せん。するとあくる年、またまた蒙古の使ひが來ました。朝廷では、わが國が神國であること、武力や作戰によつて擊ち破ることのできないことを、蒙古におさとしにならうとしました。ちやうどそこのろ、鎌倉では、北條時宗が執權となり、わづか十八歳ではありましたが、大膽で勇氣に滿ちた英雄でありました。時宗は朝廷に奏上して、蒙古の使ひを追ひ返し、西國の武士に命じて、備へを固めさせました。朝廷では、神官や諸社にこの大難をおつげになり、神々のおまもりをお祈りになりました。その後も、蒙古は、使ひをよこして、わが國のやうすをひそかに探つてゐました。
蒙古は、いよいよ出兵を決心したものと見え、文永八年、最後の使ひをわが國によこすとともに、國の名を元と改め、兵を高麗に移し始めました。さうして、この使ひもまた追ひ返されると、すぐに、高麗に造船の命令をくだしました。
文永十一年(紀元一千九百三十四年)、〈第九十一代〉後宇多天皇が御位におつきになると、その年の十月、果して、元・高麗の兵約二萬五千は、九百隻の艦船をつらね、朝鮮の南端から攻め寄せて來ました。
敵は世界最強をほこる元であり、從つてわが國としては、かつてためしのない大きな國難であります。思へば鎌倉武士が、日夜ねりきたへた手なみを、御國のためにあらはす時が來たのです。敵はまづ對馬をおそひました。宗助國が、わづかの兵でこれを防ぎ、