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三 國民こくみんのめざめ

足利義政が、荒波とたたかふ八幡船などには目もくれず、銀閣を建てたり茶の湯を樂しんでゐたのは、ちやうどヨーロッパ人が、東亞の航路を探つてゐたころのことでした。幕府の命令は、もう山城やましろ一國におよぶか及ばない有樣で、地方では、武將が、自分の領地をひろげるため、力にまかせて攻め合ひを始めました。まつたく、強いもの勝ちの世の中になつて、人々の苦しみは、增すばかりでした。義政の次に將軍に任じられた義尚よしひさは、武將のわがままをおさへようと、いろいろ工夫しましたが、もう何としても、ききめがありませんでした。

應仁の亂は2127から2137まで
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應仁の亂は2127から2137まで

戰亂の渦卷うづまきは、まづ關東に起りました。やがて、それがうしほのやうな勢で全國へひろがり、國々は、大波にのまれさうになりました。この大波にもまれて、幾人いくにんもの英雄えいゆうが、次々に現れたのです。關東では、北條早雲ほうでうさううんが、後土御門天皇の御代に、早くも伊豆いづりやくしました。その後、北條氏は、子の氏綱うぢつな、孫の氏康うぢやすと、三代・五十年の間に勢を得て、後奈良天皇の天文年間、つひに關東一たいを平定へいていしました。これと前後して、中部には、上杉謙信うへすぎけんしん武田信玄たけだしんげん今川義元いまがはよしもと織田信長おだのぶなが、中國に