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と、皇室の御惠みを忘れ奉るものがあつたからです。武士がさうですから、いつぱんの國民は、なほさらのことです。光圀は、深くこれをなげき、北畠親房のことをしのぶにつけても、正しい國史の本をあらはし、尊い國がらを明らかにして、人々をみちびかなければならないと考へました。

まづ、京都の學者山崎闇齋の門人や、多くのすぐれた學者を招き、第百十一代後西天皇の御代に、いよいよ國史の編纂にかかりました。光圀自身も、古書を調べ、編纂を統べ、特に、正成始め吉野の忠臣の事績を明らかにしようと、つとめました。その國史は、光圀一代の間に、主な部分はできましたが、何ぶんにも、大がかりな計畫なので、その後、子孫代々、これを受けつぎ、二百五十年といふ長い年月を經て、明治三十九年に、やつと完成しました。これが、名高い大日本史であ