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第五 鎌倉武士かまくらぶし

一 源氏げんじ平家へいけ

藤原ふぢはら氏がおとろへると、代つて武士の勢がさかんになつて來ました。武士は、身分が低くても、まじめて勇氣もあり、よいと思つたことは、かならず實行する力を持つてゐました。朝廷では、地方にらんが起ると、武士にこれをおしづめさせになり、そのてがらが重なるにつれて、しだいに重くおもちひになりました。かうして、まづ名をあらはした武士は、東國の源氏です。

東國といへば、防人さきもりなどを出して、古くから、武勇にすぐれた土地でした。また、ひろびろとした野原や、良馬りやうばを產する牧場ぼくじやうが多いため、武士が武藝ぶげいをねるのに、きはめて都合のよいところでした。それに、京都から遠いので、都の華やかな風にそまることも少く、剛健がうけん氣風きふうが滿ちてゐました。かうした土地にそだつた、勇敢ゆうかんな武士のかしらとして、源氏の家名をあげるもとゐを作つたのは、源義家みなもとのよしいへであります。

                ┌賴光よりみつ…………………………賴政
清和天皇─貞純さだすみ親王─源經基つねもと滿仲みつなか賴信よりのぶ─賴義┬義家┬義親よしちか─爲義┬義朝
                      └義光よしみつ義國よしくに   └爲朝

義家は、前九年のえきに、十七歳の若さで、父賴義よりよしに從つて出征し、早くも、數々のてがらを立てました。きびしい寒さと大雪、それに兵糧ひやうらうの不足になやまされて、つひに敵の重圍ぢゆうゐにおちいり、父の身も危