ひびのおしえ

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ひゞのをしへ 初編[編集]

 明治四年
     ひゞのをしへ 初編
   辛未十月   福澤一太郎


      おさだめ

一、うそをつくべからず。
一、ものをひらふべからず。
一、父母ちゝはゝにきかずしてものをもらふべからず。
一、ごうじやうをはるべからず。
一、兄弟けんくわかたくむよふ。
一、人のうはさかたく無用。
一、ひとのものをうらやむべからず

      十月十四日
 ほんをよんで、はじめのはうをわするゝは、そこなきおけに、みづをくみいるゝがごとし。くむばかりのほねをりにて、すこしもみづのたまることなし。されば一さんも捨さんも、よんだところのおさらへをせずして、はじめのはうをわするゝときは、よむばかりのほねをりにて、はらのそこにがくもんの、たまることはなかるべし。
      十月十五日
 人たる者は、むしをころし、けものをくるしめなど、すべてむごきことを、なす可らず。かゝるじひなきふるまひをするときは、つひにはわがどうるいの人をも、むごくするよふになるべし。つゝしまざるべからず。
      十月十六日
 子供こどもとて、いつまでもこどもたるべきにあらず。おひはせいちゃうして、一人前ひとりまへの男となるものなれば、おさなきときより、なるたけ人のせわにならぬよふ、自分じぶんにてうがいをし、かほをあらい、きものもひとりにてき、たびもひとりにてはくよふ、そのほかすべて、じぶんにてできることは、じぶんにてするがよし。これを西洋のことばにて、インヂペンデントといふ。インヂペンデントとは、独立どくりつともうすことなり。どくりつとは、ひとりだちして、他人たにん世話せわにならぬことなり。
      十月十七日
 人の心のことなるはそのおもてのごとしとて、ひとのこゝろは、たれもおなじものにあらず。まろきかほもあり、ながきかほもあるやふに、その心もまためいのうまれつき、いちやうならず、気短きみじかき人もあり、気長きながき人もあり、しづかなるもあり、さわがしきもあるゆへ、人のふるまいをて、あながち、わが心にかなはざるとて、短気たんきをおこし、いかりのけしきをあらはすべからず。なるたけかんべんしがまんして、たがひにまじはるべきなり。
      十月十九日
 もめんの着物きものにても、とうざんの羽織はをりにても、すべて着類きるい粗末そまつなるは、はづるにたらざれども、きものにあかつき、かほ手足てあしのよごれて、きたなきこそはじなれ。子供たる者はつねに心掛こゝろがけて、手足をあらい、きものをよごさぬよふ、つゝしむべし。
      十月廿一日
 人には勇気ゆうきなかるべからず。勇気とはつよきことにて、物事ものごとをおそれざるきしやうなり。何事なにごとにても、じぶんの思込おもひこみしことは、いつまでもこれにこりかたまり、くるしみをいとはずして、ぐべし。たとへば、ほんを一度いちどよんでおぼえずとて、これをすつべからず、一度も二度も十ぺんも二十ぺんも、おぼえるまでは勇気をふるひ、なほつよくなりて、つとむべきなり。
      十月廿七日
 なかに父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。父母のながくいきてじやうぶなるは、子供のねがふところなれども、けふはいきて、あすはしぬるもわからず。父母のいきしにはごつどの心にあり。ごつどは父母をこしらえ、ごつどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。天地萬物てんちばんぶつなにもかも、ごつどのつくらざるものなし。子供のときより、ごつどのありがたきをしり、ごつどのこゝろにしたがふべきものなり。
      ○
 まいにちさんどのおまんまをたべ、よるはいね、あさになればおき、まいにちまいにち、おなじことにて、ひをおくるときは、ひとのいのちは、わづか五十ねん、いつのまにかはとしをとり、きのふにかはるこんにちは、しらがあたまのおぢいさん、やがておてらのつちとなるべし。そも、ものをたべてねておきることは、うまにてもぶたにても、できることなり。にんげんのみぶんとして、うまやぶたなどと、おなじことにて、あひすむべきや。あさましきしだいなり。さればいまひとゝなりて、このよにうまれたれば、とりけものにできぬ、むづかしきことをなして、ちくるいとにんげんとの、くべつをつけざるべからず。そのくべつとは、ひとはだうりをわきまへて、みだりにめのまへのよくにまよはず、もんじをかき、もんじをよみ、ひろくせかいぢうのありさまをしり、むかしのよといまのよと、かはりたるもやうをがてんして、にんげんのつきあひをむつまじくし、ひとりのこゝろに、はづることなきやうに、することなり。かくありてこそひとはばんぶつのれいともいふべきなり。
      ○
 もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。
      ○
 てあしにけがをしても、かみにてゆはへ、またはかうやくなどつけて、だいじにしておけば、じきになほり、すこしのけがなれば、きずにもならぬものなり。さてひとたるものは、うそをつかぬはずなり、ぬすみせぬはずなり。いちどにてもうそをつき、ぬすみするときは、すなはちこれを、こゝろのけがとまうすべし。こゝろのけがは、てあしのけがよりも、おそろしきものにて、くすりやかうやくにては、なかなほりがたし。かるがゆへに、おまへたちは、てあしよりもこゝろをだいじにすべきなり。
      ○
 こどもは、ものゝかずを、しらざるべからず。たとへばひとには、てのゆびが五ほんづゝ、あしのゆびが五ほんづゝ、てとあしとのゆびを、あはせて二十ほんあり。いまおまへたちの、きやうだい五にんの、てあしのゆびを、みなあはせて、いくほんあるやと、たづねられたらば、なんとこたふるや。
      ○
 けさのひのでから、あすのあさのひのでまでのあひだを、十二にわけて、ひとゝきといふ。あさのひのでるころを、むつどきといひ、むつ、いつゝ、よつ、こゝのつとかぞへ、こゝのつはひるのまんなかにて、ひるのおまんまをたべるときなり。こゝのつより、やつ、なゝつ、むつとかぞへ、むつはひのくれるときにて、あさのむつよりくれのむつまで、ひるのあひだむときあり。よるのときをかぞふるも、ひるとおなじことにて、くれむつよりあけむつまで、むときにて、よあけにいたるなり。
      ○
 こどもは、にうわにして、ひとにかあひがられるやうに、ありたきものなり。せけんのひとにまじはるに、おとなしくするは、もちろんのこと、じぶんのうちにて、めしつかひのおとこおんなに、ものをいひつけるにも、けんぺいづくに、ことばをもちゆべからず。たとへばみづをのみたきときも、おんなどもへ、みづをもてこいといふよりも、みづをもてきておくれといへば、そのおんなはこゝろよくして、はやくみづをもてくるものなり。なにごとによらず、すべてこのこゝろへにて、なるたけおほふうにかまへざるやう、こゝろをもちゆべし。
      ○
 ひとのふりみて、わがふりなをせ。おまへたちもけふまでは、たべものにもきものにも、ふじゆうなかりしが、もしそのこゝろおとなしからずして、いやしきこんじやうをもち、ほんをもよまずして、むがくもんもうになることあらば、どんなりつぱなきものをきても、どんなおほきないへにゐても、ひとにいやしめられ、ひとにゆびさゝれて、こじきにもおとるはじをかくべし。
 ひゞのをしへ初篇終



