歡び迎へて、日本の産物をもてはやしました。月影の明かるい椰子の木かげで、めづらしい歌を聞かせてもくれれば、もつと盛んに貿易に來るやう、すすめるものもありました。かうして、日本刀や扇・硫黃などを積んで行つた船は、藥や染料・香料などを積みこんで、意氣揚々と歸りました。
ところが、この平和な南洋へ、やがてヨーロッパ人が押し寄せて來るやうになつたのです。さきに元が、亞歐にまたがる大國を建設したので、アジヤとヨーロッパとの陸上交通は、大いに開けました。しぜん、アジヤの國々のやうすが、ヨーロッパに知れました。中でもわが國は、特に「黃金の國」として傳へられ、ヨーロッパ人の欲望をそそりました。ところが、いつたん開けた交通路も、その後、中間にトルコといふ國が興り、それにさまたげられて、通ることができなくなりました。應仁の亂が起る少し前のことです。
そこでヨーロッパ人は、新たに海路によつて、日本へ來る工夫をしました。そのため、もつぱら造船や航海術の發達をはかりました。中でもポルトガル・イスパニヤの二國が、いちばんこれに力を注ぎました。やがて、イスパニヤ人は、西まはりを試みて、アメリカ大陸に達し、ポルトガル人は、東まはりを選んで、インドへ着きました。ともに、後土御門天皇の明應年間のことであります。
ヨーロッパ人は、これに勢づいて、いよいよ東亞へ押しかけて來ました。ポルトガル人は、さらに東へ手をのばして、南支那にも根城を作り、インドや支那と盛んに貿易を行ひ、イスパニヤ人も、やがてフィリピン群島を占領し、南洋の島々と取引きを始めました。