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聚樂第に移しました。この邸もまた、秀吉の氣性さながらに、豪華をきはめたものでありました。
天正十六年、都の花も咲きそろつたころ、秀吉は、聚樂第に後陽成天皇の行幸を仰ぎました。この時秀吉は、文武百官とともに御供を申しあげ、國民もまた、御盛儀を拜觀しようと國々から集り、御道筋は、民草で埋まるばかりでありました。しかも人々は、かがやかしい御代のしるしを、まのあたりに拜し、あまりのうれしさに、夢ではないかとさへ思ひました。戰亂の世をふりかへつて淚ぐむ老人もあれば、御代の萬歳を祈る若者もゐました。天皇は御きげんうるはしく、ここに五日間おとどまりになりました。秀吉はつつしんで御料を奉り、また公家にも領地を分ち、更に武將たちに命じて、いつまでも眞心こめて天皇にお仕へ申しあげるやう、誓はせま