ひゞのをしへ 二編[編集]

 明治四年
     ひゞのをしへ 二編
   辛未十一月   福澤一太郎


 ひゞのをしへ 二へん
 とうざい、とうざい。ひゞのをしへ二へんのはじまり。おさだめのおきては六かでう、みゝをさらへてこれをきゝ、はらにおさめてわするべからず。
      だい一
 てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこゝろにしたがふべし。たゞしこゝにいふてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず、西洋のことばにてごつどゝいひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしやといふものなり。
      だい二
 ちゝはゝをうやまい、これをしたしみ、そのこゝろにしたがふべし。
      だい三
 ひとをころすべからず。けものをむごくとりあつかひ、むしけらをむゑきにころすべからず。
      だい四
 ぬすみすべからず。ひとのおとしたるものをひらふべからず。
      だい五
 いつはるべからず。うそをついてひとのじやまをすべからず。
      だい六
 むさぼるべからず。むやみによくばりてひとのものをほしがるべからず。
      ○
 てんとうさまのおきてともうすは、むかしむかしそのむかしより、けふのいまにいたるまで、すこしもまちがひあることなし。むぎをまけばむぎがはえ、まめをまけばまめがはえ、きのふねはうき、つちのふねはしづむ。きまりきつたることなれば、ひともこれをふしぎとおもはず。されば、いま、よきことをすれば、よきことがむくひ、わろきことをすれば、わろきことがむくふも、これまたてんとうさまのおきてにて、むかしのよから、まちがひしことなし。しかるに、てんとうしらずのばかものが、めのまへのよくにまよふて、てんのおきてをおそれず、あくじをはたらいて、さいわいをもとめんとするものあり。こは、つちのふねにのりて、うみをわたらんとするにおなじ。こんなことで、てんとうさまがだまさるべきや。あくじをまけばあくじがはえるぞ。かべにみゝあり、ふすまにめあり。あくじをなして、つみをのがれんとするなかれ。
      ○
 けさのひのでより、あすのあさのひのでまでを、いちにちとし、三十にちあはせてひとつきとす。だいのつきは三十にち、せうのつきは二十九にちなれども、まづこれを三十にちづゝとすれば、一ねんは十二つきにて、ひかづ三百六十にちなり。十ねんは三千六百にち、五十ねんは一萬八千にちなり。おまへたちもいまから三百六十ねると、またひとつとしをとり、おしやうぐわつになりて、おもしろきこともあらん。されどもだんおほくねて、一萬八千ばかりもねると、五十六、七のおぢいさんになりて、あまりおもしろくもあるまじ。一にちにてもゆだんをせずに、がくもんすべきものなり。
      ○
 日本にては夜晝よるひるを十二にわけて十二時とさだむれども、西洋にては二十四にわけ、夜晝あはせて二十四とき〔ママ〕さだむ。ゆゑに西洋の一時ひとゝきは日本の半時はんときなり。そのわりあひのごとし。

