〈第十五代〉應神天皇は、これらの人々を用ひて、學問や産業をお進めになりました。天皇が特に御心をお注ぎになつたのは農業で、池や溝をお造らせになり、水田をふやして、米が多く取れるやうになさいました。また、使ひを支那へやつて、裁縫や機織にすぐれた職人を、お召しになつたこともあります。かうして、だんだん交通が開けると、朝鮮半島は、わが國から大陸へ渡る橋の役目をすることになりました。ついで〈第十六代〉仁德天皇は、都を難波におうつしになりましたが、それも、半島との交通の便をお考へになつてのことであります。
仁德天皇は、深く民草をおいつくしみになりました。不作の年が續いたころのことです。ある日、高殿にのぼつて、遠く村里のやうすをごらんになりますと、民家から煙一すぢ立ちのぼらない有樣です。天皇は、民草の苦しみのほどを深くお察しになつて、三年の間、税ををさめなくてもよいことになさいました。ために、おそれ多くも、御生活はきはめて御不自由となり、宮居の垣はこはれ、御殿もかたむいて、戸のすきまから雨風が吹きこむほどになつて行きましたが、天皇は、少しもおいとひになりませんでした。かうして三年ののち、ふたたび高殿からごらんになると、今度は、かまどの