》ひて之《これ》に謂《い》ひけるは、君《きみ》よ、若《もし》汝《なんぢ》が彼《かれ》を取去《とりさ》りしならば、其《その》置《お》きたる處《ところ》を我《われ》に告《つ》げよ、我《われ》之《これ》を引《ひき》取《と》るべし、と。 16イエズス、マリアよ、と曰《のたま》ひければ彼《かれ》回顧《ふりかへ》りて、ラボニ、即《すなは》ち師《し》よ、と云《い》へり。 17イエズスこれに向《むか》ひ、我《われ》未《いま》だ我《わが》父《ちち》に陟《のぼ》らざれば我《われ》に触《ふ》るる事《こと》勿《なか》れ、但《ただし》先《まず》わが兄弟等《きやうだいら》に至《いた》りて、我《われ》は汝《なんぢ》等《ら》の父《ちち》なる我《わが》父《ちち》、汝《なんぢ》等《ら》の神《かみ》なる我《わが》神《かみ》に陟《のぼ》ると云《い》へ、と曰《のたま》ひければ、 18マグダレナ、マリア往《ゆ》きて、我《われ》主《しゆ》を見《み》たり、我《われ》に云々《しかじか》曰《のたま》へり、と弟子《でし》等《たち》に告《つ》げたり。 19斯《かく》て其《その》日《ひ》、即《すなは》ち週《しう》の第《だい》一《いち》日《じつ》既《すで》に暮《く》れて、弟子《でし》等《たち》ユデア人《じん》の怖《おそろ》しさに戸《と》を閉《と》ぢて集《あつま》れる處《ところ》に、イエズス來《きた》りて其《その》中《なか》に立《た》ち曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》安《やす》かれ、と。斯《か》く曰《のたま》ひて、 20手《て》と脇《わき》とを彼等《かれら》に示《しめ》し給《たま》ひければ、弟子《でし》等《たち》主《しゆ》を見《み》て喜《よろこ》べり。 21イエズス復《また》曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》等《ら》安《やす》かれ、父《ちち》の我《われ》を遣《つか》はし給《たま》ひし如《ごと》く、我《われ》も汝《なんぢ》等《ら》を遣《つかは》すなり、と。 22斯《か》く曰《のたま》ひて、息《いき》吹《ふき》掛《か》けて曰《のたま》ひけるは、聖霊《せいれい》を受《う》けよ、 23汝《なんぢ》等《ら》誰《たれ》の罪《つみ》を赦《ゆる》さんも其《その》罪《つみ》赦《ゆる》されん、誰《たれ》の罪《つみ》を止《とど》めんも其《その》罪《つみ》止《とど》められたるなりと。 24然《しか》るに十二人《にん》の一人《ひとり》にしてチヂモと呼《よ》ばるるトマは、イエズスの來《きた》り給《たま》ひし時《とき》彼等《かれら》と共《とも》に居《を》らざりしかば、 25他《た》の弟子《でし》等《たち》之《これ》に向《むか》ひ、我《われ》等《ら》は主《しゆ》を見《み》たり、と云《い》ひしに、彼《かれ》云《い》ひけるは、我《われ》は其《その》手《て》に釘《くぎ》の痕《あと》を見《み》て、其《その》釘《くぎ》の處《ところ》に我《わが》指《ゆび》を入《い》れ、其《その》脇《わき》に我《わが》手《て》を入《い》るるに非《あら》ずば信《しん》ぜじ、と。 26八日《やうか》の後《のち》、弟子《でし》等《たち》復《また》内《うち》にありてトマも共《とも》に居《を》りしが、戸《と》は閉《と》ぢたるにイエズス來《きた》りて眞中《まんなか》に立《た》ち給《たま》ひ、汝《なんぢ》等《ら》安《やす》かれ、と曰《のたま》ひて、 27軈《やが》てトマに曰《のたま》ひけるは、汝《なんぢ》指《ゆび》を茲《ここ》に入《い》れて我《わが》手《て》を見《み》よ、手《て》を伸《の》べて我《わが》脇《わき》に入《い》れよ、不《ふ》信者《しんじや》とならずして信者《しんじや》となれ、と。 28トマ答《こた》へて、我主《わがしゆ》よ、我《わが》神《かみ》よ、と云《い》ひしかば、 29イエズス之《これ》に曰《のたま》ひけるは、トマ汝《なんぢ》は我《われ》を見《み》しによりて信《しん》じたるが、見《み》ずして信《しん》ぜし人々《ひとびと》こそ福《さいはひ》なれ、と。 30此《この》外《ほか》にも尚《なほ》數多《あまた》の徴《しるし》を、イエズス弟子《でし》等《たち》の眼前《がんぜん》に為《な》し給《たま》ひしかど本書《ほんしよ》には書《かき》載《の》せず。 31是《これ》等《ら》の事《こと》を書《かき》載《の》せられたるは、汝《なんぢ》等《ら》がイエズスの神《かみ》の御子《おんこ》キリストたる事《こと》を信《しん》ぜん為《ため》、信《しん》じて御名《みな》によりて生命《せいめい》を得《え》ん為《ため》なり。
