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らで、正成や義貞さへはるかに及ばないほど恩賞おんしやうをたまはりながら、今、朝廷にそむきたてまつつて、國をみださうとするのですから、まつたく無道とも何とも、いひやうがありません。

   ┌新田義重
源義國┤
   └足利義康よしやす‥‥貞氏さだうぢ┬尊氏┬義詮よしあきら─義滿
            └直義ただよし基氏もとうぢ─□─滿兼

建武二年十月、尊氏は、東國がみだれたのをよい機會として、勝手に兵を鎌倉へ進め、そのまま反旗をひるがへしました。朝廷では、ただちに義貞をおつかはしになりましたが、義貞の軍はやぶれ、尊氏らは、延元えんげん元年、勝ちに乘じて、京都へ攻めのぼりました。急を聞いて北畠顯家あきいへは、義良のりなが親王を奉じて、奧羽あううからかけつけました。そこで、顯家・義貞・正成・長年らの官軍は、力を合はせて、賊軍をさんざん擊ち破り、尊氏らは、命からがら西へ逃げのびました。九州では、菊池武時の子武敏たけとしが、多多良濱たたらはまで、これと激戰をまじへ、惜しくもやぶれました。

                       ┌顯家
村上天皇─具平ともひら親王─源師房もろふさ‥‥北畠雅家まさいへ‥‥親房┼顯信─守親もりちか
                       └顯能あきよし

賊軍は、勢をもりかへし、陸と海の二手に分れて、ふたたび都へ攻めのぼつて來ました。朝廷では、義貞をおつかはしになり、さらに、正成にも出陣をお命じになりました。正成は、宮居の松にしばし名ごりを惜しみ、決死の覺悟も勇ましく、兵庫へ向かひました。途中、青葉に暮れる櫻井さくらゐの驛で、子の正行まさつらをそば近く呼びよせ、

「今度の合戰は、天下分け目の戰である。父討死ののちは、母の教へをよく守り、やがて大きくなつたら、父のこころざしをついで忠義