「利用者:百年斎/sandbox」の版間の差分
直毘霊岩波文庫たてがき |
直毘霊岩波文庫 注を注らしく |
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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1904256/46 |
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{{left|<big><b>{{r|直毘靈|ナホビノミタマ}}</b></big>【{{r|此篇|コノクダリ}}は、道といふことの論ひなり。】|3em}} |
{{left|<big><b>{{r|直毘靈|ナホビノミタマ}}</b></big>【{{r|此篇|コノクダリ}}は、道といふことの論ひなり。】|3em}} |
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<big>{{r|皇大御國|スメラオホミクニ}}は、{{r|掛|カケ}}まくも{{r|可畏|カシコ}}き{{r|神御祖|カムミオヤ}}{{r|天照大御神|アマテラスオホミカミ}}の、{{r|御|ミ}}{{r|生坐|アレマセ}}る{{r|大御國|オホミクニ}}にして、</big> |
<big>{{r|皇大御國|スメラオホミクニ}}は、{{r|掛|カケ}}まくも{{r|可畏|カシコ}}き{{r|神御祖|カムミオヤ}}{{r|天照大御神|アマテラスオホミカミ}}の、{{r|御|ミ}}{{r|生坐|アレマセ}}る{{r|大御國|オホミクニ}}にして、</big> |
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{{left|萬<sup><small>ノ</small></sup>國に{{r|勝|スグ}}れたる{{r|所由|ユヱ}}は、先<sup><small>ヅ</small></sup>こゝにいちじるし。國といふ國に、此<sup><small>ノ</small></sup>大御神の{{r|大御德|オホミメグミ}}かゞふらぬ國なし。|2em}} |
{{left|{{*|萬<sup><small>ノ</small></sup>國に{{r|勝|スグ}}れたる{{r|所由|ユヱ}}は、先<sup><small>ヅ</small></sup>こゝにいちじるし。國といふ國に、此<sup><small>ノ</small></sup>大御神の{{r|大御德|オホミメグミ}}かゞふらぬ國なし。}}|2em}} |
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<big>大御神、{{r|大|オホ}}{{r|御手|ミテ}}に{{r|天|アマ}}つ{{r|璽|シルシ}}を{{r|捧持|ササゲモチ}}して、</big> |
<big>大御神、{{r|大|オホ}}{{r|御手|ミテ}}に{{r|天|アマ}}つ{{r|璽|シルシ}}を{{r|捧持|ササゲモチ}}して、</big> |
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{{left|御代御代に{{r|御|ミ}}しるしと{{r|傳|ツタ}}はり{{r|來|キ}}つる、{{r|三種|ミクサ}}の{{r|神寶|カムダカラ}}は是ぞ。|2em}} |
{{left|{{*|御代御代に{{r|御|ミ}}しるしと{{r|傳|ツタ}}はり{{r|來|キ}}つる、{{r|三種|ミクサ}}の{{r|神寶|カムダカラ}}は是ぞ。}}|2em}} |
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<big>{{r|萬千秋|ヨロヅチアキ}}の{{r|長秋|ナガアキ}}に、{{r|吾|アガ}}{{r|御子|ミコ}}のしろしめさむ國なりと、ことよさし{{r|賜|タマ}}へりしまに{{〱}}、</big> |
<big>{{r|萬千秋|ヨロヅチアキ}}の{{r|長秋|ナガアキ}}に、{{r|吾|アガ}}{{r|御子|ミコ}}のしろしめさむ國なりと、ことよさし{{r|賜|タマ}}へりしまに{{〱}}、</big> |
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{{left|{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}{{r|高御座|タカミクラ}}の、天地の{{r|共動|ムタウゴ}}かぬことは、{{r|旣|はや}}くこゝに定まりつ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}{{r|高御座|タカミクラ}}の、天地の{{r|共動|ムタウゴ}}かぬことは、{{r|旣|はや}}くこゝに定まりつ。}}|2em}} |
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<big>{{r|天雲|アマグモ}}のむかぶすかぎり、{{r|谷蟆|タニグヽ}}のさわたるきはみ、{{r|皇御孫|すめみまの}}命の{{r|大|オホ}}{{r|御|ミ}}{{r|食國|ヲスクニ}}とさだまりて、{{r|天下|アメノシタ}}にはあらぶる神もなく、まつろはぬ人もなく、</big> |
<big>{{r|天雲|アマグモ}}のむかぶすかぎり、{{r|谷蟆|タニグヽ}}のさわたるきはみ、{{r|皇御孫|すめみまの}}命の{{r|大|オホ}}{{r|御|ミ}}{{r|食國|ヲスクニ}}とさだまりて、{{r|天下|アメノシタ}}にはあらぶる神もなく、まつろはぬ人もなく、</big> |
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{{left|いく萬代を{{r|經|フ}}とも、{{r|誰|タレ}}しの{{r|奴|ヤツコ}}か、{{r|大皇|オホキミ}}に{{r|背|ソム}}き{{r|奉|マツラ}}む。あなかしこ、御代御代の{{r|間|アヒダ}}に、たま{{〱}}{{r|不伏|マツロハヌ}}{{r|惡穢|キタナキ}}{{r|奴|ヤツコ}}もあれば、神代の{{r|古事|フルコト}}のまに{{〱}}、{{r|大|オホ}}{{r|御稜威|ミイツ}}をかゞやかして、たちまちにうち{{r|滅|ホロボ}}し給ふ物ぞ。|2em}} |
{{left|{{*|いく萬代を{{r|經|フ}}とも、{{r|誰|タレ}}しの{{r|奴|ヤツコ}}か、{{r|大皇|オホキミ}}に{{r|背|ソム}}き{{r|奉|マツラ}}む。あなかしこ、御代御代の{{r|間|アヒダ}}に、たま{{〱}}{{r|不伏|マツロハヌ}}{{r|惡穢|キタナキ}}{{r|奴|ヤツコ}}もあれば、神代の{{r|古事|フルコト}}のまに{{〱}}、{{r|大|オホ}}{{r|御稜威|ミイツ}}をかゞやかして、たちまちにうち{{r|滅|ホロボ}}し給ふ物ぞ。}}|2em}} |
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<big>{{r|千萬|チヨロヅ}}{{r|御世|ミヨ}}の{{r|御末|ミスヱ}}の御代まで、{{r|天皇命|スメラミコト}}はしも、大御神の{{r|御子|ミコ}}とまし{{〱}}て、</big> |
<big>{{r|千萬|チヨロヅ}}{{r|御世|ミヨ}}の{{r|御末|ミスヱ}}の御代まで、{{r|天皇命|スメラミコト}}はしも、大御神の{{r|御子|ミコ}}とまし{{〱}}て、</big> |
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{{left|御世御世の{{r|天皇|スメラギ}}は、すなはち天照大御神の御子になも{{r|大坐|オホマシ}}ます。{{r|故|カレ}}{{r|天|アマ}}つ神の御子とも、日の御子ともまをせり。|2em}} |
{{left|{{*|御世御世の{{r|天皇|スメラギ}}は、すなはち天照大御神の御子になも{{r|大坐|オホマシ}}ます。{{r|故|カレ}}{{r|天|アマ}}つ神の御子とも、日の御子ともまをせり。}}|2em}} |
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<big>{{r|天|アマ}}つ神の御心を大御心として、</big> |
<big>{{r|天|アマ}}つ神の御心を大御心として、</big> |
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{{left|{{r|何|ナニ}}わざも、{{r|己命|オノレミコト}}の御心もてさかしだち賜はずて、たゞ神代の{{r|古事|フルコト}}のまゝに、おこなひたまひ{{r|治|ヲサ}}め賜ひて、{{r|疑|ウタガ}}ひおもほす事しあるをりは、{{r|御|ミ}}{{r|卜事|ウラゴト}}もて、天<sup><small>ツ</small></sup>神の御心を{{r|問|トハ}}して物し給ふ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|何|ナニ}}わざも、{{r|己命|オノレミコト}}の御心もてさかしだち賜はずて、たゞ神代の{{r|古事|フルコト}}のまゝに、おこなひたまひ{{r|治|ヲサ}}め賜ひて、{{r|疑|ウタガ}}ひおもほす事しあるをりは、{{r|御|ミ}}{{r|卜事|ウラゴト}}もて、天<sup><small>ツ</small></sup>神の御心を{{r|問|トハ}}して物し給ふ。}}|2em}} |
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<big>神代も今もへだてなく、</big> |
<big>神代も今もへだてなく、</big> |
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{{left|たゞ{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}の{{r|然|シカ}}ましますのみならず、{{r|臣連|オミムラジ}}{{r|八十|ヤソ}}{{r|伴緖|トモノヲ}}にいたるまで、{{r|氏|ウヂ}}かばねを{{r|重|オモ}}みして、{{r|子孫|ウミノコ}}の{{r|八十|ヤソ}}{{r|續|ツヾキ}}、その{{r|家〻|イヘ{{〱}}}}の{{r|職業|ワザ}}をうけつがひつゝ、{{r|祖神|オヤガミ}}たちに{{r|異|コト}}ならず、{{r|只|タヾ}}{{r|一世|ヒトヨ}}の如くにして、神代のまに{{r|奉仕|ツカエマツ}}れり。|2em}} |
{{left|{{*|たゞ{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}の{{r|然|シカ}}ましますのみならず、{{r|臣連|オミムラジ}}{{r|八十|ヤソ}}{{r|伴緖|トモノヲ}}にいたるまで、{{r|氏|ウヂ}}かばねを{{r|重|オモ}}みして、{{r|子孫|ウミノコ}}の{{r|八十|ヤソ}}{{r|續|ツヾキ}}、その{{r|家〻|イヘ{{〱}}}}の{{r|職業|ワザ}}をうけつがひつゝ、{{r|祖神|オヤガミ}}たちに{{r|異|コト}}ならず、{{r|只|タヾ}}{{r|一世|ヒトヨ}}の如くにして、神代のまに{{r|奉仕|ツカエマツ}}れり。}}|2em}} |
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<big>{{r|神|カム}}ながら{{r|安國|ヤスクニ}}と、{{r|平|タヒラ}}けく{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}しける大御國になもありければ、</big> |
<big>{{r|神|カム}}ながら{{r|安國|ヤスクニ}}と、{{r|平|タヒラ}}けく{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}しける大御國になもありければ、</big> |
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{{left|書紀の{{r|難波|ナニハノ}}{{r|長柄|ナガラノ}}{{r|朝廷|ミカドノ}}{{r|御卷|ミマキ}}に、{{r|惟神|カムナガラ}}{{r|者|トハ}}、{{r|謂|イフ}}{{2}}{{r|隨神道亦|カミノミチニシタガヒタマヒテ}}{{r|自|オノヅカラ}}{{r|有神道{{1}}|カミノミチアルヲ}}也とあるを、よく思ふべし。神<sup><small>ノ</small></sup>道に{{r|隨|シタガ}}ふとは、天<sup><small>ノ</small></sup>下{{r|治|ヲサ}}め賜ふ{{r|御|ミ}}しわざは、たゞ神代より有<sup><small>リ</small></sup>こしまに{{〱}}物し賜ひて、いさゝかもさかしらを{{r|加|クハ}}へ給ふことなきをいふ。さてしか神代のまに{{〱}}、{{r|大|オホ}}らかに{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}せば、おのづから神の道はたらひて、{{r|他|ホカ}}にもとむべきことなきを、{{r|自|オノヅカラ}}有{{2}}<sup><small>リ</small></sup>神<sup><small>ノ</small></sup>道{{1}}とはいふなりけり。かれ{{r|現御神|アキツミカミ}}と{{r|大八洲國|オホヤシマグニ}}しろしめすと申すも、其<sup><small>ノ</small></sup>御世〻〻の天皇の{{r|御政|ミヲサメ}}、やがて神の{{r|御政|ミヲサメ}}なる意なり。萬葉集の哥などに、{{r|神隨|カムナガラ}}{{r|云〻|シカ{{〱}}}}とあるも、同じこゝろぞ。{{r|神國|カミグニ}}と{{r|韓人|カラビト}}の申せりしも、{{r|諾|ウベ}}にぞ有りける。|2em}} |
{{left|{{*|書紀の{{r|難波|ナニハノ}}{{r|長柄|ナガラノ}}{{r|朝廷|ミカドノ}}{{r|御卷|ミマキ}}に、{{r|惟神|カムナガラ}}{{r|者|トハ}}、{{r|謂|イフ}}{{2}}{{r|隨神道亦|カミノミチニシタガヒタマヒテ}}{{r|自|オノヅカラ}}{{r|有神道{{1}}|カミノミチアルヲ}}也とあるを、よく思ふべし。神<sup><small>ノ</small></sup>道に{{r|隨|シタガ}}ふとは、天<sup><small>ノ</small></sup>下{{r|治|ヲサ}}め賜ふ{{r|御|ミ}}しわざは、たゞ神代より有<sup><small>リ</small></sup>こしまに{{〱}}物し賜ひて、いさゝかもさかしらを{{r|加|クハ}}へ給ふことなきをいふ。さてしか神代のまに{{〱}}、{{r|大|オホ}}らかに{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}せば、おのづから神の道はたらひて、{{r|他|ホカ}}にもとむべきことなきを、{{r|自|オノヅカラ}}有{{2}}<sup><small>リ</small></sup>神<sup><small>ノ</small></sup>道{{1}}とはいふなりけり。かれ{{r|現御神|アキツミカミ}}と{{r|大八洲國|オホヤシマグニ}}しろしめすと申すも、其<sup><small>ノ</small></sup>御世〻〻の天皇の{{r|御政|ミヲサメ}}、やがて神の{{r|御政|ミヲサメ}}なる意なり。萬葉集の哥などに、{{r|神隨|カムナガラ}}{{r|云〻|シカ{{〱}}}}とあるも、同じこゝろぞ。{{r|神國|カミグニ}}と{{r|韓人|カラビト}}の申せりしも、{{r|諾|ウベ}}にぞ有りける。}}|2em}} |
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<big>古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|大|オホ}}{{r|御世|ミヨ}}には、{{r|道|ミチ}}といふ{{r|言擧|コトアゲ}}もさらになかりき。</big> |
<big>古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|大|オホ}}{{r|御世|ミヨ}}には、{{r|道|ミチ}}といふ{{r|言擧|コトアゲ}}もさらになかりき。</big> |
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{{left|故<sup><small>レ</small></sup>{{r|古語|フルコト}}に、あしはらの{{r|水穗|ミヅホ}}の國は、{{r|神|カム}}ながら{{r|言擧|コトアゲ}}せぬ國といへり。|2em}} |
{{left|{{*|故<sup><small>レ</small></sup>{{r|古語|フルコト}}に、あしはらの{{r|水穗|ミヅホ}}の國は、{{r|神|カム}}ながら{{r|言擧|コトアゲ}}せぬ國といへり。}}|2em}} |
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<big>{{r|其|ソ}}はたゞ物にゆく道こそ有<sup><small>リ</small></sup>けれ、</big> |
<big>{{r|其|ソ}}はたゞ物にゆく道こそ有<sup><small>リ</small></sup>けれ、</big> |
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{{left|{{r|美知|ミチ}}とは、此記に{{r|味|ウマシ}}{{r|御路|ミチ}}と書る如く、{{r|山路|ヤマヂ}}{{r|野路|ヌヂ}}などの{{r|路|チ}}に、{{r|御|ミ}}てふ言を{{r|添|ソヘ}}たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これをおきては、上<sup><small>ツ</small></sup>代に、道といふものはなかりしぞかし。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|美知|ミチ}}とは、此記に{{r|味|ウマシ}}{{r|御路|ミチ}}と書る如く、{{r|山路|ヤマヂ}}{{r|野路|ヌヂ}}などの{{r|路|チ}}に、{{r|御|ミ}}てふ言を{{r|添|ソヘ}}たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これをおきては、上<sup><small>ツ</small></sup>代に、道といふものはなかりしぞかし。}}|2em}} |
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<big>物のことわりあるべきすべ、{{r|萬|ヨロヅ}}の{{r|敎|ヲシ}}へごとをしも、{{r|何|ナニ}}の道くれの道といふことは、{{r|異國|アダシクニ}}のさだなり。</big> |
