取りしまりぐらゐで、國民の海外發展心がくじけるわけはありません。やがて幕府がおとろへると、發展の氣勢は、ふたたびもえさかりました。ことに、應仁の亂後の活躍は、今までにないほどめざましいものでした。船には、八幡大菩薩と書いた大のぼりを押し立て、東亞の海を、ところせましと乘りまはしました。朝鮮・支那はもちろんのこと、八重の潮路を乘り切つて、はるか南洋までも進出しました。風向きを利用して、たくみに船をあやつり、上陸すれば、その動作は疾風のやうで、進むにも退くにも、よく訓練が行きとどいてゐました。地理や氣象をくはしく調べ、衞生を重んじて、特に飮み水には心を配つたといひます。
明では「それ八幡船よ倭寇よ」といつて、これを恐れました。しかし、八幡船の人たちも、貿易の望みさへかなへば、あへて武力を用ひるのではありません。かへつて、明の商人や海賊が、みづから倭寇と稱して、人々をおびやかす場合が多かつたのです。
南方へ出向いた九州や沖繩の商人と、土地の住民との取引きは、きはめておだやかに行はれました。南方の人々は、ゆたかな産物にめぐまれて、樂しくくらしてゐました。かれらは、勇敢でまじめなわが國民を