[編集] 第21章
1其《その》後《のち》イエズス、又《また》チベリアデの湖辺《うみべ》にて己《おのれ》を弟子《でし》等《たち》に現《あらわ》し給《たま》ひしが、其《その》現《あらわ》し給《たま》ひし次第《しだい》は次《つぎ》の如《ごと》し。 2シモン、ペトロとチヂモと呼《よ》ばるるトマと、ガリレアのカナ生《うま》れなるナタナエルと、ゼベデオの子等《こら》と、尚《なほ》外《ほか》に二人《ふたり》の弟子《でし》共《ども》に在《あ》りけるに、 3シモン、ペトロ、我《われ》漁《れふ》に往《ゆ》く、と云《い》ひしかば彼等《かれら》、我《われ》等《ら》も共《とも》に往《ゆ》く、と云《い》ひて、皆《みな》出《いで》行《ゆ》きて船《ふね》に乗《の》りしに、其《その》夜《よ》は何《なに》をも獲《え》ざりき。 4然《さ》て天明《よあけ》に至《いた》りてイエズス濱《はま》に立《た》ち給《たま》へり、然《さ》りながら弟子《でし》等《たち》は其《その》イエズスなる事《こと》を認《みと》めざれば、 5イエズス彼等《かれら》に向《むか》ひ、子等《こども》よ肴《さかな》あるか、と曰《のたま》ひしに彼等《かれら》、無《な》しと答《こた》へたり。 6イエズス、網《あみ》を船《ふね》の右《みぎ》に下《おろ》せ、然《しか》らば獲物《えもの》あらん、と曰《のたま》ひければ、彼等《かれら》下《おろ》したるに、魚《さかな》夥《おびただ》しくして、網《あみ》を引《ひ》くこと能《あた》はざれば、 7イエズスの愛《あい》し給《たま》へる彼《かの》弟子《でし》ペトロに向《むか》ひて、主《しゆ》なり、と云《い》ひしをシモン、ペトロ、主《しゆ》なりと聞《き》くや、裸《はだか》なりければ上衣《うはぎ》を纏《まと》ひて湖《うみ》に飛入《とびい》り、 8他《た》の弟子《でし》等《たち》は魚《さかな》の満《み》てる網《あみ》を引《ひ》きつつ船《ふね》にて來《きた》れり、陸《をか》を距《さ》る事《こと》遠《とほ》からず、凡《およ》そ五十間《けん》許《ばかり》なりければなり。 9陸《をか》に上《あが》りて見《み》れば既《すで》に炭火《すみび》ありて、其《その》上《うへ》に一《ひとつ》の魚《さかな》の乗《の》せられたるあり、又《また》麪《ぱん》ありき。 10イエズス彼等《かれら》に向《むか》ひ、汝《なんぢ》等《ら》が今《いま》獲《と》りたる魚《さかな》を持《もち》來《きた》れと曰《のたま》ひしかば、 11シモン、ペトロ乗《の》りて、大《おほい》なる魚《うを》百五十三尾《び》まで充満《みちみち》たる網《あみ》を陸《をか》に引《ひき》來《きた》りしが、斯《か》くまで夥《おびただ》しかりしかど網《あみ》は裂《さ》けざりき。 12イエズス彼等《かれら》に、來《きた》りて食《しよく》せよ、と曰《のたま》ひしに、弟子《でし》等《たち》其《その》主《しゆ》なることを知《し》りて、汝《なんぢ》は誰《たれ》ぞと敢《あへ》て問《と》ふ者《もの》一人《ひとり》もなかりしが、 13イエズス近《ちか》づき給《たま》ひ、麪《ぱん》を取《と》りて彼等《かれら》に與《あた》へ、魚《さかな》も亦《また》同《おな》じ様《やう》にし給《たま》へり。 14イエズスが死者《ししや》の中《うち》より復活《ふくくわつ》して、其《その》弟子《でし》等《たち》に現《あらは》れ給《たま》ひしは是《これ》にて既《すで》に三《み》度《たび》目《め》なりき。 