<big>物のことわりあるべきすべ、{{r|萬|ヨロヅ}}の{{r|敎|ヲシ}}へごとをしも、{{r|何|ナニ}}の道くれの道といふことは、{{r|異國|アダシクニ}}のさだなり。</big> |
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{{left|{{r|異國|アダシクニ}}は、天照大御神の御國にあらざるが故に、{{r|定|サダ}}まれる{{r|主|キミ}}なくして、{{r|狹蠅|サバヘ}}なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし{{r|取|トリ}}つれば、賤しき{{r|奴|ヤツコ}}も、たちまちに君ともなれば、{{r|上|カミ}}とある人は、下なる人に{{r|奪|ウバ}}はれじとかまへ、下なるは、{{r|上|カミ}}のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに{{r|仇|アタ}}みつゝ、古<sup><small>ヘ</small></sup>より國{{r|治|ヲサ}}まりがたくなも有<sup><small>リ</small></sup>ける。{{r|其|ソ}}が中に、{{r|威力|イキホヒ}}あり{{r|智|サト}}り深くて、人をなつけ、人の國を{{r|奪|ウバ}}ひ取て、又人にうばゝるまじき{{r|事|コト}}{{r|量|バカリ}}をよくして、しばし國をよく治めて、後の{{r|法|ノリ}}ともなしたる人を、もろこしには、聖人とぞ云なる。たとへば、{{r|亂|ミダ}}れたる世には、{{r|戰|タヽカヒ}}にならふゆゑに、おのづから{{r|名將|ヨキイクサノキミ}}おほくいでくるが如く、國の{{r|風俗|ナラハシ}}あしくして、治まりがたきを、あながちに治めむとするから、世〻にそのすべをさま{{〲}}思ひめぐらし、{{r|爲|シ}}ならひたるゆゑに、しかかしこき人どもゝいいできつるなりけり。然るをこの聖人といふものは、神のごとよにすぐれて、おのづからに{{r|奇|クス}}しき{{r|德|イキホヒ}}あるものと思ふは、ひがことなり。さて其<sup><small>ノ</small></sup>聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる。かゝれば、からくにゝして道といふ物も、其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|旨|ムネ}}をきはむれば、たゞ人の國をうばゝむがためと、人に{{r|奪|ウバ}}はるまじきかまへとの、二<sup><small>ツ</small></sup>にはすぎずなもある。そも{{〱}}人の國を奪ひ取<sup><small>ラ</small></sup>むとはかるには、よろづに心をくだき、身をくるしめつゝ、{{r|善|ヨキ}}ことのかぎりをして、{{r|諸人|モロビト}}をなつけたる故に、聖人はまことに{{r|善人|ヨキヒト}}めきて聞え、又そのつくりおきつる道のさまも、うるはしくよろづにたらひて、めでたくは見ゆめれども、まづ{{r|已|オノレ}}からその道に{{r|背|ソム}}きて、君をほろぼし、國をうばへるものにしあれば、みないつはりにて、まことはよき人にあらず。いともいとも{{r|惡|あし}}き人なりけり。もとよりしか{{r|穢惡|キタナ}}き心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後<sup><small>ノ</small></sup>人も、うはべこそたふとみしたがひがほにもてなすめれど、まことには一人も{{r|守|マモ}}りつとむる人なければ、國のたすけとなることもなく、其名<sup><small>ノ</small></sup>名のみひろごりて、つひに世に{{r|行|オコナ}}はるゝことなくて、聖人の道は、たゞいたづらに、人をそしる世〻の{{r|儒者|ズサ}}どもの、さへづりぐさとぞなれりける。然るに儒者の、たゞ六經などいふ書をのみとらへて、彼<sup><small>ノ</small></sup>國をしも、道{{r|正|タヾ}}しき國ぞと、いひのゝしるは、いたくたがへることなり。かく道といふことを作りて{{r|正|タヾ}}すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそをこなれ。そも後<sup><small>ノ</small></sup>人、此<sup><small>ノ</small></sup>道のまゝに行なはゞこそあらめ、さる人は、よゝに一人だに有<sup><small>リ</small></sup>がたきことは、かの國の世〻の{{r|史|フミ}}どもを見てもしるき物をや。さて其道といふ物のさまは、いかなるぞといへば、仁義禮讓孝悌忠信などいふ、こちたき名どもを、くさ{{〲}}作り{{r|設|マケ}}て、人をきびしく敎へおもむけむとぞすなる。さるは後<sup><small>ノ</small></sup>世の法律を、先王の道にそむけりとて、儒者はそしれども、先王の道も、古<sup><small>ヘ</small></sup>の法律なるものをや。また{{r|易|ヤク}}などいふ物をさへ作りて、いとおこゝろふかげにいひなして、天地の{{r|理|コトワリ}}をきはめつくしたりと思ふよ。これはた世人をなつけ治めむための、たばかり事ぞ。そも{{〱}}く天地のことわりはしも、すべて神の{{r|御所爲|ミシワザ}}にして、いとも{{〱}}{{r|妙|タヘ}}に{{r|奇|クス}}しく、{{r|靈|アヤ}}しき物にしあれば、さらに人のかぎりある{{r|智|サト}}りもては、{{r|測|ハカ}}りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、{{r|何|ナニ}}ごともたゞ{{r|理|コトワリ}}の{{r|至極|キハミ}}と、{{r|信|ウケ}}たふとみをろこそいと{{r|愚|オロカ}}なれ。かくてその聖人どものしわざにならひて、{{r|後〻|ノチ{{〱}}}}の人どもゝ、よろづのことを、{{r|己|オノ}}がさとりもておしはかりごとするぞ、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のくせなる。大御國の物學びせむ人、{{r|是|コヽ}}をよく心得をりて、ゆめから人の{{r|說|コト}}になまどはされそ。すべて彼<sup><small>ノ</small></sup>國は、事{{r|每|ゴト}}にあまりこまかに心を{{r|著|ツケ}}て、かにかくに{{r|論|アゲツラ}}ひさだむる故に、なべて人の心さかしだち{{r|惡|ワロ}}くなりて、中〻に事をしゝこらかしつゝ、いよゝ國は治まりがたくのみなりゆくめり。されば聖人の道は、國を治めむために作りて、かへりて國を{{r|亂|ミダ}}すたねともなる物ぞ。すべて{{r|何|ナニ}}わざも、{{r|大|オイ}}らかにして事{{r|足|タリ}}ぬることは、さてあるこそよけれ。{{r|故|カレ}}皇國の古<sup><small>ヘ</small></sup>は、さる{{r|言痛|コチタ}}き敎<sup><small>ヘ</small></sup>も{{r|何|ナニ}}もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天<sup><small>ノ</small></sup>下は{{r|穩|オダヒ}}に治まりて、天津日嗣いや{{r|遠長|トホナガ}}に傳はり{{r|來|キ}}{{r|坐|マセ}}り。さればかの異國の名にならひていはゞ、是<sup><small>レ</small></sup>ぞ{{r|上|ウヘ}}なき{{r|優|スグレ}}たる{{r|大|オホ}}き道にして、{{r|實|マコト}}は道あるが故に道てふ{{r|言|コト}}なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そをこと{{〲}}しくいひあぐると、然らぬとのけぢめを思へ。{{r|言擧|コトアゲ}}せずとは、あだし國のごと、こちたく{{r|言|イヒ}}たつることなきを云なり。{{r|譬|タトヘ}}ば{{r|才|ザエ}}も{{r|何|ナニ}}も、すぐれたる人は、いひたてぬを、なま{{〱}}のわろものぞ、返りていさゝかの事をも、こと{{〲}}しく{{r|言|いひ}}あげつゝほこるめる如く、{{r|漢國|カラクニ}}などは、道ともしきゆゑに、かへりて{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しきことをのみ云<sup><small>ヒ</small></sup>あへるなり。{{r|儒者|ズサ}}はこゝをえしらで、皇國をしも、道なしとかろしむるよ。儒者のえしらぬは、萬<sup><small>ヅ</small></sup>に{{r|漢|カラ}}を{{r|尊|タフト}}き物に思へる心は、なほさも有<sup><small>リ</small></sup>なむを、{{r|此方|コヽ}}の物知<sup><small>リ</small></sup>人さへに、是<sup><small>レ</small></sup>をえさとらずて、かの道てふことある漢國をうらやみて、{{r|强|シヒ}}てこゝにも道ありと、あらぬことゞもをいひつゝ{{r|爭|アラソ}}ふは、たとへば、{{r|猿|サル}}どもの人を見て、{{r|毛|ケ}}なきぞとわらふを、人の{{r|恥|ハヂ}}て、おのれも{{r|毛|ケ}}はある物をといひて、こまかなるをしひて{{r|求出|モトメイデ}}て見せて、あらそふが如し。{{r|毛|ケ}}は{{r|無|ナ}}きが貴きをえしらぬ、{{r|癡人|シレモノ}}のしわざにあらずや。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|異國|アダシクニ}}は、天照大御神の御國にあらざるが故に、{{r|定|サダ}}まれる{{r|主|キミ}}なくして、{{r|狹蠅|サバヘ}}なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし{{r|取|トリ}}つれば、賤しき{{r|奴|ヤツコ}}も、たちまちに君ともなれば、{{r|上|カミ}}とある人は、下なる人に{{r|奪|ウバ}}はれじとかまへ、下なるは、{{r|上|カミ}}のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに{{r|仇|アタ}}みつゝ、古<sup><small>ヘ</small></sup>より國{{r|治|ヲサ}}まりがたくなも有<sup><small>リ</small></sup>ける。{{r|其|ソ}}が中に、{{r|威力|イキホヒ}}あり{{r|智|サト}}り深くて、人をなつけ、人の國を{{r|奪|ウバ}}ひ取て、又人にうばゝるまじき{{r|事|コト}}{{r|量|バカリ}}をよくして、しばし國をよく治めて、後の{{r|法|ノリ}}ともなしたる人を、もろこしには、聖人とぞ云なる。たとへば、{{r|亂|ミダ}}れたる世には、{{r|戰|タヽカヒ}}にならふゆゑに、おのづから{{r|名將|ヨキイクサノキミ}}おほくいでくるが如く、國の{{r|風俗|ナラハシ}}あしくして、治まりがたきを、あながちに治めむとするから、世〻にそのすべをさま{{〲}}思ひめぐらし、{{r|爲|シ}}ならひたるゆゑに、しかかしこき人どもゝいいできつるなりけり。然るをこの聖人といふものは、神のごとよにすぐれて、おのづからに{{r|奇|クス}}しき{{r|德|イキホヒ}}あるものと思ふは、ひがことなり。さて其<sup><small>ノ</small></sup>聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる。かゝれば、からくにゝして道といふ物も、其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|旨|ムネ}}をきはむれば、たゞ人の國をうばゝむがためと、人に{{r|奪|ウバ}}はるまじきかまへとの、二<sup><small>ツ</small></sup>にはすぎずなもある。そも{{〱}}人の國を奪ひ取<sup><small>ラ</small></sup>むとはかるには、よろづに心をくだき、身をくるしめつゝ、{{r|善|ヨキ}}ことのかぎりをして、{{r|諸人|モロビト}}をなつけたる故に、聖人はまことに{{r|善人|ヨキヒト}}めきて聞え、又そのつくりおきつる道のさまも、うるはしくよろづにたらひて、めでたくは見ゆめれども、まづ{{r|已|オノレ}}からその道に{{r|背|ソム}}きて、君をほろぼし、國をうばへるものにしあれば、みないつはりにて、まことはよき人にあらず。いともいとも{{r|惡|あし}}き人なりけり。もとよりしか{{r|穢惡|キタナ}}き心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後<sup><small>ノ</small></sup>人も、うはべこそたふとみしたがひがほにもてなすめれど、まことには一人も{{r|守|マモ}}りつとむる人なければ、國のたすけとなることもなく、其名<sup><small>ノ</small></sup>名のみひろごりて、つひに世に{{r|行|オコナ}}はるゝことなくて、聖人の道は、たゞいたづらに、人をそしる世〻の{{r|儒者|ズサ}}どもの、さへづりぐさとぞなれりける。然るに儒者の、たゞ六經などいふ書をのみとらへて、彼<sup><small>ノ</small></sup>國をしも、道{{r|正|タヾ}}しき國ぞと、いひのゝしるは、いたくたがへることなり。かく道といふことを作りて{{r|正|タヾ}}すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそをこなれ。そも後<sup><small>ノ</small></sup>人、此<sup><small>ノ</small></sup>道のまゝに行なはゞこそあらめ、さる人は、よゝに一人だに有<sup><small>リ</small></sup>がたきことは、かの國の世〻の{{r|史|フミ}}どもを見てもしるき物をや。さて其道といふ物のさまは、いかなるぞといへば、仁義禮讓孝悌忠信などいふ、こちたき名どもを、くさ{{〲}}作り{{r|設|マケ}}て、人をきびしく敎へおもむけむとぞすなる。さるは後<sup><small>ノ</small></sup>世の法律を、先王の道にそむけりとて、儒者はそしれども、先王の道も、古<sup><small>ヘ</small></sup>の法律なるものをや。また{{r|易|ヤク}}などいふ物をさへ作りて、いとおこゝろふかげにいひなして、天地の{{r|理|コトワリ}}をきはめつくしたりと思ふよ。これはた世人をなつけ治めむための、たばかり事ぞ。そも{{〱}}く天地のことわりはしも、すべて神の{{r|御所爲|ミシワザ}}にして、いとも{{〱}}{{r|妙|タヘ}}に{{r|奇|クス}}しく、{{r|靈|アヤ}}しき物にしあれば、さらに人のかぎりある{{r|智|サト}}りもては、{{r|測|ハカ}}りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、{{r|何|ナニ}}ごともたゞ{{r|理|コトワリ}}の{{r|至極|キハミ}}と、{{r|信|ウケ}}たふとみをろこそいと{{r|愚|オロカ}}なれ。かくてその聖人どものしわざにならひて、{{r|後〻|ノチ{{〱}}}}の人どもゝ、よろづのことを、{{r|己|オノ}}がさとりもておしはかりごとするぞ、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のくせなる。大御國の物學びせむ人、{{r|是|コヽ}}をよく心得をりて、ゆめから人の{{r|說|コト}}になまどはされそ。すべて彼<sup><small>ノ</small></sup>國は、事{{r|每|ゴト}}にあまりこまかに心を{{r|著|ツケ}}て、かにかくに{{r|論|アゲツラ}}ひさだむる故に、なべて人の心さかしだち{{r|惡|ワロ}}くなりて、中〻に事をしゝこらかしつゝ、いよゝ國は治まりがたくのみなりゆくめり。されば聖人の道は、國を治めむために作りて、かへりて國を{{r|亂|ミダ}}すたねともなる物ぞ。すべて{{r|何|ナニ}}わざも、{{r|大|オイ}}らかにして事{{r|足|タリ}}ぬることは、さてあるこそよけれ。{{r|故|カレ}}皇國の古<sup><small>ヘ</small></sup>は、さる{{r|言痛|コチタ}}き敎<sup><small>ヘ</small></sup>も{{r|何|ナニ}}もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天<sup><small>ノ</small></sup>下は{{r|穩|オダヒ}}に治まりて、天津日嗣いや{{r|遠長|トホナガ}}に傳はり{{r|來|キ}}{{r|坐|マセ}}り。さればかの異國の名にならひていはゞ、是<sup><small>レ</small></sup>ぞ{{r|上|ウヘ}}なき{{r|優|スグレ}}たる{{r|大|オホ}}き道にして、{{r|實|マコト}}は道あるが故に道てふ{{r|言|コト}}なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そをこと{{〲}}しくいひあぐると、然らぬとのけぢめを思へ。{{r|言擧|コトアゲ}}せずとは、あだし國のごと、こちたく{{r|言|イヒ}}たつることなきを云なり。{{r|譬|タトヘ}}ば{{r|才|ザエ}}も{{r|何|ナニ}}も、すぐれたる人は、いひたてぬを、なま{{〱}}のわろものぞ、返りていさゝかの事をも、こと{{〲}}しく{{r|言|いひ}}あげつゝほこるめる如く、{{r|漢國|カラクニ}}などは、道ともしきゆゑに、かへりて{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しきことをのみ云<sup><small>ヒ</small></sup>あへるなり。{{r|儒者|ズサ}}はこゝをえしらで、皇國をしも、道なしとかろしむるよ。儒者のえしらぬは、萬<sup><small>ヅ</small></sup>に{{r|漢|カラ}}を{{r|尊|タフト}}き物に思へる心は、なほさも有<sup><small>リ</small></sup>なむを、{{r|此方|コヽ}}の物知<sup><small>リ</small></sup>人さへに、是<sup><small>レ</small></sup>をえさとらずて、かの道てふことある漢國をうらやみて、{{r|强|シヒ}}てこゝにも道ありと、あらぬことゞもをいひつゝ{{r|爭|アラソ}}ふは、たとへば、{{r|猿|サル}}どもの人を見て、{{r|毛|ケ}}なきぞとわらふを、人の{{r|恥|ハヂ}}て、おのれも{{r|毛|ケ}}はある物をといひて、こまかなるをしひて{{r|求出|モトメイデ}}て見せて、あらそふが如し。{{r|毛|ケ}}は{{r|無|ナ}}きが貴きをえしらぬ、{{r|癡人|シレモノ}}のしわざにあらずや。}}|2em}} |
