返し、あるひは攝津渡邊の戰で、賊の精兵を擊ち破るなど、その活動は、めまぐるしいほどでありました。やがて、金剛山の千早に城を築いて、賊の大軍をなやまし續けました。吉野山の要害には、護良親王がおいでになつて、勤皇の兵をお集めになりました。金剛山と吉野山と、この二つが手をつないで、賊軍をまごつかせました。
高時はあせつて、さらに鎌倉や六波羅の大兵をくり出しました。そのため、吉野のとりでは、惜しくも落ちました。藏王堂の別れの宴も、村上義光の壯烈な最期も、ともにこの時のことであります。殘る一つの千早城は、雲霞のやうな賊軍をしり目にかけて、びくともしません。正成のはかりごとは、いよいよさえて、賊の損害は增すばかりです。この間に、親王の御命令を受けて、勤皇の旗を擧げるものが、しだいに多くなりました。
天皇が、隱岐におうつりになつてから、もうそろそろ一年になります。波風の荒い小島の冬は、どんなにきびしかつたでせう。おしのび申しあげると、胸のふさがる思ひがします。
天皇は、官軍の形勢がしだいによくなつたことをお聞きになると、機を見て伯耆へお渡りになり、名和長年をお召しになりました。長年は感激して、ただちに一族のものをよび集め、船上山に行宮を