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みでありました。九州から歸る途中、對馬の宋氏に命じて、朝鮮に朝賀の使節をよこすやう交涉させたのも、そのためであります。
國内がしづまると、秀吉は、いよいよ朝鮮を仲だちとして、明との交涉を始めようとしました。また天正十九年には、フィリピンやインドに書を送つて、入貢をすすめました。ところが朝鮮は、明の威勢をはばかつて、わが申し入れに應じません。そこで秀吉は、關白を退いて太閤となり、まづ朝鮮に出兵し、進んで明を討たうと考へました。沿海の諸國に軍船を造らせ、水夫を集め、肥前の名護屋に本陣を構へるなど、用意もすつかり整ひました。
文祿元年、宇喜多秀家が總大將となり、小西行長・加藤淸正らが先手となつて、總勢十五萬餘の大軍が、名護屋を出發しました。幾千とも數知れぬ軍船に、それぞれ家紋のついた幕を張りめぐらし、思