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南蠻人
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南蠻人

〈第百五代〉後奈良ごなら天皇の天文てんぶん十二年、ポルトガルの一商船が、種子島たねがしまへ着きました。これが、ヨーロッパ人のわが國へ來た初めで、今から約四百年前のことです。少しおくれて、イスパニヤ人も來ました。ところが日本は、決してゆめのやうな「黃金の國」ではなく、天皇を神と仰ぎ、武勇にすぐれて禮儀正しく、しかも學問も進み、その上風景ふうけいの美しい國でした。ヨーロッパ人も、これにはすつかりおどろいたといひます。さいはひ、兩國とも貿易を許されたので、薩摩坊津さつまばうのつ肥前ひぜん平戸ひらどで、めづらしい品物の取引きをしました。わが國では、これらのヨーロッパ人を南蠻人、その商船を南蠻船と呼ぶやうになりました。

わが國民も、種子島でポルトガル人がしめした鐵砲には、ちよつとおどろきました。さつそくこれを買ひ取つて、その作り方を硏究けんきうしました。やがて、わが國でも、りつぱな鐵砲が作れるやうになり、そのため、戰法や築城法がよほど變つて來ました。またキリスト教も傳はり、天主教てんしゆけうと呼ばれて、盛んに各地へひろまりました。

しかし殘念なのは、勇ましい八幡船の活躍が、幕府にうとまれて、この南蠻船との競爭を、思ふやうに續けることができなかつたことであります。