15然《さ》て彼等《かれら》食《しよく》したるに、イエズスシモン、ペトロに曰《のたま》ひけるは、ヨハネの[子《こ》]シモン、汝《なんぢ》は此《この》人々《ひとびと》に優《まさ》りて我《われ》を愛《あい》するか、と。彼《かれ》、主《しゆ》よ、然《しか》り、我《わ》が汝《なんぢ》を愛《あい》するは汝《なんぢ》の知《し》り給《たま》ふ所《ところ》なり、と云《い》ひしかばイエズス、我《わが》羔《こひつじ》を牧《ぼく》せよ、と曰《のたま》へり。 16又《また》再《ふたた》び、ヨハネの[子《こ》]シモン、汝《なんぢ》は我《われ》を愛《あい》するか、と曰《のたま》ひしに、彼《かれ》、主《しゆ》よ、然《しか》り、我《わ》が汝《なんぢ》を愛《あい》するは汝《なんぢ》の知《し》り給《たま》ふ所《ところ》なり、と云《い》ひしかばイエズス我《わが》羔《こひつじ》を牧《ぼく》せよ、と曰《のたま》へり。 17三《み》度《たび》之《これ》に向《むか》ひて、ヨハネの[子《こ》]シモン、汝《なんぢ》は我《われ》を愛《あい》するか、と曰《のたま》ひしかば、ペトロは、我《われ》を愛《あい》するかと三《み》度《たび》まで言《い》はれたるを憂《うれ》ひしが、主《しゆ》よ、萬事《ばんじ》を知《し》り給《たま》へり、我《わ》が汝《なんぢ》を愛《あい》するは汝《なんぢ》の知《し》り給《たま》ふ所《ところ》なり、と云《い》ひしに、イエズス之《これ》に曰《のたま》ひけるは、我《わが》羊《ひつじ》を牧《ぼく》せよ。 18誠《まこと》に實《まこと》に汝《なんぢ》に告《つ》ぐ、汝《なんぢ》若《わか》かりし時《とき》、自《みづか》ら帯《おび》して好《この》む處《ところ》を歩《あゆ》み居《ゐ》たりしが、老《お》いたらん後《のち》は手《て》を伸《の》べん、而《しか》して他《た》の者《もの》汝《なんぢ》に帯《おび》して、其《その》好《この》まざる處《ところ》に導《みちび》かん、と。 19是《これ》ペトロが如何《いか》なる死《し》を遂《と》げて神《かみ》に光榮《くわうえい》あらしむべきかを示《しめ》して曰《のたま》ひしなり。然《さ》て之《これ》を曰《のたま》ひ果《は》てて、我《われ》に從《したが》へ、とペトロが曰《のたま》ひしが、 20ペトロ回顧《ふりかへ》りてイエズスの愛《あい》し居《ゐ》給《たま》ひし彼《かの》弟子《でし》、即《すなは》ち晩餐《ばんさん》の時《とき》イエズスの御《おん》胸《むね》に横《よこた》はりて、主《しゆ》よ汝《なんぢ》を付《わた》す者《もの》は誰《たれ》なるぞ、と云《い》ひし弟子《でし》の從《したが》へるを見《み》たり。 21ペトロ之《これ》を見《み》てイエズスに向《むか》ひ、主《しゆ》よ、彼《かれ》は如何《いか》に、と云《い》ひしに、 22イエズスペトロに曰《のたま》ひけるは、我《わ》が來《きた》るまでに彼《かれ》の留《とどま》らん事《こと》を命《めい》ずとも、汝《なんぢ》に於《おい》て何《なに》かあらん、汝《なんぢ》は我《われ》に從《したが》へ、と。 23然《さ》れば彼《かの》弟子《でし》死《し》せずとの説《せつ》兄弟等《きやうだいたち》の中《うち》に傳《つた》はりしが、彼《かれ》死《し》せず、とイエズスのペトロに曰《のたま》ひしには非《あら》ず、唯《ただ》我《わ》が來《きた》るまで彼《かれ》の留《とどま》らん事《こと》を命《めい》ずとも、汝《なんぢ》に於《おい》て何《なに》かあらん、と曰《のたま》ひしのみ。 24此《これ》等《ら》の事《こと》に就《つ》きて證明《しようめい》し、此《これ》等《ら》の事《こと》を書《か》きし人《ひと》は、即《すなは》ち彼《かの》弟子《でし》にして、我《われ》等《ら》は其《その》證明《しようめい》の眞實《しんじつ》なる事《こと》を知《し》る。 25然《さ》れどイエズスの為《な》し給《たま》ひし事《こと》尚《なほ》此《この》他《ほか》にも夥《おびただ》しく、若《もし》之《これ》を一々《いちいち》書《かき》記《しる》さば、我《われ》思《おも》ふに書《かき》記《しる》すべき書籍《しよせき》は、世界《せかい》すらも載《のせ》盡《つく》すこと能《あた》はざるべし。