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ので、煙はピッタリ止んでいた。消防手はすごと下りて来た。煙突の上では、再度彼が危険な離れ業を演じてはげらげら笑っている。こん度は同僚のKと主任のTさんが上り出したが、前と同様、半ば頃に達すると、彼は忽ち口内めがけて飛下りる気勢を示すのである。院長が真下に佇った。そして、危いから下りて来いと叫んだが、それすら何の効果もなかった。彼は相も変らず人々の無能を嘲笑するかのように、朝日を浴びて笑っている。

 ついに手の施しようがなくなった。といって、彼が自発的に下りて来るまで放任して置くことは危険であった。まして衰弱している体を持ちながら、何時までもあんな高層物の上に留っていられよう筈がない。ひと度梯子を握っている手が辷ったらその時はどうなるであろうか。尚おママまた、彼自身何時どんな気になって口内に飛下りぬとも限らぬ。

 その時、だしぬけに同僚のKが私を見て叫んだ。

「あっ、そうだそうだ。君がいい、君ママいい、君が行けば奴は間違いなく下りて来る。そうだった、忘れていた……」

 彼はそう云って狂気のように人垣を分け、私を煙突の真下に引っ張って行って据えた。観衆はワアッとどよめいて一斉に私を見た。人がやって駄目なら、私がやったとて同じことにきまっている。そう思ったが、もともと私が彼の附添夫であってみればともかく 一応はやってみる責務があった。

 真下に佇って仰ぐ煙突は物凄く巨大に見える。その遙か彼方、青空を背に彼は真黒い塊りになって蠢めいている。上る前に私はまず彼に向って叫んでみた。

「おーい、お坊っちゃあーん。 (私は何時も彼をそう呼んでいたのである) 僕だようー、僕が判るかあ、ベ—トヴェンだよう、どうしてお前は煙突へなんぞ上ったんだア、みんなが心配しているから早く下りて来いようー。」

 そうして私は腰の手拭をはずして頻りに振った。煙突の上では私の様子をじっと凝視めているふうであった。が、暫くして意外にも嬉しそうな声が落ちて来た。

「あ、あ、ベートヴェンさんですかア、ベートヴェンさん、判りますよう。判りますよう。」

 彼も私の手拭に答えて頻りに手を振っている。観衆はわあっと声援を送って寄越す。私は再度両手で輪をつくって口に当ててありたけの声を絞り出して叫んだ。

「お坊ちゃあーん、君が下りて来ないと、僕が困っちゃうんだ、頼むから下りてくれないかア、それとも迎えに行こうかあア……」

「いいえ、モッタイない、下りますよ。下りますよう。ベートヴェンさん、今直ぐ下りますよ。あなたに御心配かけては罰が当ります。危いから上って来ないで下さいよう……」

 意想外に素直な調子でそう答えながら、早や彼は梯子を下り始めていた。観衆はわあッわあッと喜びの声を放った。消防手達は万一の場合に備えて網を強く張り直して待構えた。上って来れば飛下りると云って示威運動をしていた彼が、私のたった一言にあんなにも素直に下りて来るのだ。彼の姿を眺めながら、私は無性に涙が湧いた。彼に対する強い愛情の涙なのだ、私は幾度か視野を煙らせながらしっかと彼の姿を追っていた。

 彼は梯子をつたって徐々に下りて来る。そして半ば頃まで下りて来た時である。あッという叫びが観衆の間に起った。瞬間、彼の体は一包みの風呂敷のように落ちて来た。長い間、煙突の頂上に寒気に晒されていた彼の肉体は、硬直して痙擊を起したのであったろう。彼の体は網の上に拾われて幸い事なきを得た。