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な殺しにしました。敵艦全滅ぜんめつの報は、ただちに太宰府だざいふから京都へ鎌倉へと傳へられ、戰勝の喜びは、波紋のやうに、國々へひろがりました。世に、これを弘安の役といひ、文永の役と合はせて、元寇げんこうと呼んでゐます。

元は、さらに、第三回の出兵をくはだてましたが、すでにわが國威におぢけもついてゐましたし、それに思はぬ内わもめが起つて、とうとうあきらめてしまひました。わが國では、弘安の役後、十五年ばかりの間、なほ萬一に備へて、警戒けいかいをゆるめませんでした。

思へば元寇は、國初以來最大の國難であり、前後三十餘年にわたる長期の戰でありました。かうした大難を、よく乘り越えることのできたのは、ひとへに、神國のしからしめたところであります。時宗の勇氣は、よくその思いつとめにたへ、武士の勇武は、みごとに大敵をくじき、民草たみくさもまた分に應じて、國のために働きました。まつたく國中が一體となつて、この國難に當り、これに打ちかつたのですが、それといふのも、すべて御稜威みいつにほかならないのであり、神のまもりも、かうした上下一體の國がらなればこそ、くしくも現れるのであります。

神のまもりをまのあたりに拜して、國民は、今さらのやうに、國がらの尊さを深く心に刻みつけました。また、世界最強の國を擊ち退けて、國民の意氣は急に高まり、海外へのびようとする心も、しだいに盛んになつて行きました。

今、福岡のひがし公園をたづねて、龜山上皇の御尊像ごそんざうを仰ぎ、はるかに玄界灘げんかいなだを見渡しますと、六百五十年の昔のことも、今の世のことかと思はれて、深い深い感動に打たれるのであります。