第六 吉野山
一 建武のまつりごと
「勝つてかぶとの緖をしめよ」といひますが、北條氏は、時宗の死後、執權に人物なく、やがてその氣持も、すつかりゆるみました。武士もまた、元寇の時のきんちやうを失つて、地方の政治がみだれて來ました。弘安の役後三十年餘りたつて、北條高時が執權になると、そのわがままは、ひどいものになりました。ぜいたくな生活をし、每日遊びにばかりふけつてゐました。かうした時に、〈第九十六代〉後醍醐天皇がお立ちになつたのであります。
天皇は、かねがね醍醐天皇・後三條天皇・後鳥羽天皇の御遺業をおしたひになり、御親政の御代にかへさうとお考へになりました。まづ不作の時など、米の價が高くならないやう御工夫になりおそれ多くも供御を節して、民草の苦しみをおすくひになりました。また、日野資朝・同俊基のやうな、りつぱな人物は、身分が低くとも、重くお用ひになりました。
ところで、高時のわがままは、いよいよ目にあまるやうになりました。そこで天皇は、正中元年、皇子護良親王を始め、北畠親房・資朝・俊基らをお召しになつて、幕府を取りつぶすことを御決心になりました。資朝と俊基は、命を奉じてひそかに諸國をめぐり、勤皇の兵を求めました。しかし、せつかくの御くはだても、準備の整はないうちに幕府にもれ、そののち、元弘元年に、再擧をおはかりになつ