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Page:Shisekisyūran17.pdf/750

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の地ハ叢林相應の所也、建立有へしと、時賴時節をかへすへからすとて、折節田をかへし居たる耕夫の鋤をとりて、時賴一下し玉ひ、又同大覺鋤を取て一下し玉ひ、其處に草をむすびそめ玉ふ、其後弘安元年に大覺も入滅有て、同五年癸丑の年に、時宗公立おさめらる、時に詮藏主英典座の兩僧を使として、大宋へ渡され住持を請せらる、其狀に曰、

時宗留意宗乘、積有年序、建營梵苑、安止緇流、但時宗每憶、樹有其根、水在其源、是以欲宋朝名勝、助行此道、煩詮英二兄、大覺祖之弟子、莫鯨波險岨、誘引俊傑禪伯、皈來本國、爲望而已、不宣、

弘安元年〈戌寅(申ィ)十二月廿三日      時宗和南

詮藏司(主ィ)禪師 英典座禪師

兩僧ィ无に依て宋に入、同二年の夏、佛光禪師請を受て來朝し玉ふ、即圓覺寺の開山祖是也、圓滿常照國師と號す、諱ハ祖元字ハ子元、自無學と號せらる、第三龜谷山壽福寺ハ、實朝の時に建立し、時代も先なりけれとも、十刹の位にてありし、のちに五山に任せられけるゆゑに、鎌倉五山の第三に列なれり、千光國師開山祖たり、塔を道遙院(庵ィ)といふ、第四山淨智寺ハ、龜山院の文應元年に來朝ありし、經山無準の法嗣兀菴禪師開山祖たり、師檀の緣や淺かりけん、のち四年に時賴旣薨し玉ふ、其のち禪師ハ志有て宋に歸り玉ふ、附法の弟子心翁禪師南淵宏海和尙、年若きを以て、大宋經山石溪和尙の法嗣佛源禪師大正念和尙に言を殘し給ふ、故に心翁佛源兩師を開山に定置玉ふ、兀庵を開山とせさる事ハ故ありとぞ、第五山淨妙寺ハ、山を稻荷と