コンテンツにスキップ

Page:Shisekisyūran17.pdf/749

提供:Wikisource
このページは校正済みです

玉へば關東をハ二男基氏に預け玉ひて、此里ハとこしなへに榮へけらし、前代の形見とて、世に殘る物ハ神社佛閣なり、平時賴建長禪寺をはしむ、五山の第一也、大覺禪師を開山(祖ィ)とす、此禪師ハ字ハ蘭溪、諱ハ道隆、大宋より、後嵯峨の寬元四年に來朝し給ふ、蜀の人なり、昔年千光國師榮西、建保(仁ィ)年中に入滅し玉ふ、我世を去てのち三十ィ无年に來朝の僧あるべし、我三十三年の拈香の師に請すべし、これを布施しまひらせよとて、藕糸の袈裟を殘されけり、年月移て、三十三年の忌を、筑前國羽堅聖福寺にしていとなみけるに、來朝の僧もなし、識(讖ヵ)もありィぬ成といひける所に、半濟計の時分、太宰府に唐船入りぬ、いかなる人や渡りけると尋けれハ、大覺禪師この舟にて來朝なり、即拈香に請しける、拈香の語ハ建仁の錄に見えたり、

蜀地雲高 扶桑水快 前身後身 兩彩一賽◦(と云云ィ)

千光は扶桑の人なり、水快とハ千光をいへり、大覺ハ蜀の產也、雲光(高ィ)とハ大覺自らいへり、自賛の語也、前身とハ千光をいひ、後身とハ大覺の自いへるなり、合て一人也、然ハ兩彩一賽といへる也、藕糸の袈裟、今に大覺禪師の塔西來院に在、千光國師三十三年に、大覺齡三十三にして、寬元四年に來朝し給ふ、「昔」(其上ィ)千光の遺言、大覺の來朝、千光の寂三十三年、大覺の年三十三、誠に符を合るか如し、又本朝に三十三年有て、後宇多の弘安元年に、壽六十六にて入滅ありき、

瑞鹿山圓覺寺ハ時賴、弘長三年に薨玉ふ、その時大覺禪師、時賴遊山の次、禪師のいはく、こ