ました。正成は、笠置のことを思ひ起すにつけても、うれし淚がこみあげました。まもなく、義貞から鎌倉平定の知らせがあつて、官軍の心は、いやが上にも勇みたちました。やがて天皇は、正成を前驅として、めでたく京都へお歸りになりました。時に紀元一千九百九十三年、元弘三年六月であります。
かうして、御親政のかがやかしい御代に立ちかへりました。天皇は、京都と地方の役所や役目を、新たにお定めになり、このたびのてがらと家がらとにもとづき、人物を選んで、それぞれ役人にお用ひになりました。公家も武士も、ひとしく朝臣として、大政をおたすけ申しあげることになりました。足利尊氏のやうに、途中から官軍に降つたものでさへ、重い役目に任じられました。何といふありがたい思し召しでありませう。元弘四年正月、天皇は、年號を建武とお改めになりました。幕府が倒れて、御親政の古にかへつた建武のまつりごと、このかがやかしい大御業を、世に建武の中興と申しあげます。
二 大義の光
建武のまつりごとが始って、二年しかたたないうちに、大變なことが起りました。足利尊氏が、よくない武士をみかたにつけて、朝廷にそむきたてまつつたのです。尊氏は、かねがね、征夷大將軍になつて天下の武士に命令したいと、望んでゐました。北條氏をうら切つて、朝廷に降つたのは、さうした下心があつたからです。なんといふ不とどきな心がけでせう。しかも、六波羅を落したてが