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<big>然るをやゝ{{r|降|クダ}}りて、{{r|書籍|フミ}}といふ物{{r|渡參來|ワタリマヰキ}}て、{{r|其|ソ}}を{{r|學|マナ}}びよむ事{{r|始|ハジ}}まりて後、其<sup><small>ノ</small></sup>國のてぶりをならひて、やゝ萬<sup><small>ヅ</small></sup>のうへにまじへ用ひらるゝ御代になりてぞ、大御國の古<sup><small>へ</small></sup>の{{r|大御|オホミ}}てぶりをば、{{r|取|トリ}}{{r|別|ワケ}}て{{r|神道|カミノミチ}}とはなづけられたりける。そはかの{{r|外國|トツクニ}}の{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}にまがふがゆゑに、{{r|神|カミ}}といひ、又かの名を{{r|借|カ}}りて、こゝにも{{r|道|ミチ}}とはいふなりけり。</big> |
<big>然るをやゝ{{r|降|クダ}}りて、{{r|書籍|フミ}}といふ物{{r|渡參來|ワタリマヰキ}}て、{{r|其|ソ}}を{{r|學|マナ}}びよむ事{{r|始|ハジ}}まりて後、其<sup><small>ノ</small></sup>國のてぶりをならひて、やゝ萬<sup><small>ヅ</small></sup>のうへにまじへ用ひらるゝ御代になりてぞ、大御國の古<sup><small>へ</small></sup>の{{r|大御|オホミ}}てぶりをば、{{r|取|トリ}}{{r|別|ワケ}}て{{r|神道|カミノミチ}}とはなづけられたりける。そはかの{{r|外國|トツクニ}}の{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}にまがふがゆゑに、{{r|神|カミ}}といひ、又かの名を{{r|借|カ}}りて、こゝにも{{r|道|ミチ}}とはいふなりけり。</big> |
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{{left|神の道としもいふ{{r|所由|ユヱ}}は、下につばらかにとく。|2em}} |
{{left|{{*|神の道としもいふ{{r|所由|ユヱ}}は、下につばらかにとく。}}|2em}} |
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<big>しかありて御代〻〻を{{r|經|フ}}るまゝに、いやます{{〱}}に、その{{r|漢|カラ}}國のてぶりをしたひまねぶこと、{{r|盛|サカリ}}になりもてゆきつゝ、つひに天の下{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}す{{r|大御政|オホミワザ}}も、もはら{{r|漢樣|カラザマ}}に{{r|爲|ナリ}}はてゝ、</big> |
<big>しかありて御代〻〻を{{r|經|フ}}るまゝに、いやます{{〱}}に、その{{r|漢|カラ}}國のてぶりをしたひまねぶこと、{{r|盛|サカリ}}になりもてゆきつゝ、つひに天の下{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}す{{r|大御政|オホミワザ}}も、もはら{{r|漢樣|カラザマ}}に{{r|爲|ナリ}}はてゝ、</big> |
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{{left|難波の{{r|長柄|ナガラ}}<sup><small>ノ</small></sup>宮、{{r|淡海|アフミ}}の大津<sup><small>ノ</small></sup>宮のほどに至りて、天の下の{{r|御制度|ミサダメ}}も、みな{{r|漢|カラ}}になりき。かくて後は、古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|御|ミ}}てぶりは、たゞ{{r|神事|カムワザ}}にのみ用ひ賜へり。故<sup><small>レ</small></sup>後<sup><small>ノ</small></sup>代まで、{{r|神事|カムワザ}}にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし。|2em}} |
{{left|{{*|難波の{{r|長柄|ナガラ}}<sup><small>ノ</small></sup>宮、{{r|淡海|アフミ}}の大津<sup><small>ノ</small></sup>宮のほどに至りて、天の下の{{r|御制度|ミサダメ}}も、みな{{r|漢|カラ}}になりき。かくて後は、古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|御|ミ}}てぶりは、たゞ{{r|神事|カムワザ}}にのみ用ひ賜へり。故<sup><small>レ</small></sup>後<sup><small>ノ</small></sup>代まで、{{r|神事|カムワザ}}にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし。}}|2em}} |
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<big>{{r|靑人草|アヲヒトクサ}}の心までぞ、其<sup><small>ノ</small></sup>意にうつりにける。</big> |
<big>{{r|靑人草|アヲヒトクサ}}の心までぞ、其<sup><small>ノ</small></sup>意にうつりにける。</big> |
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{{left|{{r|天皇尊|スメラミコト}}の大御心を心とせずして、{{r|己〻|オノオノ}}さがさかしらごゝろを心とするは、{{r|漢意|カラゴゝロ}}の{{r|移|ウツ}}れるなり。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|天皇尊|スメラミコト}}の大御心を心とせずして、{{r|己〻|オノオノ}}さがさかしらごゝろを心とするは、{{r|漢意|カラゴゝロ}}の{{r|移|ウツ}}れるなり。}}|2em}} |
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<big>さてこそ{{r|安|ヤス}}けく{{r|平|タヒラ}}けくて{{r|有來|アリコ}}し御國の、みだりがはしきこといできつゝ、{{r|異國|アダシクニ}}にやゝ{{r|似|ニ}}たることも、後にはまじりきにけれ。</big> |
<big>さてこそ{{r|安|ヤス}}けく{{r|平|タヒラ}}けくて{{r|有來|アリコ}}し御國の、みだりがはしきこといできつゝ、{{r|異國|アダシクニ}}にやゝ{{r|似|ニ}}たることも、後にはまじりきにけれ。</big> |
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{{left|いとめでたき大御國の道をおきながら、{{r|他國|ヒトグニ}}のさかしく{{r|言痛|コチタ}}き{{r|意行|コヽロシワザ}}を、よきことゝして、ならひまねべるから、{{r|直|ナホ}}く{{r|淸|キヨ}}かりし心も{{r|行|オコナ}}ひも、みな{{r|穢惡|キタナ}}くまがりゆきて、後つひには、かの{{r|他國|ヒトグニ}}のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物だと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の{{r|蔽|ツミ}}なることを、えさとらぬなり。古<sup><small>ヘ</small></sup>の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。|2em}} |
{{left|{{*|いとめでたき大御國の道をおきながら、{{r|他國|ヒトグニ}}のさかしく{{r|言痛|コチタ}}き{{r|意行|コヽロシワザ}}を、よきことゝして、ならひまねべるから、{{r|直|ナホ}}く{{r|淸|キヨ}}かりし心も{{r|行|オコナ}}ひも、みな{{r|穢惡|キタナ}}くまがりゆきて、後つひには、かの{{r|他國|ヒトグニ}}のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物だと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の{{r|蔽|ツミ}}なることを、えさとらぬなり。古<sup><small>ヘ</small></sup>の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。}}|2em}} |
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{{left|いとめでたき大御國の道をおきながら、{{r|他國|ヒトグニ}}のさかしく{{r|言痛|コチタ}}き{{r|意行|コヽロシワザ}}を、よきことゝして、ならひまねべるから、{{r|直|ナホ}}く{{r|淸|キヨ}}かりし心も{{r|行|オコナ}}ひも、みな{{r|穢惡|キタナ}}くまがりゆきて、後つひには、かの{{r|他國|ヒトグニ}}のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物だと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、ゆと聖人の道の{{r|蔽|ツミ}}なることを、えさとらぬなり。古<sup><small>ヘ</small></sup>の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。|2em}} |
{{left|{{*|いとめでたき大御國の道をおきながら、{{r|他國|ヒトグニ}}のさかしく{{r|言痛|コチタ}}き{{r|意行|コヽロシワザ}}を、よきことゝして、ならひまねべるから、{{r|直|ナホ}}く{{r|淸|キヨ}}かりし心も{{r|行|オコナ}}ひも、みな{{r|穢惡|キタナ}}くまがりゆきて、後つひには、かの{{r|他國|ヒトグニ}}のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物だと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、ゆと聖人の道の{{r|蔽|ツミ}}なることを、えさとらぬなり。古<sup><small>ヘ</small></sup>の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。}}|2em}} |
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<big>しかありて御代〻〻を{{r|經|フ}}るまゝに、いやます{{〱}}に、その{{r|漢|カラ}}國のてぶりをしたひまねぶこと、{{r|盛|サカリ}}になりもてゆきつゝ、つひに天の下{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}す{{r|大御政|オホミワザ}}も、もはら{{r|漢樣|カラザマ}}に{{r|爲|ナリ}}はてゝ、</big> |
<big>しかありて御代〻〻を{{r|經|フ}}るまゝに、いやます{{〱}}に、その{{r|漢|カラ}}國のてぶりをしたひまねぶこと、{{r|盛|サカリ}}になりもてゆきつゝ、つひに天の下{{r|所知|シロシ}}{{r|看|メ}}す{{r|大御政|オホミワザ}}も、もはら{{r|漢樣|カラザマ}}に{{r|爲|ナリ}}はてゝ、</big> |
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{{left|難波の{{r|長柄|ナガラ}}<sup><small>ノ</small></sup>宮、{{r|淡海|アフミ}}の大津<sup><small>ノ</small></sup>宮のほどに至りて、天の下の{{r|御制度|ミサダメ}}も、みな{{r|漢|カラ}}になりき。かくて後は、古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|御|ミ}}てぶりは、たゞ{{r|神事|カムワザ}}にのみ用ひ賜へり。故<sup><small>レ</small></sup>後<sup><small>ノ</small></sup>代まで、{{r|神事|カムワザ}}にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし。|2em}} |
{{left|{{*|難波の{{r|長柄|ナガラ}}<sup><small>ノ</small></sup>宮、{{r|淡海|アフミ}}の大津<sup><small>ノ</small></sup>宮のほどに至りて、天の下の{{r|御制度|ミサダメ}}も、みな{{r|漢|カラ}}になりき。かくて後は、古<sup><small>ヘ</small></sup>の{{r|御|ミ}}てぶりは、たゞ{{r|神事|カムワザ}}にのみ用ひ賜へり。故<sup><small>レ</small></sup>後<sup><small>ノ</small></sup>代まで、{{r|神事|カムワザ}}にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし。}}|2em}} |
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<big>そも{{〱}}此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|天地|アメツチ}}のあひだに、有<sup><small>リ</small></sup>とある事は、{{r|悉皆|コト{{〲}}}}に神の御心なる中に、</big> |
<big>そも{{〱}}此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|天地|アメツチ}}のあひだに、有<sup><small>リ</small></sup>とある事は、{{r|悉皆|コト{{〲}}}}に神の御心なる中に、</big> |
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{{left|凡て此<sup><small>ノ</small></sup>世<sup><small>ノ</small></sup>中の事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、{{r|吉|ヨキ}}{{r|凶|アシ}}き萬<sup><small>ノ</small></sup>事、みなこと{{〲}}に神の{{r|御所爲|ミシワザ}}なり。さて神には、{{r|善|ヨキ}}もあり{{r|惡|アシ}}きも有<sup><small>リ</small></sup>て、{{r|所行|シワザ}}もそれにしたがふなれば、大かた{{r|尋常|ヨノツネ}}のことわりを以ては、{{r|測|ハカ}}りがたきわざなりかし。然るを世<sup><small>ノ</small></sup>人、かしこきもおろかなるもおしなべて、{{r|外國|トツクニ}}の道〻の{{r|說|コト}}にのみ{{r|惑|マド}}ひはてゝ、此<sup><small>ノ</small></sup>意をえしらず。皇國の{{r|學問|モノマナビ}}する人などは、{{r|古書|イニシヘノフミ}}を見て、必<sup><small>ズ</small></sup>知<sup><small>ル</small></sup>べきわざなるを、さる人どもだに、えわきまへ知<sup><small>ラ</small></sup>ざるは、いかにぞや。抑{{r|吉|ヨキ}}{{r|凶|アシ}}き萬<sup><small>ヅ</small></sup>の事を、あだし國にて、佛の道には因果とし、{{r|漢|カラ}}の道〻には天命といひて、天のなすわざと思へり。これらみなひがことなり。そが中に佛<sup><small>ノ</small></sup>道<sup><small>ノ</small></sup>{{r|說|コト}}は、多く世の{{r|學者|モノマナブヒト}}の、よく{{r|辦|ワキマ}}へつることなれば、今いはず。{{r|漢國|カラクニ}}の天命の{{r|說|コト}}は、かしこき人もみな{{r|惑|マド}}ひて、いまだひがことなることをさとれる人なければ、今これを{{r|論|アゲツラ}}ひさとさむ。抑天命といふことは、彼<sup><small>ノ</small></sup>國にて古に、君を{{r|滅|ホロボ}}し國を{{r|奪|ウバ}}ひし聖人の、{{r|己|オノ}}が罪をのがれむために、かまへ{{r|出|イデ}}たる{{r|託言|コトツケゴト}}なり。まことには、天地は心ある物にあらざれば、{{r|命|メイ}}あるべくもあらず。もしまことに天に心あり、{{r|理|コトワリ}}もありて、{{r|善人|ヨキヒト}}に國を{{r|與|アタ}}へて、よく治めしめむとならば、周の代のはてかたにも、必<sup><small>ズ</small></sup>又聖人は出ぬべきを、さあらざりしはいかにぞ。もし周公孔子にして、{{r|旣|スデ}}に道は{{r|備|ソナハ}}れる故に、其後は聖人を出<sup><small>ダ</small></sup>さずといはむも、又心得ず。かの孔丘が後、其<sup><small>ノ</small></sup>道あまねく世に行はれて、國よく治まりたらむにこそ、さもいはめ、其後しもいよゝ其<sup><small>ノ</small></sup>道すたれはてゝ、{{r|徒言|イタヅラゴト}}となり、國もます{{〱}}みだれつる物を、今はたれりとして、聖人を出<sup><small>ダ</small></sup>さず、國の{{r|厄|マガ}}をもかへりみず、つひに秦<sup><small>ノ</small></sup>始皇がごと{{r|荒|アラ}}ぶる人にしも{{r|與|アタ}}へて、{{r|人草|ヒトクサ}}を{{r|苦|クル}}しめしは、いかなる天のひがごゝろぞ、いと{{〱}}いぶかし。始皇などは、天のあたへしに非る故に、久しくはえたもたず、ともいひ{{r|枉|マグ}}べけれど、そも{{r|暫|シバラク}}にても、さる{{r|惡人|アシキヒト}}にあたふべき理あらめやも。又國をしる君のうへに、天命のあらば、下なる{{r|諸人|モロビト}}のうへにも、{{r|善惡|ヨキアシ}}きしるしを見せて、{{r|善|ヨキ}}人はながく{{r|福|サカ}}え、{{r|惡|アシキ}}人は{{r|速|スミヤ}}けく{{r|禍|マガ}}るべき理なるを、さはあらずて、よき人も{{r|凶|アシ}}く、あしき人も{{r|吉|ヨ}}きたぐひ、{{r|昔|ムカシ}}も今も多かるはいかに。もしまことに天のしわざならましかば、さるひがことはあらましや。さて後<sup><small>ノ</small></sup>世になりては、やうやく人心さかしきゆゑに、國を奪ひて天命ぞといふをば、世<sup><small>ノ</small></sup>人の{{r|諾|ウベ}}なはねば、うはべは{{r|禪|ユヅ}}らせて{{r|取|トル}}こともあるをば、よからぬことにいふめれど、かの古<sup><small>ヘ</small></sup>の聖人どもゝ、{{r|實|マコト}}は是に{{r|異|コト}}ならぬ物をや。後<sup><small>ノ</small></sup>世の王の天命ぞといふをば、{{r|信|ウケ}}ぬものゝ、古<sup><small>ヘ</small></sup>人の天命をば、まことゝ心得をるは、いかなるまどひぞも。古<sup><small>ヘ</small></sup>は天命ありて、後にはなきこそをかしけれ。或人、舜は堯が國をうばひ、禹も又舜が國を奪へりしなりといへるも、さも有<sup><small>ル</small></sup>べきことぞ。後<sup><small>ノ</small></sup>世の王莽曹操がたぐひも、うはべはゆづりを{{r|受|ウケ}}て{{r|嗣|ツギ}}つれども、{{r|實|マコト}}は{{r|奪|ウバ}}へるを以て思へば、舜禹などもさぞありけむを、上<sup><small>ツ</small></sup>代は{{r|朴|スナホ}}にして、{{r|禪|ユズ}}れりと云<sup><small>ヒ</small></sup>なせるを、まことゝ心得て、{{r|國內|クヌチ}}の人ども、みなあざむかれにけらし。かの莽操がころは、世<sup><small>ノ</small></sup>人さかしくて、あざむかれざりし故に、{{r|惡|アシ}}きしわざのあらはれけむ。かれらが如くなる{{r|輩|トモガラ}}も、上<sup><small>ツ</small></sup>代ならましかば、あはれ聖人と{{r|仰|アフ}}がれなましのを。|2em}} |
