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城にして、西に東に軍を進め、四國の長宗我部元親、越中の佐々成政を降し、德川家康・上杉景勝をみかたにつけて、海内平定の業も、あますところは、東國と九州ばかりになりました。しかも、この間に、石田三成らの人材を選んで、政治の立て直しにも着手させました。

朝廷では、秀吉の功をおほめになり、正親町天皇は、藤原氏のほかに例のない關白の職を仰せつけられ、ついで第百七代後陽成天皇は、太政大臣をお命じになり、豐臣の姓までたまはつたのであります。まことに、武人として最上の面目でありました。

天正十五年、秀吉は威風堂々、軍を九州へ進めました。みちみち、瀨戸内海の風景をめでるほどの餘裕を示し、たちまち島津氏を從へました。しかも、九州のやうすを調べて、天主敎を禁止するなど、政治のことにも、心を配りました。歸るとまもなく、住居を京都の