れからまつたく、しづまるやうになりました。
一方、朝廷では、蝦夷に對して、田地を授け、農業や養蠶の方法を教へ、地方の役人にとりたてるなど、いろいろこれをお惠みになりました。また關東地方や中部地方の人々で、奧羽に移り住み、蝦夷をみちびいて、山林や荒地を切り開いたものも、少くありません。蝦夷もまた、皇威をしたつて、少しでも都に近く住まうとするものが、しだいにふえて來ました。かうして蝦夷は、だんだんりつぱな國民となり、中には防人として忠義をつくす勇士さへ、出るやうになりました。
天皇はまた、新しい佛教を興して、世の中に役だつやうにしたいとお考へになりました。そこで、最澄と空海とをお選びになり、唐へ渡つて佛教を硏究して來るやう、お命じになりました。どこまでも國のためになる、新しい佛教を興さうといふ意氣にもえて、二人は、熱心に唐で勉強しました。最澄は、歸朝すると、比叡山の延曆寺を都のまもりとし、天台宗を開いて、多くの弟子たちに勉強させました。空海もまた、高野山に金剛峰寺を建てて、眞言宗をひろめ、京都に學校を開いて、身分の低いものでも勉強のできるやうにしました。かうして、二人とも、寺を奧ぶかい山の上に建て、弟子たちと一しよに修業にはげみましたので、佛教は面目を一新することになりました。
最澄・空海は、また國々をまはつて、地方の開發に力をつくしました。空海が讃岐の國に造つた萬農池は、今にいたるまで、その