{{left|{{*|凡て此<sup><small>ノ</small></sup>世<sup><small>ノ</small></sup>中の事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、{{r|吉|ヨキ}}{{r|凶|アシ}}き萬<sup><small>ノ</small></sup>事、みなこと{{〲}}に神の{{r|御所爲|ミシワザ}}なり。さて神には、{{r|善|ヨキ}}もあり{{r|惡|アシ}}きも有<sup><small>リ</small></sup>て、{{r|所行|シワザ}}もそれにしたがふなれば、大かた{{r|尋常|ヨノツネ}}のことわりを以ては、{{r|測|ハカ}}りがたきわざなりかし。然るを世<sup><small>ノ</small></sup>人、かしこきもおろかなるもおしなべて、{{r|外國|トツクニ}}の道〻の{{r|說|コト}}にのみ{{r|惑|マド}}ひはてゝ、此<sup><small>ノ</small></sup>意をえしらず。皇國の{{r|學問|モノマナビ}}する人などは、{{r|古書|イニシヘノフミ}}を見て、必<sup><small>ズ</small></sup>知<sup><small>ル</small></sup>べきわざなるを、さる人どもだに、えわきまへ知<sup><small>ラ</small></sup>ざるは、いかにぞや。抑{{r|吉|ヨキ}}{{r|凶|アシ}}き萬<sup><small>ヅ</small></sup>の事を、あだし國にて、佛の道には因果とし、{{r|漢|カラ}}の道〻には天命といひて、天のなすわざと思へり。これらみなひがことなり。そが中に佛<sup><small>ノ</small></sup>道<sup><small>ノ</small></sup>{{r|說|コト}}は、多く世の{{r|學者|モノマナブヒト}}の、よく{{r|辦|ワキマ}}へつることなれば、今いはず。{{r|漢國|カラクニ}}の天命の{{r|說|コト}}は、かしこき人もみな{{r|惑|マド}}ひて、いまだひがことなることをさとれる人なければ、今これを{{r|論|アゲツラ}}ひさとさむ。抑天命といふことは、彼<sup><small>ノ</small></sup>國にて古に、君を{{r|滅|ホロボ}}し國を{{r|奪|ウバ}}ひし聖人の、{{r|己|オノ}}が罪をのがれむために、かまへ{{r|出|イデ}}たる{{r|託言|コトツケゴト}}なり。まことには、天地は心ある物にあらざれば、{{r|命|メイ}}あるべくもあらず。もしまことに天に心あり、{{r|理|コトワリ}}もありて、{{r|善人|ヨキヒト}}に國を{{r|與|アタ}}へて、よく治めしめむとならば、周の代のはてかたにも、必<sup><small>ズ</small></sup>又聖人は出ぬべきを、さあらざりしはいかにぞ。もし周公孔子にして、{{r|旣|スデ}}に道は{{r|備|ソナハ}}れる故に、其後は聖人を出<sup><small>ダ</small></sup>さずといはむも、又心得ず。かの孔丘が後、其<sup><small>ノ</small></sup>道あまねく世に行はれて、國よく治まりたらむにこそ、さもいはめ、其後しもいよゝ其<sup><small>ノ</small></sup>道すたれはてゝ、{{r|徒言|イタヅラゴト}}となり、國もます{{〱}}みだれつる物を、今はたれりとして、聖人を出<sup><small>ダ</small></sup>さず、國の{{r|厄|マガ}}をもかへりみず、つひに秦<sup><small>ノ</small></sup>始皇がごと{{r|荒|アラ}}ぶる人にしも{{r|與|アタ}}へて、{{r|人草|ヒトクサ}}を{{r|苦|クル}}しめしは、いかなる天のひがごゝろぞ、いと{{〱}}いぶかし。始皇などは、天のあたへしに非る故に、久しくはえたもたず、ともいひ{{r|枉|マグ}}べけれど、そも{{r|暫|シバラク}}にても、さる{{r|惡人|アシキヒト}}にあたふべき理あらめやも。又國をしる君のうへに、天命のあらば、下なる{{r|諸人|モロビト}}のうへにも、{{r|善惡|ヨキアシ}}きしるしを見せて、{{r|善|ヨキ}}人はながく{{r|福|サカ}}え、{{r|惡|アシキ}}人は{{r|速|スミヤ}}けく{{r|禍|マガ}}るべき理なるを、さはあらずて、よき人も{{r|凶|アシ}}く、あしき人も{{r|吉|ヨ}}きたぐひ、{{r|昔|ムカシ}}も今も多かるはいかに。もしまことに天のしわざならましかば、さるひがことはあらましや。さて後<sup><small>ノ</small></sup>世になりては、やうやく人心さかしきゆゑに、國を奪ひて天命ぞといふをば、世<sup><small>ノ</small></sup>人の{{r|諾|ウベ}}なはねば、うはべは{{r|禪|ユヅ}}らせて{{r|取|トル}}こともあるをば、よからぬことにいふめれど、かの古<sup><small>ヘ</small></sup>の聖人どもゝ、{{r|實|マコト}}は是に{{r|異|コト}}ならぬ物をや。後<sup><small>ノ</small></sup>世の王の天命ぞといふをば、{{r|信|ウケ}}ぬものゝ、古<sup><small>ヘ</small></sup>人の天命をば、まことゝ心得をるは、いかなるまどひぞも。古<sup><small>ヘ</small></sup>は天命ありて、後にはなきこそをかしけれ。或人、舜は堯が國をうばひ、禹も又舜が國を奪へりしなりといへるも、さも有<sup><small>ル</small></sup>べきことぞ。後<sup><small>ノ</small></sup>世の王莽曹操がたぐひも、うはべはゆづりを{{r|受|ウケ}}て{{r|嗣|ツギ}}つれども、{{r|實|マコト}}は{{r|奪|ウバ}}へるを以て思へば、舜禹などもさぞありけむを、上<sup><small>ツ</small></sup>代は{{r|朴|スナホ}}にして、{{r|禪|ユズ}}れりと云<sup><small>ヒ</small></sup>なせるを、まことゝ心得て、{{r|國內|クヌチ}}の人ども、みなあざむかれにけらし。かの莽操がころは、世<sup><small>ノ</small></sup>人さかしくて、あざむかれざりし故に、{{r|惡|アシ}}きしわざのあらはれけむ。かれらが如くなる{{r|輩|トモガラ}}も、上<sup><small>ツ</small></sup>代ならましかば、あはれ聖人と{{r|仰|アフ}}がれなましのを。}}|2em}} |
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<big>{{r|禍津|マガツ}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御|ミ}}心のあらびはしも、せむすべなく、いとも{{r|悲|カナ}}しきわざにぞありける。</big> |
<big>{{r|禍津|マガツ}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御|ミ}}心のあらびはしも、せむすべなく、いとも{{r|悲|カナ}}しきわざにぞありける。</big> |
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{{left|{{r|世間|ヨノナカ}}に、物あしくそこなひなど、凡て{{r|何事|ナニゴト}}も、正しき理<sup><small>リ</small></sup>のまゝにはえあらずで、{{r|邪|ヨコサマ}}なることも多かるは、皆此<sup><small>ノ</small></sup>神の御心にして、{{r|甚|イタ}}く{{r|荒|アラ}}び{{r|坐|マス}}時は、天照大御神高木<sup><small>ノ</small></sup>大神の大御力にも、{{r|制|トヾ}}みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし。かの{{r|善|ヨキ}}人も{{r|禍|マガ}}り、{{r|惡|アシキ}}人も{{r|福|サカ}}ゆるたぐひ、{{r|尋常|ヨノツネ}}の理<sup><small>リ</small></sup>にさかへる事の多かるも、皆此<sup><small>ノ</small></sup>神の{{r|所爲|シワザ}}なるを、外國には、神代の正しき{{r|傳說|ツタヘゴト}}なくして、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|所由|ヨシ}}をえしらざるが故に、たゞ天命の說を立<sup><small>テ</small></sup>て、{{r|何事|ナニゴト}}もみな、{{r|當然|シカルベキ}}{{r|理|コトワリ}}を以て定めむとするこそ、いとをこなれ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|世間|ヨノナカ}}に、物あしくそこなひなど、凡て{{r|何事|ナニゴト}}も、正しき理<sup><small>リ</small></sup>のまゝにはえあらずで、{{r|邪|ヨコサマ}}なることも多かるは、皆此<sup><small>ノ</small></sup>神の御心にして、{{r|甚|イタ}}く{{r|荒|アラ}}び{{r|坐|マス}}時は、天照大御神高木<sup><small>ノ</small></sup>大神の大御力にも、{{r|制|トヾ}}みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし。かの{{r|善|ヨキ}}人も{{r|禍|マガ}}り、{{r|惡|アシキ}}人も{{r|福|サカ}}ゆるたぐひ、{{r|尋常|ヨノツネ}}の理<sup><small>リ</small></sup>にさかへる事の多かるも、皆此<sup><small>ノ</small></sup>神の{{r|所爲|シワザ}}なるを、外國には、神代の正しき{{r|傳說|ツタヘゴト}}なくして、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|所由|ヨシ}}をえしらざるが故に、たゞ天命の說を立<sup><small>テ</small></sup>て、{{r|何事|ナニゴト}}もみな、{{r|當然|シカルベキ}}{{r|理|コトワリ}}を以て定めむとするこそ、いとをこなれ。}}|2em}} |
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<big>{{r|然|シカ}}れども、天照大御神{{r|高天原|タカマノハラ}}に{{r|大坐〻|オホマシ{{〱}}}}て、{{r|大御光|オホミヒカリ}}はいさゝかも{{r|曇|クモ}}りまさず、此<sup><small>ノ</small></sup>世を{{r|御照|ミテラ}}しましまし、{{r|天|アマ}}{{r|津|ツ}}{{r|御璽|ミシルシ}}はた、はふれまさず{{r|傳|ツタ}}はり{{r|坐|マシ}}て、{{r|事依|コトヨサ}}し賜ひしまに{{〱}}天の下は{{r|御孫命|ミマノミコト}}の{{r|所知食|シロシメシ}}て、</big> |
<big>{{r|然|シカ}}れども、天照大御神{{r|高天原|タカマノハラ}}に{{r|大坐〻|オホマシ{{〱}}}}て、{{r|大御光|オホミヒカリ}}はいさゝかも{{r|曇|クモ}}りまさず、此<sup><small>ノ</small></sup>世を{{r|御照|ミテラ}}しましまし、{{r|天|アマ}}{{r|津|ツ}}{{r|御璽|ミシルシ}}はた、はふれまさず{{r|傳|ツタ}}はり{{r|坐|マシ}}て、{{r|事依|コトヨサ}}し賜ひしまに{{〱}}天の下は{{r|御孫命|ミマノミコト}}の{{r|所知食|シロシメシ}}て、</big> |
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{{left|{{r|異國|アダシクニ}}は、本より主の定まれるがなければ、たゞ人もたちまち王になり、王もたちまちたゞ人にもなり、{{r|亡|ホロ}}びうせもする、古<sup><small>ヘ</small></sup>よりの{{r|風俗|ナラハシ}}なり。さて國を取<sup><small>ラ</small></sup>むと{{r|謀|ハカ}}りて、えとらざる{{r|者|モノ}}をば、賊といひて{{r|賤|イヤ}}しめにくみ、取<sup><small>リ</small></sup>得たる者をば、聖人といひて{{r|尊|タフト}}み{{r|仰|アフ}}ぐめり。さればいはゆる聖人も、たゞ賊の{{r|爲|シ}}とげたる者にぞ有<sup><small>リ</small></sup>ける。{{r|掛|カケ}}まくも{{r|可畏|カシコ}}きや{{r|吾|アガ}}{{r|天皇尊|スメラミコト}}はしも、{{r|然|サ}}るいやしき國〻の王どもと、{{r|等|ヒトシ}}なみには坐まさず。此<sup><small>ノ</small></sup>御國を{{r|生成|ウミナシ}}たまへりし{{r|神祖|カムロギノ}}命の、{{r|御|ミ}}みづから{{r|授|サヅケ}}賜へる{{r|皇統|アマツヒツギ}}にまし{{〱}}て、天地の始<sup><small>メ</small></sup>より、大御{{r|食國|ヲスクニ}}と定まりたる天<sup><small>ノ</small></sup>下にして、大御神の{{r|大命|オホミコト}}にも、天皇{{r|惡|アシ}}く坐<sup><small>シ</small></sup>まさば、{{r|莫|ナ}}まつろひそとは{{r|詔|ノリ}}たまはずあれば、{{r|善|ヨ}}く坐<sup><small>サ</small></sup>むも{{r|惡|アシ}}く坐<sup><small>サ</small></sup>むも、{{r|側|カタハラ}}よりうかゞさひはかり奉ることあたはず。天地のあるきはみ、月日の{{r|照|テラ}}す限<sup><small>リ</small></sup>は、いく萬代を{{r|經|へ}}ても、{{r|動|ウゴ}}き坐<sup><small>サ</small></sup>ぬ大君に坐<sup><small>セ</small></sup>り。故<sup><small>レ</small></sup>{{r|古語|フルコト}}にも、{{r|當代|ソノヨ}}の天皇をしも神と申して、{{r|實|マコト}}に神にし坐<sup><small>シ</small></sup>ませば、{{r|善惡|ヨキアシ}}き{{r|御|ミ}}うへの{{r|論|アゲツラ}}ひをすてゝ、ひたぶるに{{r|畏|カシコ}}み{{r|敬|ウヤマ}}ひ{{r|奉仕|マツロフ}}ぞ、まことの道には有<sup><small>リ</small></sup>ける。然るを中ごろの世のみだれに、此<sup><small>ノ</small></sup>道に{{r|背|ソム}}きて、{{r|畏|カシコ}}くも{{r|大朝廷|オホキミカド}}に{{r|射向|イムカ}}ひて、{{r|天皇尊|スメラミコト}}をなやまし奉れりし、北條<sup><small>ノ</small></sup>義時泰時、又足利<sup><small>ノ</small></sup>尊氏などが如きは、あなかしこ、天照日<sup><small>ノ</small></sup>大御神の{{r|大御蔭|オホミカゲ}}をもおひはからざる、{{r|穢惡|キタナ}}き{{r|賊奴|ヤツコ}}どもなりけるに、{{r|禍|マガ}}{{r|津|ツ}}{{r|日|ヒノ}}神の心はあやしき物にて、世<sup><small>ノ</small></sup>人のなびき從ひて、{{r|子孫|ウミノコ}}の末まで、しばらく{{r|榮|サカ}}え{{r|居|ヲリ}}しことよ。抑此<sup><small>ノ</small></sup>世を御照し坐<sup><small>シ</small></sup>ます天津日<sup><small>ノ</small></sup>神をば、必<sup><small>ズ</small></sup>たふとみ奉るべきことをしれども、天皇を必<sup><small>ズ</small></sup>{{r|畏|カシ}}こみ奉るべきことをば、しらぬ{{r|奴|ヤツコ}}もにありけるは、{{r|漢籍意|カラブミゴゝロ}}にまどひて、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のみだりなる{{r|風俗|ナラハシ}}を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえしらず、今世を照しまします天津日<sup><small>ノ</small></sup>神、卽<sup><small>チ</small></sup>天照大御神にましますことを{{r|信|ウケ}}ず、今の天皇、すなはち天照大御神の御子に坐<sup><small>シ</small></sup>ますことを{{r|忘|ワス}}れたるにこそ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|異國|アダシクニ}}は、本より主の定まれるがなければ、たゞ人もたちまち王になり、王もたちまちたゞ人にもなり、{{r|亡|ホロ}}びうせもする、古<sup><small>ヘ</small></sup>よりの{{r|風俗|ナラハシ}}なり。