は、尼子經久・大内義興・毛利元就、四國には長宗我部元親、九州には島津義久などが現れ、やがて奧羽からは、伊達政宗が出ます。これらの英雄は、いづれも、まづ隣どうしの敵との間に、親子代々、血みどろの戰を續けました。
しかしわが國は、現御神であらせられる天皇のお治めになつてゐる、尊い國であります。世の中の移り變りが、そんなにはげしからうと、國の基は、少しもゆらぎません。京都は、應仁の亂ですつかりさびれ、公家も、一時はちりぢりになりましたし、おとろへた幕府は、もう皇室の御費用をたてまつる力さへありません。日常の御不自由は、申すもおそれ多いほどで、まして大切な御儀式などは、容易にお擧げになることのできない御有樣でありました。しかし、かうした中に、かたじけなくも御代御代の天皇は、戰亂・不作・病氣などに苦しむ民草に、深い深い御惠みをたまはつたのであります。
さきに後花園天皇は、民の苦しみをお察しになつて、義政のおごりをおいましめになりましたが、後土御門天皇・〈第百四代〉後柏原天皇も、戰亂の世を御心配になり、ひたすら、萬民の生活に御惠みの心をお注ぎになりました。後奈良天皇がお立ちになつたころは、とりわけ御不自由のはなはだしい時でありました。しかも天皇は、これ