この役所は、のちに鎌倉幕府と呼ばれるやうになりました。
賴朝は、平家が武士の本分をわきまへず、おごりにふけつて、もろくもほろびたのをよい戒めとして、もつぱら質素儉約を實行し、部下にもそれを守らせました。また、つねに朝廷を尊び、神を敬ひ、佛をあがめ、武をねることをすすめ、特に剛健な氣風を養つて、いざといふ場合に備へさせました。武士たちは、遊びのうちにも、流鏑馬とか、笠懸とか、犬追物・狩・相撲などきそつて、からだをきたへ武藝をねることを、第一とするやうになりました。武士のかうした氣風は、しだいに國中にひろまり、人々の心は、いつぱんにひきしまつて來ました。さうして、鎌倉武士の名は「いざ鎌倉」のことばとともに、ながく後世に傳へられました。
狩といへば、賴朝が征夷大將軍に任じられたあくる年、富士の裾野で催した卷狩は、全國の武士を集めたほど、盛んなものでした。富士川の對陣以來、早くも十二三