日本の時 西洋の時
 六時むつ   六時ろくじ
 六半むつはん   七時しちじ
 五時いつゝ   八時はちじ
 五半いつゝはん   九時くじ
 四時よつ   十時じうじ
 四半   十一時
 九時   十二時
 九半   一時
 八時   二時
 八半   三時
 七時   四時
 七半   五時

 このやうにかぞへて、またもとの六時むつにかへり、じゆんにかぞふるなり。
      ○
 西洋の一時いちじを六十にわけて一分時いちぶんじといふ。あるひは西洋のことばにて一「ミニウト」ともいふ。一分時をまた六十にわけて一「セカンド」といふ。一「セカンド」は、たいてい、みやくのひとつ、うごくくらいの、あひだなり。
 一日いちにちは西洋の十二時じうにときなるゆゑ、「ミニウト」にすれば七百二十「ミニウト」なり。「セカンド」にすれば四萬三千二百「セカンド」なり。
      ○
 たゝみのながさは六尺ろくしやく、かもゐのたかさは五尺ごしやく七寸しちすんなり。一尺いつしやくとおにわけたるを一寸いつすんといひ、一寸を十にわけて一分いちぶといひ、一分を十にわけて一厘いちりんといふ。ゆゑに一尺は千厘せんりんなり、百分ひやくぶなり、十寸じつすんなり。○六尺を一間いつけんといひ、六十間を一町いつちやうといひ、三十六町を一里いちりといふ。ゆゑに一町は三百六十尺なり。一里は一萬二千九百六十尺なり。けんにすれば二千百六十間なり。○人のあるく一歩ひとあしを二尺とすれば、一里いちりは六千四百八十あしなり。ゆゑに一日いちにちに十里のみちをあるく人は、六萬四千八百あしあるくなり。
 みぎ金尺かねじやくといふしやくにて、いへをたてはこつくるなど、すべてものながさをはかる寸法すんぽふなり。反物たんものながさをはかるには、くじらじやくといふものさしあり。呉服屋ごふくや仕立屋したてやにてもちゆ。くじら尺は金尺よりもながく、くじら尺の八寸と金尺の一尺とおなじ長さなり。
      ○
 一坪ひとつぼとはたてよこ一間いつけんづゝのひろさにて、すなはちたゝみ二枚にまいじきのことなり。田地でんぢひろさを勘定かんじやうするには、百姓ひやくしやう言葉ことばにて、この一坪のことを一歩いちぶといふ。三十歩さんじうぶ一畝ひとせといひ、十畝とせ一反いつたんといひ、十反じつたん一町いつちやうといふ。ゆゑに一町は三千坪さんぜんつぼなり。一反いつたん三百坪さんびやくつぼなり。一畝ひとせは三十坪なり。一歩いちぶは一坪とおなじことなり。
 たとへばこのはたけ四反したん七畝なゝせ十五歩じうごぶありといへば、すなわそのはたけひろさは千四百二十五坪あるといふことなり。千畳せんじやうじきの座舖ざしきは五百坪なるゆゑ、はたけ勘定かんじやうにすれば一反いつたん六畝ろくせ二十歩にじうぶなり。