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ばかりが集つては居るのだけれど、それにしても西村組の敗北のしかたは余りに意気地がなさ過ぎる。殊に彼等は、誰よりも沼倉一人を甚しく恐れて居るらしい。外の敵に対しては、衆をたのんで可なり勇敢に抵抗するのだが、一と度び沼倉が馬を進めて駈けて来るや否や、彼等は急に浮足立つて、ろく戦ひもせずに逃げ出してしまふ。果ては大将の西村までが、沼倉に睨まれると一と縮みに縮み上つて、降参した上に生け捕りにされたりする。その癖沼倉は腕力を用ふるのでも何でもなく、たゞ縦横に敵陣を突破して、馬上から号令をかけ怒罵をあびせるだけなのである。

「よし、さあもう一遍戦をしよう。今度は己の方は七人でいゝや。七人ありや沢山だ」

こんな事を云つて、沼倉は味方の内から三人の勇士を敵に与へて、再び合戦を試みたが、相変らず西村組は散々に敗北する。三度目には七人を五人にまで減らした。それでも沼倉組は盛んに悪戦苦闘して、結局勝を制してしまつた。

その日から貝島は、沼倉と云ふ少年に特別の注意を払ふやうになつた。けれども教場に居る時は別段普通の少年と変りがない。読本を読ませて見ても、算術をやらせて見ても、常に相当の出来栄えである。宿題なども怠けずに答案を拵へて来る。さうして始終黙々と机につて、不機嫌さうに眉をしかめて居るばかりなので、貝島にはちよつと此の少年の性格を端倪たんげいすることが出来なかつた。兎に角教師を馬鹿にしたり、悪戯いたずらを煽動したり、級中の風儀を紊したりするやうな、悪性の腕白者ではないらしく、同じ餓鬼大将にしても余程毛色の違つた餓鬼大将であるらしかつた。

或る日の朝、修身の授業時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあつた。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかけるのであるが、修身の時間に限つて特別に厳格にすると云ふ風であつた。おまけにその時は、午前の第一時間でもあり、うらゝかな朝の日光が教室の窓ガラスからさし込んで、部屋の空気がしーんと澄み渡つて居るせゐか、生徒の気分も爽やかに引き締まつて居るやうであつた。

「今日は二宮尊徳先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません」

かう貝島が云ひ渡して、厳かな調子で語り始めた時、生徒たちは水を打つたやうに静かにして、じつと耳をそばだてゝ居た。隣りの席へ無駄話をしかけては、よく貝島に叱られるおしやべりの西村までが、今日は利口さうな目をパチクリやらせて、一心に先生の顔を仰ぎ視て居た。暫くの間は、諄々と説きだす貝島の話声ばかりが、窓の向うの桑畑の方にまでも朗かに聞えて、五十人の少年が行儀よく並んで居る室内には、カタリとの物音も響かなかつた。

「―――そこで二宮先生は何と云はれたか、どうすれば一旦傾きかけた服部の家運を挽回することが出来ると云はれたか、先生が服部の一族に向つて申し渡された訓戒と云ふのは、つまり節倹の二字でありました。―――」

貝島も不断よりは力の籠つた弁舌で、流暢に語り続けて居ると、その時までひつそりとして居た教場の隅の方で、誰かゞひそと無駄話をして居るのが、微かに貝島の耳にさわつた。貝島はちよいと厭な顔をした。折角みんなが気を揃へて静粛を保つて居るのに、―――全く、今日は珍しい程生徒の気分が緊張して居る様子だのに、誰が余計なおしやべりをして居るのだらう。さう思つて、貝島はわざと大きな咳払ひをして、声のする方をチラリと睨みつけながら、再び講話を進めて行つた。が、ほんの一二分間沈黙したかと思ふと、又しても話声はこそと聞えて来る。それがちやうど、歯の痛みか何かのやうに、チクチクと貝島の神経を苛立たせるので、彼は内々癇癪を起しながら、話声が聞える度びに急いで其の方を振り向くと、途端にパツタリと止んでしまつて、誰がしやべつて居るのだかは容易に分らなかつた。けれども其