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彼が教職に就いたD小学校は、M市の北の町はづれにあつて、運動場の後ろの方には例の桑畑が波打つて居た。彼は日々、教室の窓から晴れやかな田園の景色を望み、遠く、紫色に霞んで居るA山の山の襞に見惚れながら、伸びとした心持で生徒たちを教へて居た。赴任した年に受け持つたのが男子部の尋常三年級で、それが四年級になり、五年級に進むまで、足かけ三年の間、彼はずつと其の級を担当して居た。麹町区のF小学校に見るやうな、キチンとした身なりの上品な子供は居なかつたけれど、さすがに県庁のある都会だけに、満更の片田舎とは違つて、相当に物持ちの子弟も居れば頭脳の優れた少年もないではなかつた。中には又、東京の生徒に輪をかけて狡猾な、始末に負へない腕白なものも交つて居た。

土地の機業家でG銀行の重役をして居る鈴木某の息子と、S水力電気株式会社の社長の中村某の息子と、此の二人が級中での秀才で、貝島が受け持つて居る三年間に、首席はいつも二人の内の孰れかゞ占めて居た。腕白な方ではK町のぐすりの忰の西村と云ふのが隊長であつた。それからT町に住んで居る医者の息子の有田と云ふのが、弱虫でお坊ちやんで、両親に甘やかされて居るせゐか、服装なども一番贅沢なやうであつた。しかし性来子供が好きで、二十年近くも彼等の面倒を見て来た貝島は、いろの性癖を持つた少年の一人々々に興味を覚えて、誰彼の区別なく、平等に親切に世話を焼いた。場合に依れば随分厳しい体罰を与へたり、大声で叱り飛ばしたりする事もあつたが、長い間の経験で児童の心理を呑み込んで居る為めに、生徒たちにも、教員仲間や父兄の方面にも、彼の評判は悪くはなかつた。正直で篤実で、老練な先生だと云ふ事になつて居た。

貝島がM市へ来てからちやうど二年目の春の話である。D小学校の四月の学期の変りめから、彼の受け持つて居る尋常五年級へ、新しく入学した一人の生徒があつた。顔の四角な、色の黒い、恐ろしく大きな巾着頭のところに白雲の出来て居る、憂鬱な眼つきをした、づんぐりと肩の円い太つた少年で、名前を沼倉庄吉と云つた。何でも近頃M市の一廓に建てられた製糸工場へ、東京から流れ込んで来たらしい職工の忰で、裕福な家の子でない事は、卑しい顔だちや垢じみた服装に拠つても明かであつた。貝島は始めて其の子を引見した時に、此れはきつと成績のよくない、風儀の悪い子供だらうと、直覚的に感じたが、教場へつれて来て試して見ると、それ程学力も劣等ではないらしく、性質も思ひの外温順で、むしろ無口なむつゝりとした落ち着いた少年であつた。

すると、或る日のことである。昼の休みに運動場をぶらつきながら、生徒たちの余念もなく遊んで居る様子を眺めて居た貝島は、―――此れは貝島の癖であつて、子供の性能や品行などを観察するには、教場よりも運動場に於ける彼等の言動に注意すべきであると云ふのが、平素の彼の持論であつた。―――今しも彼の受持ちの生徒等が、二た組に分れて戦争ごつこをして居るのを発見した。其れだけならば別に不思議でも何でもないが、その二た組の分れ方がいかにも奇妙なのである。全級で五十人ばかりの子供があるのに、甲の組は四十人ほどの人数から成り立ち、乙の組には僅かに十人ばかりしか附いてゐない。さうして甲組の大将は例の生薬屋の忰の西村であつて、二人の子供を馬にさせて、其の上へ跨りながら、頻りに味方の軍勢を指揮して居る。乙の組の大将はと見ると、意外にも新入生の沼倉庄吉である。此れも同じく馬に跨つて、平生の無口に似合はず、眼をいからし声を励まして小勢の部下を叱咤しながら、自ら陣頭に立つて目にあまる敵の大軍の中へ突進して行く。全体沼倉は入学してからまだ十日にもならないのにいつの間にこれほどの勢力を振ふやうになつたのだらう。貝島は其の時ふいと好奇心を唆られたので、両頰に無邪気な子供らしい微笑を浮べながら、さも面白さに釣り込まれたやうな顔つきをして、尚も熱心に合戦の模様を見守つて居た。と、多勢の西村組は忽ちのうちに沼倉組の小勢の為めに追ひ捲くられて、滅茶々々に隊伍を搔き乱された揚句、右往左往に逃げ惑つて居る。尤も沼倉組の方には、腕力の強い一騎当千の少年