さて國を取<sup><small>ラ</small></sup>むと{{r|謀|ハカ}}りて、えとらざる{{r|者|モノ}}をば、賊といひて{{r|賤|イヤ}}しめにくみ、取<sup><small>リ</small></sup>得たる者をば、聖人といひて{{r|尊|タフト}}み{{r|仰|アフ}}ぐめり。さればいはゆる聖人も、たゞ賊の{{r|爲|シ}}とげたる者にぞ有<sup><small>リ</small></sup>ける。{{r|掛|カケ}}まくも{{r|可畏|カシコ}}きや{{r|吾|アガ}}{{r|天皇尊|スメラミコト}}はしも、{{r|然|サ}}るいやしき國〻の王どもと、{{r|等|ヒトシ}}なみには坐まさず。此<sup><small>ノ</small></sup>御國を{{r|生成|ウミナシ}}たまへりし{{r|神祖|カムロギノ}}命の、{{r|御|ミ}}みづから{{r|授|サヅケ}}賜へる{{r|皇統|アマツヒツギ}}にまし{{〱}}て、天地の始<sup><small>メ</small></sup>より、大御{{r|食國|ヲスクニ}}と定まりたる天<sup><small>ノ</small></sup>下にして、大御神の{{r|大命|オホミコト}}にも、天皇{{r|惡|アシ}}く坐<sup><small>シ</small></sup>まさば、{{r|莫|ナ}}まつろひそとは{{r|詔|ノリ}}たまはずあれば、{{r|善|ヨ}}く坐<sup><small>サ</small></sup>むも{{r|惡|アシ}}く坐<sup><small>サ</small></sup>むも、{{r|側|カタハラ}}よりうかゞさひはかり奉ることあたはず。天地のあるきはみ、月日の{{r|照|テラ}}す限<sup><small>リ</small></sup>は、いく萬代を{{r|經|へ}}ても、{{r|動|ウゴ}}き坐<sup><small>サ</small></sup>ぬ大君に坐<sup><small>セ</small></sup>り。故<sup><small>レ</small></sup>{{r|古語|フルコト}}にも、{{r|當代|ソノヨ}}の天皇をしも神と申して、{{r|實|マコト}}に神にし坐<sup><small>シ</small></sup>ませば、{{r|善惡|ヨキアシ}}き{{r|御|ミ}}うへの{{r|論|アゲツラ}}ひをすてゝ、ひたぶるに{{r|畏|カシコ}}み{{r|敬|ウヤマ}}ひ{{r|奉仕|マツロフ}}ぞ、まことの道には有<sup><small>リ</small></sup>ける。然るを中ごろの世のみだれに、此<sup><small>ノ</small></sup>道に{{r|背|ソム}}きて、{{r|畏|カシコ}}くも{{r|大朝廷|オホキミカド}}に{{r|射向|イムカ}}ひて、{{r|天皇尊|スメラミコト}}をなやまし奉れりし、北條<sup><small>ノ</small></sup>義時泰時、又足利<sup><small>ノ</small></sup>尊氏などが如きは、あなかしこ、天照日<sup><small>ノ</small></sup>大御神の{{r|大御蔭|オホミカゲ}}をもおひはからざる、{{r|穢惡|キタナ}}き{{r|賊奴|ヤツコ}}どもなりけるに、{{r|禍|マガ}}{{r|津|ツ}}{{r|日|ヒノ}}神の心はあやしき物にて、世<sup><small>ノ</small></sup>人のなびき從ひて、{{r|子孫|ウミノコ}}の末まで、しばらく{{r|榮|サカ}}え{{r|居|ヲリ}}しことよ。抑此<sup><small>ノ</small></sup>世を御照し坐<sup><small>シ</small></sup>ます天津日<sup><small>ノ</small></sup>神をば、必<sup><small>ズ</small></sup>たふとみ奉るべきことをしれども、天皇を必<sup><small>ズ</small></sup>{{r|畏|カシ}}こみ奉るべきことをば、しらぬ{{r|奴|ヤツコ}}もにありけるは、{{r|漢籍意|カラブミゴゝロ}}にまどひて、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のみだりなる{{r|風俗|ナラハシ}}を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえしらず、今世を照しまします天津日<sup><small>ノ</small></sup>神、卽<sup><small>チ</small></sup>天照大御神にましますことを{{r|信|ウケ}}ず、今の天皇、すなはち天照大御神の御子に坐<sup><small>シ</small></sup>ますことを{{r|忘|ワス}}れたるにこそ。}}|2em}} |
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<big>{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}の{{r|高御座|タカミクラ}}は、</big> |
<big>{{r|天津日嗣|アマツヒツギ}}の{{r|高御座|タカミクラ}}は、</big> |
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{{left|天皇の{{r|御統|ミツイデ}}を{{r|日嗣|ヒツギ}}と申すは、日<sup><small>ノ</small></sup>神の御心を御心として、其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|御業|ミシワザ}}を{{r|嗣|ツギ}}坐<sup><small>ス</small></sup>が故なり。又その{{r|御座|ミクラ}}を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日<sup><small>ノ</small></sup>神の御座なるが故なり。日には、{{r|高照|タカヒカル}}とも{{r|高日|タカヒ}}とも{{r|日高|ヒダカ}}とも申す{{r|古語|フルゴト}}のあるを思へ。さて日<sup><small>ノ</small></sup>神の御座を、{{r|次〻|ツギ{{〱}}}}に受<sup><small>ケ</small></sup>傳へ坐て、其<sup><small>ノ</small></sup>御座に{{r|大坐|オホマシ}}ます天皇命にませば、日<sup><small>ノ</small></sup>神に{{r|等|ヒトシ}}く坐<sup><small>ス</small></sup>こと{{r|決|ウツナ}}し。かゝれば、天津日<sup><small>ノ</small></sup>神のおほみうつくしみを{{r|蒙|カヾフ}}らむ者は、{{r|誰|タレ}}しか天皇命には、{{r|可畏|カシコ}}み{{r|敬|ヰヤ}}び{{r|尊|タフト}}みて、{{r|奉仕|ツカヘマツ}}らざらむ。|2em}} |
{{left|{{*|天皇の{{r|御統|ミツイデ}}を{{r|日嗣|ヒツギ}}と申すは、日<sup><small>ノ</small></sup>神の御心を御心として、其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|御業|ミシワザ}}を{{r|嗣|ツギ}}坐<sup><small>ス</small></sup>が故なり。又その{{r|御座|ミクラ}}を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日<sup><small>ノ</small></sup>神の御座なるが故なり。日には、{{r|高照|タカヒカル}}とも{{r|高日|タカヒ}}とも{{r|日高|ヒダカ}}とも申す{{r|古語|フルゴト}}のあるを思へ。さて日<sup><small>ノ</small></sup>神の御座を、{{r|次〻|ツギ{{〱}}}}に受<sup><small>ケ</small></sup>傳へ坐て、其<sup><small>ノ</small></sup>御座に{{r|大坐|オホマシ}}ます天皇命にませば、日<sup><small>ノ</small></sup>神に{{r|等|ヒトシ}}く坐<sup><small>ス</small></sup>こと{{r|決|ウツナ}}し。かゝれば、天津日<sup><small>ノ</small></sup>神のおほみうつくしみを{{r|蒙|カヾフ}}らむ者は、{{r|誰|タレ}}しか天皇命には、{{r|可畏|カシコ}}み{{r|敬|ヰヤ}}び{{r|尊|タフト}}みて、{{r|奉仕|ツカヘマツ}}らざらむ。}}|2em}} |
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<big>あめつちのむた、ときはにかきはに{{r|動|ウゴ}}く世なきぞ、此<sup><small>ノ</small></sup>道の{{r|靈|アヤシ}}く{{r|奇|クスシ}}く、{{r|異國|アダシクニ}}の萬<sup><small>ヅ</small></sup>の道にすぐれて、{{r|正|タヾ}}しき{{r|高|タカ}}き{{r|貴|タフト}}き{{r|徵|シルシ}}なりける。</big> |
<big>あめつちのむた、ときはにかきはに{{r|動|ウゴ}}く世なきぞ、此<sup><small>ノ</small></sup>道の{{r|靈|アヤシ}}く{{r|奇|クスシ}}く、{{r|異國|アダシクニ}}の萬<sup><small>ヅ</small></sup>の道にすぐれて、{{r|正|タヾ}}しき{{r|高|タカ}}き{{r|貴|タフト}}き{{r|徵|シルシ}}なりける。</big> |
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{{left|漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、あとよりみだりなるが、世〻にますます亂れみだれて、{{r|終|ツヒ}}には{{r|傍|カタヘ}}の國<sup><small>ノ</small></sup>人に、國はこと{{〲}}くうばゝれはてぬ。其は夷狄といひて{{r|卑|イヤシ}}めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取<sup><small>リ</small></sup>つれば、せむすべなく天子といひて、{{r|仰|アフ}}ぎ{{r|居|ヲ}}るなるは、いとも{{〱}}あさましきありさまならずや。かくても{{r|儒者|ズサ}}はなほよき國とやおもふらむ。王のみならず、おほかた{{r|貴|タフト}}きいやしき{{r|統|スヂ}}さだまらず。周といひし代までは、封建の{{r|制|サダメ}}とかいひて、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|別|ワキ}}ありしがごとくなれど、それも王の{{r|統|スヂ}}かはれば、下までも共にかはりつれば、まことは{{r|別|ワキ}}なし。秦よりこなたは、いよよ此<sup><small>ノ</small></sup>道たゝず、みだりにして、{{r|賤|イヤシ}}き{{r|奴|ヤツコ}}の{{r|女|ムスメ}}も、君の{{r|寵|メデ}}のまに{{〱}}、{{r|忽|タチマチ}}に{{r|后|キサキ}}の位にのぼり、王の{{r|女|ムスメ}}をも、すぢなき{{r|男|ヲノコ}}にあはせて、{{r|恥|ハヂ}}ともおもへらず。又{{r|昨日|キノフ}}まで{{r|山賤|ヤマガツ}}なりし者も、今日はにはかに、國の政とる{{r|高官|タカキツカサ}}にもなり{{r|登|ノボ}}るたぐひ、凡て{{r|貴賤|タカキイヤシ}}き品さだまらず、{{r|島獸|トリケモノ}}のありさまに{{r|異|コト}}ならずなもありける。|2em}} |
{{left|{{*|漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、あとよりみだりなるが、世〻にますます亂れみだれて、{{r|終|ツヒ}}には{{r|傍|カタヘ}}の國<sup><small>ノ</small></sup>人に、國はこと{{〲}}くうばゝれはてぬ。其は夷狄といひて{{r|卑|イヤシ}}めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取<sup><small>リ</small></sup>つれば、せむすべなく天子といひて、{{r|仰|アフ}}ぎ{{r|居|ヲ}}るなるは、いとも{{〱}}あさましきありさまならずや。かくても{{r|儒者|ズサ}}はなほよき國とやおもふらむ。王のみならず、おほかた{{r|貴|タフト}}きいやしき{{r|統|スヂ}}さだまらず。周といひし代までは、封建の{{r|制|サダメ}}とかいひて、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|別|ワキ}}ありしがごとくなれど、それも王の{{r|統|スヂ}}かはれば、下までも共にかはりつれば、まことは{{r|別|ワキ}}なし。秦よりこなたは、いよよ此<sup><small>ノ</small></sup>道たゝず、みだりにして、{{r|賤|イヤシ}}き{{r|奴|ヤツコ}}の{{r|女|ムスメ}}も、君の{{r|寵|メデ}}のまに{{〱}}、{{r|忽|タチマチ}}に{{r|后|キサキ}}の位にのぼり、王の{{r|女|ムスメ}}をも、すぢなき{{r|男|ヲノコ}}にあはせて、{{r|恥|ハヂ}}ともおもへらず。又{{r|昨日|キノフ}}まで{{r|山賤|ヤマガツ}}なりし者も、今日はにはかに、國の政とる{{r|高官|タカキツカサ}}にもなり{{r|登|ノボ}}るたぐひ、凡て{{r|貴賤|タカキイヤシ}}き品さだまらず、{{r|島獸|トリケモノ}}のありさまに{{r|異|コト}}ならずなもありける。}}|2em}} |
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<big>そも此<sup><small>ノ</small></sup>道は、いかなる道ぞと{{r|尋|タヅ}}ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、</big> |
<big>そも此<sup><small>ノ</small></sup>道は、いかなる道ぞと{{r|尋|タヅ}}ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、</big> |
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{{left|{{r|是|コ}}をよく{{r|辨別|わきまへ}}て、かの{{r|漢國|カラクニ}}の老莊などが{{r|見|コヽロ}}と、ひとつにな思ひまがへそ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|是|コ}}をよく{{r|辨別|わきまへ}}て、かの{{r|漢國|カラクニ}}の老莊などが{{r|見|コヽロ}}と、ひとつにな思ひまがへそ。}}|2em}} |
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<big>人の作れる道にあらず。此<sup><small>ノ</small></sup>道はしも、{{r|可畏|カシコ}}きや{{r|高御|タカミ}}{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}によりて、</big> |
<big>人の作れる道にあらず。此<sup><small>ノ</small></sup>道はしも、{{r|可畏|カシコ}}きや{{r|高御|タカミ}}{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}によりて、</big> |
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{{left|世<sup><small>ノ</small></sup>中にあらゆる事も物も、{{r|皆|ミナ}}{{r|悉|コト{{〲}}}}に此<sup><small>ノ</small></sup>大神のみたまより成れり。|2em}} |
{{left|{{*|世<sup><small>ノ</small></sup>中にあらゆる事も物も、{{r|皆|ミナ}}{{r|悉|コト{{〲}}}}に此<sup><small>ノ</small></sup>大神のみたまより成れり。}}|2em}} |
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<big>{{r|神祖|カムロギ}}{{r|伊邪那|イザナ}}{{r|岐|ギノ}}大神{{r|伊邪那|イザナ}}{{r|美|ミノ}}大神の始めたまひて、</big> |
<big>{{r|神祖|カムロギ}}{{r|伊邪那|イザナ}}{{r|岐|ギノ}}大神{{r|伊邪那|イザナ}}{{r|美|ミノ}}大神の始めたまひて、</big> |
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{{left|よのなかにあらゆる事も物も、此<sup><small>ノ</small></sup>二柱<sup><small>ノ</small></sup>大神よりはじまれり。|2em}} |
{{left|{{*|よのなかにあらゆる事も物も、此<sup><small>ノ</small></sup>二柱<sup><small>ノ</small></sup>大神よりはじまれり。}}|2em}} |
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<big>天照大御神の{{r|受|ウケ}}たまひたもちたまひ、傳へ賜ふ道なり。{{r|故|カレ}}{{r|是以|ココヲモテ}}神の道とは申すぞかし。</big> |
<big>天照大御神の{{r|受|ウケ}}たまひたもちたまひ、傳へ賜ふ道なり。{{r|故|カレ}}{{r|是以|ココヲモテ}}神の道とは申すぞかし。</big> |
