Page:TanizakiJun'ichirō-A Small Kingdom-Chūōkōron-2015.djvu/6

提供:Wikisource
このページは検証済みです

たまらなかつた。その時まで学問に夢中になつて、女の事なぞ振り向きもしなかつた彼は、新世帯の嬉しさがしみと感ぜられて来るに従ひ、多くの平凡人と同じやうに知らず識らず小成に安んずるやうになつた。そのうちには子供が生れる、月給も少しは殖えて来る、と云ふやうな訳で、彼はいつしか立身出世の志を全く失つたのである。

総領の娘が生れたのは、彼がC小学校から下谷区のH小学校へ転じた折で、その時の月給は二十円であつた。それから日本橋区のS小学校、赤坂区のT小学校と市内の各所へ転勤して教鞭を執つて居た十五年の間に、彼の地位も追ひに高まつて、月俸四十五円の訓導と云ふところまで漕ぎつけた。が、彼の収入よりも、彼の一家の生活費の方が遥かに急激な速力を以て増加する為めに、年々彼の貧窮の度合は甚しくなる一方であつた。総領の娘が生れた翌々年に今度は長男の子が生れる。次から次へと都合六人の男や女の子が生れて、教師になつてから十七年目に、一家を挙げてG県へ引き移る時分には、恰も七人目の赤ん坊が細君の腹の中にあつた。

東京に生ひ立つて、半生を東京に過して来た彼が、突然G県へ引き移つたのは、大都会の生活難の圧迫に堪へ切れなくなつたからである。東京で彼が最後に勤めて居た所は、麹町区のF小学校であつた。其処は宮城の西の方の、華族の邸や高位高官の住宅の多い山の手の一廓にあつて、彼が教へて居る生徒たちは、大概中流以上に育つた上品な子供ばかりであつた。その子供たちの間に交つて、同じ小学校に通つて居る自分の娘や息子たちの、見すぼらしい、哀れな姿を見るのが彼には可なり辛かつた。自分たち夫婦はどんなに尾羽打ち枯らしても、せめて子供には小ざつぱりとしたなりをさせてやりたかつた。何処其処のお嬢さんが着て居るやうな洋服が買つて欲しい。あのリボンが欲しい。あの靴が欲しい。夏になれば避暑に行きたい。さう云つて子供にせがまれると、しお不便さが増して来て、親としての腑がひなさがつくと胸に沁みた。その上に又、彼は父親に死に後れた一人の老母をも養はなければならなかつた。律義で小心で情に脆い貝島は、其れ等の事を始終苦に病んで、家族の者に申訳がないやうな気持にばかりなつて居た。で、いつそのこと暮らしの懸かる東京を引き払つて、田舎の町に呑気な生活を営んで見よう。さうして少しは家族の者を安穏にさせてやりたいと思つたのである。G県のM市を択んだのは、其処が細君の郷里である縁故から、幸ひにも転任の口を世話してくれる人があつた為めである。

M市は、東京から北の方へ三十里ほど離れた、生糸の生産地として名高い、人口四五万ばかりの小さな都会であつた。広い関東の野が中央山脈の裾に打つかつて、次第に狭く縮まらうとして居るあたりの、平原の一端に位して居る町で、市街を取り巻く四方の郊外には見渡すかぎりの一面の桑畑があつた。空の青々と晴れた日には、I温泉で有名なHの山や、その山容の雄大と荘厳とで名を知られたAの山などが、打ち続く家並の甍の彼方に聳えて居るのが、往来の何処からでも眺められた。町の中にはT河の水を導いた堀割が、青く涼しく、さらと流れて居て、I温泉へ聯絡する電車の走つて居る大通りの景色は、田舎のわりには明るく賑やかで、何となく情趣に富んで居た。貝島が敗残の一家を率ゐて、始めて其処へ移り住んだのは、或る年の五月の上旬で、その町をじようする自然の風物が、一年中で最も美しい、最も光り輝やかしい、初夏の日の一日であつた。長い間神田の猿楽町のむさくろしい裏長屋に住み馴れた一家の者は、重暗く息苦しい穴の奥から、急にカラリとした青空の下へ運び出されたやうな気がして、ほつと欣びの溜息をついた。子供たちは、毎日城跡の公園の芝生の上や、T河の堤防のこんもりとした桜の葉がくれや、満開の藤の花が房々と垂れ下つたA庭園の池のみぎわなどへ行つて、嬉々として遊んだ。貝島も、貝島の妻も、ことし六十いくつになる老母も、俄かに放たれたやうな気楽さを覚えて、年に一遍、亡父の墓参に出かけるより外は、東京と云ふところを恋しいともなつかしいとも思ひはしなかつた。