景色を背景にして、次から次へと、くりひろげられることになりました。平家が賴みにしてゐた一谷の要害が、鵯越からなだれうつ義經の不意討ちで、つひに落ちました。十六歳の若武者、平敦盛のけなげな最期を見とどけるいとまもなく、平家の軍は先を爭つて、屋島へのがれました。しかし、屋島の城も、嵐をつく義經の追擊に、もろくもおちいりました。那須與一の弓のほまれをたたへながら、源氏の軍船は、西へ西へと、平家を追ひつめました。平家のめざす九州は、すでに範賴がおさへてゐます。つひに平家は、壇浦の決戰もむなしく、一族ほとんど、海底のもくづと消えてしまひました。「おごる平家は久しからず」といはれたやうに、清盛が太政大臣になつてから、わづか二十年たたないうちに、早くも平家は、かうした末路にたどりついたのです。
範賴・義經が、義仲を討ち平家を攻めてゐる間、賴朝は、鎌倉にふみとどまつて、國内をしづめることを、じつと考へてゐました。そこで、平家がほろびると、賴朝は、さつそく朝廷の御許しをいただき、京都や國々へ家來をやつて、御所のまもりや地方の取りしまりに當らせました。勝ちほこつた義經のふるまひにも、疑ひをいだくやうになり、これを除くことに決心しました。義經は、すごすごと奧羽へのがれて藤原氏にたより、やがて悲壯な最期をとげました。賴朝は、藤原氏が義經をかくまつた罪を責め、とうとう藤原氏をも討ちほろぼして、奧羽を平定しました。
〈第八十二代〉後鳥羽天皇は、亂後の地方をひきしめる思し召しで、建久三年(紀元一千八百五十二年)、賴朝を征夷大將軍にお任じになりました。そこで賴朝は、鎌倉の役所を整へ、ますます政治にはげみました。