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{{left|神<sup><small>ノ</small></sup>道と申す名は、書紀の{{r|石村池邊|イハレノイケノベノ}}宮の御卷に、始めて見えたり。されど{{r|其|ソ}}は只、神をいつき祭りたまふことをさして云るなり。さて難波<sup><small>ノ</small></sup>長柄<sup><small>ノ</small></sup>宮の御卷に、{{r|惟神|カムナガラ}}{{r|者|トハ}}謂{{下}}{{r|隨{{2}}|シタガヒ玉ヒテ}}神<sup><small>ノ</small></sup>道{{1}}<sup><small>ニ</small></sup>亦{{r|自|オ }}有{{中}}<sup><small>ルヲ</small></sup>神<sup><small>ノ</small></sup>道{{上}}也とあるぞ、まさしく皇國の道を廣くさしていへる始<sup><small>メ</small></sup>なりける。さて其由は、上に引ていへるが如くなれば、其<sup><small>ノ</small></sup>道といひて、ことなる{{r|行|オコナ}}ひのあるにあらず。さればたゞ神をいつき祭りたまふことをいはむも、いひもてゆけば一<sup><small>ツ</small></sup>むねにあたれり。然るを、からぶみに、聖人設{{2}}<sup><small>ケテ</small></sup>神道{{1}}<sup><small>ヲ</small></sup>、といふ言あるを取て、{{r|此方|コヽ}}にも{{r|名|ナヅ}}けたりなどいふめるは、ことのこころしらぬみだり{{r|言|ゴト}}なり。其故は、まづ神とさすもの、{{r|此|コヽ}}と{{r|彼|カシコ}}と始<sup><small>メ</small></sup>より同じからず。かの國にしては、いはゆる天地陰陽の、{{r|不測|ハカリガタ}}く{{r|靈|アヤシ}}きをさしていふめれば、たゞ{{r|空|ムナシ}}き理<sup><small>リ</small></sup>のみにして、たしかに其物あるにあらず。さて皇國の神は、今の{{r|現|ヲツヽ}}に{{r|御宇|アメノシタシロシメス}}、天皇の{{r|皇祖|ミオヤ}}に坐<sup><small>シ</small></sup>て、さらにかの{{r|空|ムナシ}}き理<sup><small>リ</small></sup>をいふ類にはあらず。さればかの{{r|漢籍|カラブミ}}なる神道は、{{r|不測|ハカリガタク}}くあやしき道といふこゝろ、皇國の神<sup><small>ノ</small></sup>道は、{{r|皇祖|ミオヤノ}}神の、始め賜ひたもち賜ふ道といふことにて、其意いたく{{r|異|コト}}なるをや。|2em}} |
{{left|{{*|神<sup><small>ノ</small></sup>道と申す名は、書紀の{{r|石村池邊|イハレノイケノベノ}}宮の御卷に、始めて見えたり。されど{{r|其|ソ}}は只、神をいつき祭りたまふことをさして云るなり。さて難波<sup><small>ノ</small></sup>長柄<sup><small>ノ</small></sup>宮の御卷に、{{r|惟神|カムナガラ}}{{r|者|トハ}}謂{{下}}{{r|隨{{2}}|シタガヒ玉ヒテ}}神<sup><small>ノ</small></sup>道{{1}}<sup><small>ニ</small></sup>亦{{r|自|オ }}有{{中}}<sup><small>ルヲ</small></sup>神<sup><small>ノ</small></sup>道{{上}}也とあるぞ、まさしく皇國の道を廣くさしていへる始<sup><small>メ</small></sup>なりける。さて其由は、上に引ていへるが如くなれば、其<sup><small>ノ</small></sup>道といひて、ことなる{{r|行|オコナ}}ひのあるにあらず。さればたゞ神をいつき祭りたまふことをいはむも、いひもてゆけば一<sup><small>ツ</small></sup>むねにあたれり。然るを、からぶみに、聖人設{{2}}<sup><small>ケテ</small></sup>神道{{1}}<sup><small>ヲ</small></sup>、といふ言あるを取て、{{r|此方|コヽ}}にも{{r|名|ナヅ}}けたりなどいふめるは、ことのこころしらぬみだり{{r|言|ゴト}}なり。其故は、まづ神とさすもの、{{r|此|コヽ}}と{{r|彼|カシコ}}と始<sup><small>メ</small></sup>より同じからず。かの國にしては、いはゆる天地陰陽の、{{r|不測|ハカリガタ}}く{{r|靈|アヤシ}}きをさしていふめれば、たゞ{{r|空|ムナシ}}き理<sup><small>リ</small></sup>のみにして、たしかに其物あるにあらず。さて皇國の神は、今の{{r|現|ヲツヽ}}に{{r|御宇|アメノシタシロシメス}}、天皇の{{r|皇祖|ミオヤ}}に坐<sup><small>シ</small></sup>て、さらにかの{{r|空|ムナシ}}き理<sup><small>リ</small></sup>をいふ類にはあらず。さればかの{{r|漢籍|カラブミ}}なる神道は、{{r|不測|ハカリガタク}}くあやしき道といふこゝろ、皇國の神<sup><small>ノ</small></sup>道は、{{r|皇祖|ミオヤノ}}神の、始め賜ひたもち賜ふ道といふことにて、其意いたく{{r|異|コト}}なるをや。}}|2em}} |
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<big>さて其道の意は、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|記|フミ}}をはじめ、もろ{{〱}}の{{r|古書|イニシヘブミ}}どもをよく{{r|味|アヂハ}}ひみれば、今もいとよくしらるゝを、世〻のものしりびとどもの心も、みな禍津日<sup><small>ノ</small></sup>神にまじこりて、たゞからぶみにのみ{{r|惑|マド}}ひて、思ひとおもひいひといふことは、みな{{r|佛|ホトケ}}と{{r|漢|カラ}}との{{r|意|コヽロ}}にして、まことの道のこゝろをば、えさとらずなもある。</big> |
<big>さて其道の意は、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|記|フミ}}をはじめ、もろ{{〱}}の{{r|古書|イニシヘブミ}}どもをよく{{r|味|アヂハ}}ひみれば、今もいとよくしらるゝを、世〻のものしりびとどもの心も、みな禍津日<sup><small>ノ</small></sup>神にまじこりて、たゞからぶみにのみ{{r|惑|マド}}ひて、思ひとおもひいひといふことは、みな{{r|佛|ホトケ}}と{{r|漢|カラ}}との{{r|意|コヽロ}}にして、まことの道のこゝろをば、えさとらずなもある。</big> |
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{{left|古<sup><small>ヘ</small></sup>は道といふ{{r|言擧|コトアゲ}}なかりし故に、古書どもに、つゆばかりも{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しき{{r|意|コヽロ}}も{{r|語|コトバ}}も見えず。{{r|故|カレ}}{{r|舍人親王|トネノミコ}}を始め奉<sup><small>リ</small></sup>て、世〻の{{r|識者|モノシリビト}}ども、道の意をえとらへず、たゞかの{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しきことこちたく云る、から{{r|書|ブミ}}の{{r|說|コト}}のみ、心の{{r|底|ソコ}}にしみ{{r|著|ツキ}}て、{{r|其|ソ}}を天地のおのづからなる理<sup><small>リ</small></sup>と思<sup><small>ヒ</small></sup>{{r|居|ヲ}}る故に、すがるとは思はねども、おのづからそれにまつはれて、{{r|彼方|カナタ}}へのみ流れゆくめり。されば{{r|異國|アダシクニ}}の道を、道の{{r|羽翼|タスク}}となるべき物と思ふも、卽<sup><small>チ</small></sup>其<sup><small>ノ</small></sup>心のかしこへ{{r|奪|ウバ}}はれつるなりけり。大かた漢國の{{r|說|コト}}は、かの陰陽乾坤などをはじめ、{{r|諸|モロ{{〱}}}}皆、もと聖人どもの{{r|己|オノ}}が{{r|智|サトリ}}をもて、おしはかりに作りかまへたる物なれば、うち聞<sup><small>ク</small></sup>には、ことわり{{r|深|フカ}}げにきこゆめれども、{{r|彼|カレ}}が{{r|垣內|カキツ}}を{{r|離|ハナ}}れて、外よりよく見れば、{{r|何|ナニ}}ばかりのこともなく、中〻に{{r|淺|アサ}}はかなることゞもなりかし。されど{{r|昔|ムカシ}}も今も世<sup><small>ノ</small></sup>人の、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|垣內|カキツ}}に{{r|迷入|マヨヒイリ}}て、{{r|得|エ}}{{r|出離|イデハナ}}れぬこそくちをしけれ。大御國の{{r|說|コト}}は、神代より傳へ{{r|來|コ}}しまゝにして、いさゝかも人のさかしらを{{r|加|クハ}}へざる故に、うはベはたゞ{{r|淺〻|アサ{{〱}}}}と聞ゆれども、{{r|實|マコト}}にはそこひもなく、人の{{r|智|サトリ}}の{{r|得|エ}}{{r|測度|ハカラ}}ぬ、深き{{r|妙|タヘ}}なる理のこもれるを、其<sup><small>ノ</small></sup>意をえしらぬは、かの{{r|漢國書|カラクノブミ}}の{{r|垣內|カキツ}}にまよひ{{r|居|ヲ}}る故なり。{{r|此|コ}}をいではなれざらむほどは、たとひ{{r|百年|モヽトセ}}{{r|千年|チトセ}}の{{r|力|チカラ}}をつくして{{r|物學|モノマナ}}ぶとも、道のためには、何の{{r|益|シルシ}}なきいたづらわざならむかし。但し古<sup><small>キ</small></sup>書は、みな{{r|漢文|カラブミ}}にうつして書<sup><small>キ</small></sup>たれば、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のことも、一<sup><small>ト</small></sup>わたりは知<sup><small>リ</small></sup>てあるべく、{{r|文字|モジ}}のことなどしらむためには、{{r|漢籍|カラブミ}}をも、いとまあらば學びつべし。{{r|皇國魂|ミクニダマシヒ}}の定まりて、たゞよはぬうへにては、{{r|害|サマタゲ}}はなきものぞ。|2em}} |
{{left|{{*|古<sup><small>ヘ</small></sup>は道といふ{{r|言擧|コトアゲ}}なかりし故に、古書どもに、つゆばかりも{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しき{{r|意|コヽロ}}も{{r|語|コトバ}}も見えず。{{r|故|カレ}}{{r|舍人親王|トネノミコ}}を始め奉<sup><small>リ</small></sup>て、世〻の{{r|識者|モノシリビト}}ども、道の意をえとらへず、たゞかの{{r|道〻|ミチ{{〱}}}}しきことこちたく云る、から{{r|書|ブミ}}の{{r|說|コト}}のみ、心の{{r|底|ソコ}}にしみ{{r|著|ツキ}}て、{{r|其|ソ}}を天地のおのづからなる理<sup><small>リ</small></sup>と思<sup><small>ヒ</small></sup>{{r|居|ヲ}}る故に、すがるとは思はねども、おのづからそれにまつはれて、{{r|彼方|カナタ}}へのみ流れゆくめり。されば{{r|異國|アダシクニ}}の道を、道の{{r|羽翼|タスク}}となるべき物と思ふも、卽<sup><small>チ</small></sup>其<sup><small>ノ</small></sup>心のかしこへ{{r|奪|ウバ}}はれつるなりけり。大かた漢國の{{r|說|コト}}は、かの陰陽乾坤などをはじめ、{{r|諸|モロ{{〱}}}}皆、もと聖人どもの{{r|己|オノ}}が{{r|智|サトリ}}をもて、おしはかりに作りかまへたる物なれば、うち聞<sup><small>ク</small></sup>には、ことわり{{r|深|フカ}}げにきこゆめれども、{{r|彼|カレ}}が{{r|垣內|カキツ}}を{{r|離|ハナ}}れて、外よりよく見れば、{{r|何|ナニ}}ばかりのこともなく、中〻に{{r|淺|アサ}}はかなることゞもなりかし。されど{{r|昔|ムカシ}}も今も世<sup><small>ノ</small></sup>人の、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|垣內|カキツ}}に{{r|迷入|マヨヒイリ}}て、{{r|得|エ}}{{r|出離|イデハナ}}れぬこそくちをしけれ。大御國の{{r|說|コト}}は、神代より傳へ{{r|來|コ}}しまゝにして、いさゝかも人のさかしらを{{r|加|クハ}}へざる故に、うはベはたゞ{{r|淺〻|アサ{{〱}}}}と聞ゆれども、{{r|實|マコト}}にはそこひもなく、人の{{r|智|サトリ}}の{{r|得|エ}}{{r|測度|ハカラ}}ぬ、深き{{r|妙|タヘ}}なる理のこもれるを、其<sup><small>ノ</small></sup>意をえしらぬは、かの{{r|漢國書|カラクノブミ}}の{{r|垣內|カキツ}}にまよひ{{r|居|ヲ}}る故なり。{{r|此|コ}}をいではなれざらむほどは、たとひ{{r|百年|モヽトセ}}{{r|千年|チトセ}}の{{r|力|チカラ}}をつくして{{r|物學|モノマナ}}ぶとも、道のためには、何の{{r|益|シルシ}}なきいたづらわざならむかし。但し古<sup><small>キ</small></sup>書は、みな{{r|漢文|カラブミ}}にうつして書<sup><small>キ</small></sup>たれば、彼<sup><small>ノ</small></sup>國のことも、一<sup><small>ト</small></sup>わたりは知<sup><small>リ</small></sup>てあるべく、{{r|文字|モジ}}のことなどしらむためには、{{r|漢籍|カラブミ}}をも、いとまあらば學びつべし。{{r|皇國魂|ミクニダマシヒ}}の定まりて、たゞよはぬうへにては、{{r|害|サマタゲ}}はなきものぞ。}}|2em}} |
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<big>{{r|故|カレ}}おのが{{r|身〻|ミヽ}}に{{r|受行|ウケオコナ}}ふべき神<sup><small>ノ</small></sup>道の敎<sup><small>ヘ</small></sup>などいひて、くさ{{〲}}ものすなるも、みなかの道のをしへごとをうらやみて、近き世にかまへ出<sup><small>デ</small></sup>たるわたくしごとなり。</big> |
<big>{{r|故|カレ}}おのが{{r|身〻|ミヽ}}に{{r|受行|ウケオコナ}}ふべき神<sup><small>ノ</small></sup>道の敎<sup><small>ヘ</small></sup>などいひて、くさ{{〲}}ものすなるも、みなかの道のをしへごとをうらやみて、近き世にかまへ出<sup><small>デ</small></sup>たるわたくしごとなり。</big> |
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{{left|こと{{〲}}しく{{r|祕說|ヒメゴト}}など云て、人えりして{{r|密|ヒソカ}}に傳ふる{{r|類|タグヒ}}など、皆後<sup><small>ノ</small></sup>世に{{r|僞造|イツハリツク}}れることぞ。凡てよきことは、いかにも{{〱}}世に廣まるこそよけれ。ひめかくして、あまねく人に知<sup><small>ラ</small></sup>せず、{{r|己|オノ}}が{{r|私物|ワタクシモノ}}にせむとするは、いとこゝろぎたなきわざなりかし。|2em}} |
{{left|{{*|こと{{〲}}しく{{r|祕說|ヒメゴト}}など云て、人えりして{{r|密|ヒソカ}}に傳ふる{{r|類|タグヒ}}など、皆後<sup><small>ノ</small></sup>世に{{r|僞造|イツハリツク}}れることぞ。凡てよきことは、いかにも{{〱}}世に廣まるこそよけれ。ひめかくして、あまねく人に知<sup><small>ラ</small></sup>せず、{{r|己|オノ}}が{{r|私物|ワタクシモノ}}にせむとするは、いとこゝろぎたなきわざなりかし。}}|2em}} |
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<big>あなかしこ、{{r|天皇|オホキミ}}の天<sup><small>ノ</small></sup>下しろしめす道を、{{r|下|シモ}}が{{r|下|シモ}}として、{{r|己|オノ}}がわたくしの物とせむことよ。</big> |
<big>あなかしこ、{{r|天皇|オホキミ}}の天<sup><small>ノ</small></sup>下しろしめす道を、{{r|下|シモ}}が{{r|下|シモ}}として、{{r|己|オノ}}がわたくしの物とせむことよ。</big> |
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{{left|下なる{{r|者|モノ}}は、かにもかくにもたゞ上の御おもむけに{{r|從|シタガ}}ひ{{r|居|ヲ}}るこそ、道にはかなへれ。たとへ神の道の{{r|行|オコナ}}ひの、{{r|別|コト}}にあらむにても、{{r|其|ソ}}を敎へ學びて、{{r|別|コト}}に行ひたらむは、上にしたがはぬ私<sup><small>シ</small></sup>事ならずや。|2em}} |
{{left|{{*|下なる{{r|者|モノ}}は、かにもかくにもたゞ上の御おもむけに{{r|從|シタガ}}ひ{{r|居|ヲ}}るこそ、道にはかなへれ。たとへ神の道の{{r|行|オコナ}}ひの、{{r|別|コト}}にあらむにても、{{r|其|ソ}}を敎へ學びて、{{r|別|コト}}に行ひたらむは、上にしたがはぬ私<sup><small>シ</small></sup>事ならずや。}}|2em}} |
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<big>人はみな、{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}によりて、{{r|生|ウマ}}れつるまに{{〱}}、身にあるべきかぎりの{{r|行|ワザ}}は、おのづから知<sup><small>リ</small></sup>てよく{{r|爲|す}}る物にしあれば、</big> |
<big>人はみな、{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}によりて、{{r|生|ウマ}}れつるまに{{〱}}、身にあるべきかぎりの{{r|行|ワザ}}は、おのづから知<sup><small>リ</small></sup>てよく{{r|爲|す}}る物にしあれば、</big> |
