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紫野澤庵和尙鎌倉之記

宮柱ふとしき立て、萬代に今そ榮えん、鎌倉の里と聞えしハ、昔年三浦一黨、賴朝に思ひ付申て、北條より此里へ迎入奉りてより、威光めてたうして、天下を掌のうちに治め玉ひけるとかや、鳩の峰遠く鶴か岡に移ります、神かきも宮柱いやましに立添◦(國ィ)萬代の祝ひ(歌ィ)成べし、本より神と佛ハ水波の隔、一體異名なれハ、本地をあらはせハ西方の化主、日の本に跡をたれ玉ふ、神佛如々ニヨなれハ、瑞垣もへだてなく、神の宮寺にハ、東方の化主醫王善逝を安置し、夕曉の鐘の響、無常の夢をおとろかし、四方のかためとて、里の四隅に四ケの律寺を創め、國泰民安の禱をつとめ、佛の威儀をあらはし、衆生を利益し玉ふ、我禪法流布の時やいたりけん、後鳥羽院の建久(仁ィ)二年に、明庵榮西禪師大宋より歸り土御門の建仁にハ洛陽河東に禪寺を立、顯密を兼をかる、順德院の建保三年に、鎌倉の實朝のとき壽福寺を立らる、是五山の其一也、惣して上をうやまひ下をめくみ、現當をかねつとめられけれ共、夙因のくィむ所やうすかりけん、現在の果報「家も无ィ」短くして、獅子身中の虫とかや、身の中に无ィて身をやふる事と成、實朝はやく、公曉の爲にうしなはれ玉ひて、家たじろきぬれと、萬代のちかひなィ(里ィ)に殘りけん、後の九代鎌倉殿とかしづかれ、天下ハ一人の天下にあらす、道有て代をしつめ玉ふ人の天下なれハ、家ハ平にかはれとも、洪基をひらき玉ハ源也、中垣の隔をいふハ人の情なり、然るに此家も數代重ぬれハ、上をうやまひ下をめくむ心もうすらき、侈に家かたふきて、其后尊氏公天下の武將として、一統の代と成て、都にハ長男義詮「皇閤」(國ィ)を守護し