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日本は、神のおまもりになる國であります。蘇我氏の無道なふるまひを見て、ふるひたたれたのが、舒明天皇の御子、中大兄皇子なかのおほえのわうじで、それをおたすけ申した人々のうち、最も名高いのが中臣鎌足なかとみのかまたりであります。皇子は、まづ蘇我氏を除くため、鎌足始め同志どうしの人々と、いろいろ工夫をおこらしになりました。蘇我氏も、ない々それと知つたか、邸に引きこもつて、めつたにすきを見せません。ちやうどそのころ、朝鮮からみつぎ物をたてまつる式がおこなはれ、入鹿も、それに參列することになりました。この機會に乘じて、皇子は鎌足らと、首尾しゆびよく入鹿をお除きになりました。これを聞いた蝦夷は、急いで兵を集めましたが、皇子が使ひをやつて、ねんごろに不心得をおさとしになりましたので、不忠と知つた兵は、ちりぢりに逃げ去り、蝦夷は、邸に火を放つて自殺じさつしました。夏草のやうにはびこつた無道の蘇我氏は、かうして、つひにほろびました。大和の國原にたちこめた黑雲も、すつかり晴れて、飛鳥の都には、さわやかに天日てんじつがかがやきました。

蘇我氏を除くことは、聖德太子のお考へになつたやうに、政治を根本から立て直して、日本をりつぱな國にするための準備じゆんびでありました。やがて〈第三十六代〉孝德かうとく天皇がお立ちになつて、中大兄皇子を皇太子とし、鎌足始め功のあつた人々を重くお用ひになつて、わるい習はしをいつさい取り除き、新しい政治をお始めになりました。時に紀元一千三百五年で、聖德太子がおなくなりになつてから、二十數年のちのことであります。

まづ、多くの役人をひきゐて、神々をおまつりになり、始めて大化といふ年號ねんがうをお建てになりました。都は、やがて難波にうつりま