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{{left|{{r|世中|ヨノナカ}}に{{r|生|イキ}}としいける物、鳥蟲に至るまでも、{{r|己|オノ}}が身のほど{{〱}}に、必<sup><small>ズ</small></sup>あるべきかぎりのわざは、{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神のみたまに{{r|賴|ヨリ}}て、おのづからよく知<sup><small>リ</small></sup>てなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物とうまれつれば、又しか{{r|勝|スグ}}れたるほどにかなひて、知<sup><small>ル</small></sup>べきかぎりはしり、すべきかぎりはする物なるに、いかでか其<sup><small>ノ</small></sup>上<sup><small>ヘ</small></sup>をなほ{{r|强|シヒ}}ることのあらむ。敎<sup><small>ヘ</small></sup>によらずては、えしらずえせぬものといはゞ、人は鳥蟲におとれりとやせむ。いはゆる仁義禮讓孝悌忠信のたぐひ、皆人の必<sup><small>ズ</small></sup>あるべきわざなれば、あるべき限<sup><small>リ</small></sup>は、敎<sup><small>ヘ</small></sup>をからざれども、おのづからよく知<sup><small>リ</small></sup>てなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき國を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必<sup><small>ズ</small></sup>有<sup><small>ル</small></sup>べきかぎりを{{r|過|スギ}}て、なほきびしく敎へたてむとせる{{r|强事|シヒゴト}}なれば、まことの道にかなはず。{{r|故|カレ}}{{r|口|クチ}}には人みなこと{{〲}}しく{{r|言|イヒ}}ながら、まことに{{r|然|シカ}}{{r|行|オコナ}}ふ人は、世〻にいと有<sup><small>リ</small></sup>がたきを、天理のまゝなる道と思ふは、いたくたがへり。又其<sup><small>ノ</small></sup>道にそむける心を、人慾といひてにくむも、こゝろえず。そも{{〱}}その人慾といふ物は、いづくよりいかなる故にていできつるぞ。それも然るべき理<sup><small>リ</small></sup>にてこそは、{{r|出來|イデキ}}たるべければ、人慾も卽<sup><small>チ</small></sup>天理ならずや。又{{r|百世|モヽツギ}}を{{r|經|ヘ}}ても、同<sup><small>ジ</small></sup>{{r|姓|ウヂ}}どち{{r|婚|マグハヒ}}することゆるさずといふ{{r|制|サダメ}}など、かの國にしても、上<sup><small>ツ</small></sup>代より然るにはあらず。周の代のさだめなり。かくきびしく定めたる故は、國の{{r|俗|ナラハシ}}あしくして、{{r|親|オヤ}}{{r|子|コ}}{{r|同母兄弟|ハラカラ}}などの{{r|間|アヒダ}}にも、みだりなる事のみ{{r|常|ツネ}}多くて、{{r|別|ワキ}}なく治まりがたかりし故なれば、かゝる{{r|制|サダメ}}のきびしきは、かへりて國の{{r|恥|ハヂ}}なるをや。すべて{{r|何|ナニ}}の上にも、{{r|法|サダメ}}の{{r|嚴|キビシ}}きは、{{r|犯|オカ}}すもゝの多きがゆゑぞかし。さて其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|制|サダメ}}は{{r|制|サダメ}}と立しかども、まことの道にあらず。人の{{r|情|コヽロ}}にかなはぬことなる故に、したがふ人いと{{〱}}まれなり。{{r|後〻|のち{{〱}}}}はさらにもいはず、はやく周の代のほどにすら、諸侯といふきはの者も、これを破れるが多ければ、ましてつぎつぎはしられたり。姉妹などにさへ{{r|姧|タハ}}けし{{r|例|アト}}もある物をや。然るを{{r|儒者|ズサ}}どもの、昔よりかく世<sup><small>ノ</small></sup>人の守りあへぬことをば忘れて、いたづらなるさだめのみをとらへて、たけきことにいひ思ひ、又皇國をしひて{{r|賤|イヤ}}しめむとして、ともすれば、古<sup><small>ヘ</small></sup>兄弟まぐはひせしことをいひ出て、{{r|鳥獸|トリケモノ}}のふるまひぞとそしるを、{{r|此方|コヽ}}の{{r|物知人|モノシリヒト}}たちも、是をばこゝろよからず、御國のあかぬことに思ひて、かにかくにいひまぎらはしつゝ、いまださだかに{{r|斷|コトワ}}り{{r|說|トケ}}ることもなきは、かの聖人のさかしらを、かならず{{r|當然|サルベキ}}{{r|理|コトワリ}}と思ひなづみて、なほ彼<sup><small>レ</small></sup>にへつらふ心あるがゆゑなり。もしへつらふこゝろしなくば、彼<sup><small>レ</small></sup>と同じからぬは、なにごとかあらむ。抑皇國の古<sup><small>ヘ</small></sup>は、たヾ{{r|同母兄弟|ハラカラ}}をのみ{{r|嫌|キラ}}ひて、{{r|異母|コトハラ}}の{{r|兄弟|イモセ}}など{{r|御合坐|ミアヒマシ}}しことは、天皇を始め奉<sup><small>リ</small></sup>て、おほかたよのつねにして、{{r|今京|イマノミヤコ}}になりてのこなたまでも、すべて{{r|忌|イム}}ことなかりき。但し{{r|貴|タフト}}き{{r|賤|イヤシ}}きへだては、うるはしく有<sup><small>リ</small></sup>て、おのづからみだりならざりけり。これぞこの{{r|神祖|カムロギ}}の定め賜へる、正しき{{r|眞|マコト}}の道なりける。然るを後<sup><small>ノ</small></sup>世には、かのから國のさだめを、いさゝかばかり守るげにて、{{r|異母|コトハラ}}なるをも{{r|兄弟|イモセ}}と云て、{{r|婚|マグハヒ}}せぬことになも定まりぬる。されば今<sup><small>ノ</small></sup>世にして、{{r|其|ソ}}を{{r|犯|オカ}}さむこそ{{r|惡|アシ}}からめ、古<sup><small>ヘ</small></sup>は古<sup><small>ヘ</small></sup>の定まりにしあれば、{{r|異國|アダシクニ}}の{{r|制|サダメ}}を{{r|規|ノリ}}として、{{r|論|アゲツラ}}ふべきことにあらず。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|世中|ヨノナカ}}に{{r|生|イキ}}としいける物、鳥蟲に至るまでも、{{r|己|オノ}}が身のほど{{〱}}に、必<sup><small>ズ</small></sup>あるべきかぎりのわざは、{{r|產巢|ムス}}{{r|日|ビノ}}神のみたまに{{r|賴|ヨリ}}て、おのづからよく知<sup><small>リ</small></sup>てなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物とうまれつれば、又しか{{r|勝|スグ}}れたるほどにかなひて、知<sup><small>ル</small></sup>べきかぎりはしり、すべきかぎりはする物なるに、いかでか其<sup><small>ノ</small></sup>上<sup><small>ヘ</small></sup>をなほ{{r|强|シヒ}}ることのあらむ。敎<sup><small>ヘ</small></sup>によらずては、えしらずえせぬものといはゞ、人は鳥蟲におとれりとやせむ。いはゆる仁義禮讓孝悌忠信のたぐひ、皆人の必<sup><small>ズ</small></sup>あるべきわざなれば、あるべき限<sup><small>リ</small></sup>は、敎<sup><small>ヘ</small></sup>をからざれども、おのづからよく知<sup><small>リ</small></sup>てなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき國を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必<sup><small>ズ</small></sup>有<sup><small>ル</small></sup>べきかぎりを{{r|過|スギ}}て、なほきびしく敎へたてむとせる{{r|强事|シヒゴト}}なれば、まことの道にかなはず。{{r|故|カレ}}{{r|口|クチ}}には人みなこと{{〲}}しく{{r|言|イヒ}}ながら、まことに{{r|然|シカ}}{{r|行|オコナ}}ふ人は、世〻にいと有<sup><small>リ</small></sup>がたきを、天理のまゝなる道と思ふは、いたくたがへり。又其<sup><small>ノ</small></sup>道にそむける心を、人慾といひてにくむも、こゝろえず。そも{{〱}}その人慾といふ物は、いづくよりいかなる故にていできつるぞ。それも然るべき理<sup><small>リ</small></sup>にてこそは、{{r|出來|イデキ}}たるべければ、人慾も卽<sup><small>チ</small></sup>天理ならずや。又{{r|百世|モヽツギ}}を{{r|經|ヘ}}ても、同<sup><small>ジ</small></sup>{{r|姓|ウヂ}}どち{{r|婚|マグハヒ}}することゆるさずといふ{{r|制|サダメ}}など、かの國にしても、上<sup><small>ツ</small></sup>代より然るにはあらず。周の代のさだめなり。かくきびしく定めたる故は、國の{{r|俗|ナラハシ}}あしくして、{{r|親|オヤ}}{{r|子|コ}}{{r|同母兄弟|ハラカラ}}などの{{r|間|アヒダ}}にも、みだりなる事のみ{{r|常|ツネ}}多くて、{{r|別|ワキ}}なく治まりがたかりし故なれば、かゝる{{r|制|サダメ}}のきびしきは、かへりて國の{{r|恥|ハヂ}}なるをや。すべて{{r|何|ナニ}}の上にも、{{r|法|サダメ}}の{{r|嚴|キビシ}}きは、{{r|犯|オカ}}すもゝの多きがゆゑぞかし。さて其<sup><small>ノ</small></sup>{{r|制|サダメ}}は{{r|制|サダメ}}と立しかども、まことの道にあらず。人の{{r|情|コヽロ}}にかなはぬことなる故に、したがふ人いと{{〱}}まれなり。{{r|後〻|のち{{〱}}}}はさらにもいはず、はやく周の代のほどにすら、諸侯といふきはの者も、これを破れるが多ければ、ましてつぎつぎはしられたり。姉妹などにさへ{{r|姧|タハ}}けし{{r|例|アト}}もある物をや。然るを{{r|儒者|ズサ}}どもの、昔よりかく世<sup><small>ノ</small></sup>人の守りあへぬことをば忘れて、いたづらなるさだめのみをとらへて、たけきことにいひ思ひ、又皇國をしひて{{r|賤|イヤ}}しめむとして、ともすれば、古<sup><small>ヘ</small></sup>兄弟まぐはひせしことをいひ出て、{{r|鳥獸|トリケモノ}}のふるまひぞとそしるを、{{r|此方|コヽ}}の{{r|物知人|モノシリヒト}}たちも、是をばこゝろよからず、御國のあかぬことに思ひて、かにかくにいひまぎらはしつゝ、いまださだかに{{r|斷|コトワ}}り{{r|說|トケ}}ることもなきは、かの聖人のさかしらを、かならず{{r|當然|サルベキ}}{{r|理|コトワリ}}と思ひなづみて、なほ彼<sup><small>レ</small></sup>にへつらふ心あるがゆゑなり。もしへつらふこゝろしなくば、彼<sup><small>レ</small></sup>と同じからぬは、なにごとかあらむ。抑皇國の古<sup><small>ヘ</small></sup>は、たヾ{{r|同母兄弟|ハラカラ}}をのみ{{r|嫌|キラ}}ひて、{{r|異母|コトハラ}}の{{r|兄弟|イモセ}}など{{r|御合坐|ミアヒマシ}}しことは、天皇を始め奉<sup><small>リ</small></sup>て、おほかたよのつねにして、{{r|今京|イマノミヤコ}}になりてのこなたまでも、すべて{{r|忌|イム}}ことなかりき。但し{{r|貴|タフト}}き{{r|賤|イヤシ}}きへだては、うるはしく有<sup><small>リ</small></sup>て、おのづからみだりならざりけり。これぞこの{{r|神祖|カムロギ}}の定め賜へる、正しき{{r|眞|マコト}}の道なりける。然るを後<sup><small>ノ</small></sup>世には、かのから國のさだめを、いさゝかばかり守るげにて、{{r|異母|コトハラ}}なるをも{{r|兄弟|イモセ}}と云て、{{r|婚|マグハヒ}}せぬことになも定まりぬる。されば今<sup><small>ノ</small></sup>世にして、{{r|其|ソ}}を{{r|犯|オカ}}さむこそ{{r|惡|アシ}}からめ、古<sup><small>ヘ</small></sup>は古<sup><small>ヘ</small></sup>の定まりにしあれば、{{r|異國|アダシクニ}}の{{r|制|サダメ}}を{{r|規|ノリ}}として、{{r|論|アゲツラ}}ふべきことにあらず。}}|2em}} |
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<big>いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として、</big> |
<big>いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として、</big> |
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{{left|天皇の{{r|所思看|オモホシメス}}御心のまに{{〱}}{{r|奉仕|ツカヘマツリ}}て、{{r|己|オノ}}が私<sup><small>シ</small></sup>心はつゆなかりき。|2em}} |
{{left|{{*|天皇の{{r|所思看|オモホシメス}}御心のまに{{〱}}{{r|奉仕|ツカヘマツリ}}て、{{r|己|オノ}}が私<sup><small>シ</small></sup>心はつゆなかりき。}}|2em}} |
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<big>ひたぶるに{{r|大命|オホミコト}}をかしこみゐやびまつろひて、おほみうつくしみの{{r|御蔭|ミカゲ}}にかくろひて、おのもおのも{{r|祖神|オヤガミ}}を{{r|齋祭|イツキマツリ}}つゝ、</big> |
<big>ひたぶるに{{r|大命|オホミコト}}をかしこみゐやびまつろひて、おほみうつくしみの{{r|御蔭|ミカゲ}}にかくろひて、おのもおのも{{r|祖神|オヤガミ}}を{{r|齋祭|イツキマツリ}}つゝ、</big> |
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{{left|天皇の、{{r|大|オホ}}{{r|御|ミ}}{{r|皇祖|オヤ}}{{r|神|ガミ}}の{{r|御前|ミマヘ}}を{{r|拜祭|イツキマツリ}}坐<sup><small>ス</small></sup>がごとく、{{r|臣連|おみむらじ}}{{r|八十|ヤソ}}{{r|伴緖|トモノヲ}}、天<sup><small>のノ</small></sup>下の{{r|百姓|オホミタカラ}}に至るまで、{{r|各|オノ{{〱}}}}祖神を祭るは常にて、又天皇の、{{r|朝廷|ミカド}}のため天下のために、{{r|天神|アマツカミ}}{{r|國神|クニツカミ}}{{r|諸|モロ{{〱}}}}をも祭<sup><small>リ</small></sup>坐<sup><small>ス</small></sup>が如く、下なる人どもゝ、事にふれては、{{r|福|サチ}}を求むと、{{r|善|ヨキ}}神にこひねぎ、{{r|禍|マガ}}をのがれむと、{{r|惡|アシキ}}神をも{{r|和|ナゴ}}め祭り、又たま{{〱}}に{{r|罪穢|ツミケガレ}}もあれば、{{r|祓淸|ハラヒキヨ}}むるなど、みな人の{{r|情|コヽロ}}にして、かならず有<sup><small>ル</small></sup>べきわざなり。然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の敎へ儒の{{r|見|コヽロ}}にこそ、さることもあらめ、神の道には、{{r|甚|イタ}}くそむけり。又{{r|異國|アダシクニ}}には、神を祭るにも、たゞ理を{{r|先|サキ}}にして、さま{{〲}}{{r|議論|アゲツラヒ}}あり。淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり。凡て神は、{{r|佛|ホトケ}}などいふなる物の{{r|趣|オモムキ}}とは{{r|異|コト}}にして、{{r|善|ヨキ}}神のみにはあらず、{{r|惡|アシ}}きも有<sup><small>リ</small></sup>て、心も{{r|所行|シワザ}}も、然ある物なれば、{{r|惡|アシ}}きわざする人も{{r|福|さか}}え、{{r|善事|ヨキワザ}}する人も、{{r|禍|マガ}}ることある、よのつねなり。されば神は、理<sup><small>リ</small></sup>の{{r|當|アタリ}}{{r|不|アタラズ}}をもて、思ひはかるべきものにあらず。たゞその{{r|御怒|ミイカリ}}を{{r|畏|カシコ}}みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり。されば祭るにも、そのこゝろばへ有<sup><small>リ</small></sup>て、いかにも其神の{{r|歡喜|ヨロコ}}び坐<sup><small>ス</small></sup>べきわざをなも{{r|爲|ス}}べき。そはまづ萬<sup><small>ヅ</small></sup>を{{r|齋忌|イミ}}{{r|淸|キヨ}}まはりて、{{r|穢惡|ケガレ}}あらせず、{{r|堪|タヘ}}たる限<sup><small>リ</small></sup>{{r|美好|うまき}}{{r|物|モノ}}{{r|多|サワ}}に{{r|獻|タテマツ}}り、{{r|或|アル}}は{{r|琴|コト}}ひき{{r|笛|フエ}}ふき{{r|歌儛|ウタヒマ}}ひなど、おもしろきわざをして祭る。これみな神代の{{r|例|アト}}にして、古<sup><small>ヘ</small></sup>の道なり。然るをたゞ心の{{r|至|イタ}}り至らぬをのみいひて、{{r|獻|タテマツ}}る物になすわざにもかゝはらぬは、{{r|漢意|カラゴヽロ}}のひがことなり。さて又神を祭るには、{{r|何|ナニ}}わざよりも先づ火を{{r|重|オモ}}く{{r|忌淸|イミキヨ}}むべきこと、神代<sup><small>ノ</small></sup>書の{{r|黃泉段|ヨミノクダリ}}を見て知<sup><small>ル</small></sup>べし。{{r|是|こ}}は{{r|神事|カムワザ}}のみにもあらず、大かた常につゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり。もし火{{r|穢|ケガ}}るゝときは、禍津日<sup><small>ノ</small></sup>神ところをえて、{{r|荒|アラ}}び坐<sup><small>ス</small></sup>ゆゑに、世<sup><small>ノ</small></sup>中に萬<sup><small>ヅ</small></sup>の{{r|禍事|マガゴト}}はおこるぞかし。かゝれば世のため民のためにも、なべて天<sup><small>ノ</small></sup>下に、火の{{r|穢|ケガレ}}は{{r|忌|イマ}}まほしきわざなり。今の代には、{{r|唯|タヾ}}{{r|神事|カムワザ}}のをり、又神の坐<sup><small>ス</small></sup>{{r|地|トコロ}}などにこそ、かつ{{〲}}も此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|忌|イミ}}は物すめれ。なべては然る事さらになきは、火の{{r|穢|ケガレ}}などいふをば、{{r|愚|オロカ}}なることゝおもふ、なまさかしらなる{{r|漢意|カラゴゝロ}}のひろごれるなり。かくて{{r|神御典|カミノミフニ}}を{{r|釋誨|トキヲシ}}ふる世〻の{{r|識者|モノシリビト}}たちすら、たゞ{{r|漢意|カラゴゝロ}}の理をのみ、うるさきまで物して、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|忌|イミ}}の{{r|說|コト}}をしも、なほざりにすめるは、いかにぞや。|2em}} |
