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| title = ヘーゲル『法の哲学』の批判
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2013年1月1日 (火) 17:27時点における版

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序文


 ドイツにとって宗教の批判は本質的には終わっており、宗教の批判は全ての批判の前提である。

 誤りの祭壇と暖炉〔すなわち家庭〕のための天国的な弁論が論駁されてから、誤りの世俗の存在は評判を傷つけられている。人間は、超人的な人を探した天国という空想的な現実の中に、ただ自分自身の反映しか見つけなかったら、自分が本当の現実を探す場所、そして自分が本当の現実を探さなければならない場所に、ただ自分自身の外見だけを、すなわちただ非人間的な人だけを見つけようとはもはや思わないであろう。

 不信仰な批判の基礎は「人間が宗教をつくり、宗教は人間たちをつくらない」ということだ。もっと言うと宗教とは、まだ自分自身を手に入れていないか、あるいはまたもや自分を失ってしまった人間の自己意識と自己感情である。しかし、人間、それは世界の外で屈み込んでいる抽象的な存在ではない。人間、それは人間の世界であり、国家であり、社会性である。この国家、この社会性が宗教、すなわちひっくり返った世界意識を生み出すのは、それらがひっくり返った世界だからである。宗教はこのひっくり返った世界の一般的な理論であり、その百科的概説書であり、一般向けの形でのその論理であり、その精神主義者の名誉に関わる点であり、その熱狂であり、その道徳的な認可であり、その格式張った補遺であり、その一般的な慰安と正当化の根拠である。それが人間存在の空想的実現であるのは、人間存在が本当の現実を何も占有していないからである。したがって、宗教に対する戦いは間接的に先ほどのひっくり返った世界に対する戦いであり、そのひっくり返った世界の精神的な香りが宗教である。

 宗教的貧窮は一つには現実的な貧窮の表現であり、そして一つには現実的な貧窮に対する抗議である。宗教は窮迫した生物のうめき声であり、宗教が気の抜けた状態の精気であるように、心ない世界の気持ちである。それは民衆の阿片である。

 民衆の幻想的な幸福としての宗教の廃止は民衆の現実的な幸福の要求である。民衆の状態についての幻想を捨てるよう、要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう、要求することである。したがって、宗教の批判は萌芽では涙の谷の批判であり、涙の谷の後光という聖なる光が宗教である。

 批判が鎖から想像上の花々を引き裂いたのは、人間が空想なき、慰安なき鎖を身にまとうためではなく、鎖を投げ捨て、生き生きした花を摘むためであった。宗教の批判が人間たちを失望させるのは、理性に戻った人間のように人間が考え、行動し、失望し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身の周りを回るため、そして自分の現実的な太陽の周りを回るためである。宗教は、人間が自分自身の周りを回らない限り、人間の周りを回る、単なる幻想的な太陽である。

 したがって、真実の向こう側が消えた後に、こちら側の真実を確立することが歴史の使命である。人間的自己疎外の神聖な姿態を暴露した後に、自己疎外をその非神聖な姿態の中で暴露することが、さしあたり、歴史の役に立っている哲学の使命である。これによって、天国の批判が地上の批判に、宗教の批判法の批判に、神学の批判政治の批判に変わる。

 これ以降続く詳論――この仕事への一貢献である――はさしあたり原型にではなく模写に、すなわちドイツの国家および法の哲学に結びついている。その理由は他でもなく、それがドイツに結びついているからである。

 ドイツのステータス・クオ自身と結びつけようとすれば、たとえ唯一の適切な方法、すなわち否定的な方法であっても、結果はいつも時代錯誤のままであろう。我々の政治の現在を否定することさえ、諸々の近代的な国民の歴史的物置小屋の中に、すでに埃まみれの事実として見い出される。私が白粉をつけたカツラを否定しても、私はまだ白粉の着いてないカツラをつけているのである。私が1843年のドイツの状態を否定しても、フランスの年号によれば、私は1789年にはほとんど立っていないし、現在の焦点においてはなおさらそうである。

 そう、ドイツの歴史は、その民族の誰もが歴史的天国で模範も見せたのでもなければ、模倣もされることのない運動を誇っているのである。すなわち、我々は諸々の近代的な国民の革命を分かち合うことなしに、諸々の近代的な国民の復古を分かち合ったのである。我々が復古させられたのは、第一に、他の諸国民が革命を試みたからであり、そして第二に、他の諸国民が反革命を耐え忍んだからであり、一度目は、我々の諸侯が恐怖を抱いたからであり、そして二度目は、我々の諸侯が恐怖をまったく抱かなかったからである。我々が、我々の羊飼いたちを先頭に、自由の社会にいたのは、いつもただ一度だけ、自由の社会の埋葬の日にであった。

 今日の下劣さを昨日の下劣さによって正当だと認める学派、革のムチが年を経た、先祖伝来の、歴史的な革のムチであるなり、革のムチに対するどんな農奴の叫び声も反逆的だと宣言する学派、イスラエルの神がその僕モーセにしたように、歴史がただ自分のア・ポステリオリしか示さない学派、すなわち歴史法学派は、それゆえ、自分がドイツの歴史の創作でなかったら、ドイツの歴史を創作したであろう。シャイロック、しかし召使いのシャイロックである歴史法学派は、民衆の心臓から切り取られる各1ポンドの肉のために、自分の証明書に、自分の歴史的な証明書に、自分のキリスト教的・ゲルマン的証明書にかけて誓うのである。

 これに対して、血筋によるドイツ主義者であり、反省による自由思想家である温厚な熱狂家たちは、チュートン人の原始林の中に我々の歴史の向こう側に我々の自由の歴史を探し求める。しかし、我々の自由の歴史が原始林の中にしか見つけられないのなら、何によって我々の自由の歴史は雄豚の自由の歴史から区別されるのだろうか?そのうえ、周知のように「森に叫ぶと、森からこだまが鳴り響く」。ではチュートン人の原始林よ安らかに!

 ドイツの状態には戦争を!もちろん!ドイツの状態は歴史の水準以下に立っており、あらゆる批判以下であるが、人間性の水準以下にある犯罪者が死刑執行人の対象のままであるように、それは批判の対象のままである。ドイツの状態との戦闘中に批判は頭の激情ではない。それは激情の頭である。それは解剖のメスではない。それは武器である。批判の対象は、自分が論駁したい敵ではなく、全滅させたいである。なぜなら、ドイツの状態の精神は論駁されているのだから。それ自体で独立してそれは考えるべき対象ではなく、軽蔑されるべき、また軽蔑された存在である。批判は、この対象については片が付いているのだから、独自にこの対象との自己理解は要らない。それはもはや自己目的としてではなく、ただ手段としてのみ為される。その本質的なパトスは憤怒であり、その本質的な仕事は告発である。


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