と、次のやうにお書きになりました。
日出づる處の天子、書を日沒する處の天子にいたす、つつがなきや。
隋の國王は、眞赤になつて怒つたさうですが、しかし、わが國のこの意氣に押されたのか、それとも、わが國のやうすを探らうとしたのか、答禮の使節をよこしました。太子がこれを堂々とお迎へになつたことは、申すまでもありません。飛鳥の都から難波の港へ通じる大道をお造りになつたのも、隋の使節をあつといはせるためでありました。このころ、東亞の國々で、これほど威光を示した國は、日本だけであります。太子は、その後も、使節につけて學生や僧をおつかはしになり、支那のいろいろのことについて、硏究させるやうになさいました。
かうして、わが國の政治も、よほど改つて來ましたので、太子は、最後に、國史の本をお作りになりました。國がらを後世に傳へ、外國にも知らせようと、お考へになつたからでありませう。まもなく太子は、まだ四十九歳といふ御年で、おなくなりになりました。國民はみな、親を失つたやうに、なげき悲しみました。
今、奈良の西南斑鳩の里に、法隆寺の堂塔が、なだらかな山々を背