{{left|{{*|天皇の、{{r|大|オホ}}{{r|御|ミ}}{{r|皇祖|オヤ}}{{r|神|ガミ}}の{{r|御前|ミマヘ}}を{{r|拜祭|イツキマツリ}}坐<sup><small>ス</small></sup>がごとく、{{r|臣連|おみむらじ}}{{r|八十|ヤソ}}{{r|伴緖|トモノヲ}}、天<sup><small>のノ</small></sup>下の{{r|百姓|オホミタカラ}}に至るまで、{{r|各|オノ{{〱}}}}祖神を祭るは常にて、又天皇の、{{r|朝廷|ミカド}}のため天下のために、{{r|天神|アマツカミ}}{{r|國神|クニツカミ}}{{r|諸|モロ{{〱}}}}をも祭<sup><small>リ</small></sup>坐<sup><small>ス</small></sup>が如く、下なる人どもゝ、事にふれては、{{r|福|サチ}}を求むと、{{r|善|ヨキ}}神にこひねぎ、{{r|禍|マガ}}をのがれむと、{{r|惡|アシキ}}神をも{{r|和|ナゴ}}め祭り、又たま{{〱}}に{{r|罪穢|ツミケガレ}}もあれば、{{r|祓淸|ハラヒキヨ}}むるなど、みな人の{{r|情|コヽロ}}にして、かならず有<sup><small>ル</small></sup>べきわざなり。然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の敎へ儒の{{r|見|コヽロ}}にこそ、さることもあらめ、神の道には、{{r|甚|イタ}}くそむけり。又{{r|異國|アダシクニ}}には、神を祭るにも、たゞ理を{{r|先|サキ}}にして、さま{{〲}}{{r|議論|アゲツラヒ}}あり。淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり。凡て神は、{{r|佛|ホトケ}}などいふなる物の{{r|趣|オモムキ}}とは{{r|異|コト}}にして、{{r|善|ヨキ}}神のみにはあらず、{{r|惡|アシ}}きも有<sup><small>リ</small></sup>て、心も{{r|所行|シワザ}}も、然ある物なれば、{{r|惡|アシ}}きわざする人も{{r|福|さか}}え、{{r|善事|ヨキワザ}}する人も、{{r|禍|マガ}}ることある、よのつねなり。されば神は、理<sup><small>リ</small></sup>の{{r|當|アタリ}}{{r|不|アタラズ}}をもて、思ひはかるべきものにあらず。たゞその{{r|御怒|ミイカリ}}を{{r|畏|カシコ}}みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり。されば祭るにも、そのこゝろばへ有<sup><small>リ</small></sup>て、いかにも其神の{{r|歡喜|ヨロコ}}び坐<sup><small>ス</small></sup>べきわざをなも{{r|爲|ス}}べき。そはまづ萬<sup><small>ヅ</small></sup>を{{r|齋忌|イミ}}{{r|淸|キヨ}}まはりて、{{r|穢惡|ケガレ}}あらせず、{{r|堪|タヘ}}たる限<sup><small>リ</small></sup>{{r|美好|うまき}}{{r|物|モノ}}{{r|多|サワ}}に{{r|獻|タテマツ}}り、{{r|或|アル}}は{{r|琴|コト}}ひき{{r|笛|フエ}}ふき{{r|歌儛|ウタヒマ}}ひなど、おもしろきわざをして祭る。これみな神代の{{r|例|アト}}にして、古<sup><small>ヘ</small></sup>の道なり。然るをたゞ心の{{r|至|イタ}}り至らぬをのみいひて、{{r|獻|タテマツ}}る物になすわざにもかゝはらぬは、{{r|漢意|カラゴヽロ}}のひがことなり。さて又神を祭るには、{{r|何|ナニ}}わざよりも先づ火を{{r|重|オモ}}く{{r|忌淸|イミキヨ}}むべきこと、神代<sup><small>ノ</small></sup>書の{{r|黃泉段|ヨミノクダリ}}を見て知<sup><small>ル</small></sup>べし。{{r|是|こ}}は{{r|神事|カムワザ}}のみにもあらず、大かた常につゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり。もし火{{r|穢|ケガ}}るゝときは、禍津日<sup><small>ノ</small></sup>神ところをえて、{{r|荒|アラ}}び坐<sup><small>ス</small></sup>ゆゑに、世<sup><small>ノ</small></sup>中に萬<sup><small>ヅ</small></sup>の{{r|禍事|マガゴト}}はおこるぞかし。かゝれば世のため民のためにも、なべて天<sup><small>ノ</small></sup>下に、火の{{r|穢|ケガレ}}は{{r|忌|イマ}}まほしきわざなり。今の代には、{{r|唯|タヾ}}{{r|神事|カムワザ}}のをり、又神の坐<sup><small>ス</small></sup>{{r|地|トコロ}}などにこそ、かつ{{〲}}も此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|忌|イミ}}は物すめれ。なべては然る事さらになきは、火の{{r|穢|ケガレ}}などいふをば、{{r|愚|オロカ}}なることゝおもふ、なまさかしらなる{{r|漢意|カラゴゝロ}}のひろごれるなり。かくて{{r|神御典|カミノミフニ}}を{{r|釋誨|トキヲシ}}ふる世〻の{{r|識者|モノシリビト}}たちすら、たゞ{{r|漢意|カラゴゝロ}}の理をのみ、うるさきまで物して、此<sup><small>ノ</small></sup>{{r|忌|イミ}}の{{r|說|コト}}をしも、なほざりにすめるは、いかにぞや。}}|2em}} |
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<big>ほど{{〱}}にあるべきかぎりのわざをして、{{r|穩|オダヒ}}しく{{r|樂|タヌシ}}く世をわたらふほかなかりしかば、</big> |
<big>ほど{{〱}}にあるべきかぎりのわざをして、{{r|穩|オダヒ}}しく{{r|樂|タヌシ}}く世をわたらふほかなかりしかば、</big> |
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{{left|かくあるほかに、{{r|何|ナニ}}の{{r|敎|オシヘ}}ごとをかもまたむ。抑みどり{{r|兒|ゴ}}に物敎へ、又{{r|諸匠|テビトヾモ}}の{{r|物造|モノツク}}るすべ、其外よろづの{{r|伎藝|コトナルワザ}}などを敎ふることは、上<sup><small>ツ</small></sup>代に、有<sup><small>リ</small></sup>けむを、かの儒佛などの{{r|敎事|ヲシエゴト}}も、いひもてゆけば、これらと{{r|異|コト}}なることなきに{{r|似|ニ}}たれども、{{r|辦|ワキマ}}ふれば、同じからざることぞかし。|2em}} |
{{left|{{*|かくあるほかに、{{r|何|ナニ}}の{{r|敎|オシヘ}}ごとをかもまたむ。抑みどり{{r|兒|ゴ}}に物敎へ、又{{r|諸匠|テビトヾモ}}の{{r|物造|モノツク}}るすべ、其外よろづの{{r|伎藝|コトナルワザ}}などを敎ふることは、上<sup><small>ツ</small></sup>代に、有<sup><small>リ</small></sup>けむを、かの儒佛などの{{r|敎事|ヲシエゴト}}も、いひもてゆけば、これらと{{r|異|コト}}なることなきに{{r|似|ニ}}たれども、{{r|辦|ワキマ}}ふれば、同じからざることぞかし。}}|2em}} |
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<big>今はた其<sup><small>ノ</small></sup>道といひて、{{r|別|コト}}に敎<sup><small>ヘ</small></sup>を{{r|受|ウケ}}て、おこなふべきわざはありなむや。</big> |
<big>今はた其<sup><small>ノ</small></sup>道といひて、{{r|別|コト}}に敎<sup><small>ヘ</small></sup>を{{r|受|ウケ}}て、おこなふべきわざはありなむや。</big> |
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{{left|然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ{{r|問|ト}}へるに、答<sup><small>ヘ</small></sup>けらく、かの老莊がともは儒者のさかしらをうるさみて、{{r|自然|オノヅカラ}}なるをたふとめば、おのづから{{r|似|ニ}}たることあり。されどかれらも、大御神の御國ならぬ、{{r|惡國|キタナキクニ}}に生れて、たゞ代〻の聖人の{{r|說|コト}}をのみ{{r|聞|キヽ}}なれたるものなれば、{{r|自然|オノヅカラ}}なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は、神の御心より出て、その{{r|御|ミ}}{{r|所爲|シワザ}}なることをしも、えしらねば、{{r|大旨|オホムネ}}の{{r|甚|イタ}}くたがへる物をや。|2em}} |
{{left|{{*|然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ{{r|問|ト}}へるに、答<sup><small>ヘ</small></sup>けらく、かの老莊がともは儒者のさかしらをうるさみて、{{r|自然|オノヅカラ}}なるをたふとめば、おのづから{{r|似|ニ}}たることあり。されどかれらも、大御神の御國ならぬ、{{r|惡國|キタナキクニ}}に生れて、たゞ代〻の聖人の{{r|說|コト}}をのみ{{r|聞|キヽ}}なれたるものなれば、{{r|自然|オノヅカラ}}なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は、神の御心より出て、その{{r|御|ミ}}{{r|所爲|シワザ}}なることをしも、えしらねば、{{r|大旨|オホムネ}}の{{r|甚|イタ}}くたがへる物をや。}}|2em}} |
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<big>もししひて{{r|求|モト}}むとならば、きたなきからぶみごゝろを{{r|祓|ハラ}}ひきよめて{{r|淸〻|スガ{{〱}}}}しき{{r|御國|ミクニ}}ごゝろもて、{{r|古|フルキ}}{{r|典|フミ}}どもをよく{{r|學|マナ}}びてよ。{{r|然|シカ}}せば、{{r|受行|ウケオコナフ}}べき道なきことは、おのづから知<sup><small>リ</small></sup>てむ。{{r|其|ソ}}しるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける。かゝれば{{r|如此|カク}}まで{{r|論|アゲツラ}}ふも、道の意にはあらねども、{{r|禍|マガ}}{{r|津|ツ}}{{r|日|ビノ}}神のみしわざ、{{r|見|ミ}}つゝ{{r|默止|ナホ}}えあらず、{{r|神直毘|カムナホビノ}}神{{r|大直毘|オホナホビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}たばりて、このまがをもて{{r|直|ナホ}}さむとぞよ。</big> |
<big>もししひて{{r|求|モト}}むとならば、きたなきからぶみごゝろを{{r|祓|ハラ}}ひきよめて{{r|淸〻|スガ{{〱}}}}しき{{r|御國|ミクニ}}ごゝろもて、{{r|古|フルキ}}{{r|典|フミ}}どもをよく{{r|學|マナ}}びてよ。{{r|然|シカ}}せば、{{r|受行|ウケオコナフ}}べき道なきことは、おのづから知<sup><small>リ</small></sup>てむ。{{r|其|ソ}}しるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける。かゝれば{{r|如此|カク}}まで{{r|論|アゲツラ}}ふも、道の意にはあらねども、{{r|禍|マガ}}{{r|津|ツ}}{{r|日|ビノ}}神のみしわざ、{{r|見|ミ}}つゝ{{r|默止|ナホ}}えあらず、{{r|神直毘|カムナホビノ}}神{{r|大直毘|オホナホビノ}}神の{{r|御靈|ミタマ}}たばりて、このまがをもて{{r|直|ナホ}}さむとぞよ。</big> |
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{{left|{{r|上|カミ}}の{{r|件|クダリ}}、すべて{{r|己|オノ}}が私のころゝもていふにあらず。こと{{〲}}に{{r|古|フルキ}}{{r|典|フミ}}に、よるところあることにしあれば、よく{{r|見|み}}む人は疑はじ。|2em}} |
{{left|{{*|{{r|上|カミ}}の{{r|件|クダリ}}、すべて{{r|己|オノ}}が私のころゝもていふにあらず。こと{{〲}}に{{r|古|フルキ}}{{r|典|フミ}}に、よるところあることにしあれば、よく{{r|見|み}}む人は疑はじ。}}|2em}} |
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<big>かくいふは、明和の{{r|八年|ヤトセ}}といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢<sup><small>ノ</small></sup>國<sup><small>ノ</small></sup>飯高<sup><small>ノ</small></sup>郡<sup><small>ノ</small></sup>{{r|御民|ミタミ}}、平<sup><small>ノ</small></sup>阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす。</big> |
<big>かくいふは、明和の{{r|八年|ヤトセ}}といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢<sup><small>ノ</small></sup>國<sup><small>ノ</small></sup>飯高<sup><small>ノ</small></sup>郡<sup><small>ノ</small></sup>{{r|御民|ミタミ}}、平<sup><small>ノ</small></sup>阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす。</big> |
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2020年1月21日 (火) 13:39時点における版
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1904256/46
〈萬ノ國に
大御神、
〈御代御代に
〈
〈いく萬代を
〈御世御世の
〈
神代も今もへだてなく、
〈たゞ
〈書紀の
古ヘの
〈故レ
〈
物のことわりあるべきすべ、
〈
然るをやゝ
〈神の道としもいふ
しかありて御代〻〻を
〈難波の
〈
さてこそ
〈いとめでたき大御國の道をおきながら、
〈いとめでたき大御國の道をおきながら、
しかありて御代〻〻を
〈難波の
そも〳〵此ノ
〈凡て此ノ世ノ中の事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、
〈
〈
〈天皇の
あめつちのむた、ときはにかきはに
〈漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、あとよりみだりなるが、世〻にますます亂れみだれて、
そも此ノ道は、いかなる道ぞと
〈
人の作れる道にあらず。此ノ道はしも、
〈世ノ中にあらゆる事も物も、
〈よのなかにあらゆる事も物も、此ノ二柱ノ大神よりはじまれり。〉
天照大御神の
〈神ノ道と申す名は、書紀の
さて其道の意は、此ノ
〈古ヘは道といふ
〈こと〴〵しく
あなかしこ、
〈下なる
人はみな、
〈
いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として、
〈天皇の
ひたぶるに
〈天皇の、
ほど〳〵にあるべきかぎりのわざをして、
〈かくあるほかに、
今はた其ノ道といひて、
〈然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ
もししひて
〈
かくいふは、明和の