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鑑トスヘキモノナリ
右人國記課人令書寫以二本手自批校完
天保十一年二月
伴 信 友
又以一本校了如朱點便覽
〈井伊家秘書と題せる慶長元年九月東照神君の御命によりて廣瀨治部左衛門等六人連署して其君井伊直政朝臣に奉れる書に武田信玄主の物語を載て云山城播磨伊勢近江越前この五ケ國ハ大かた人の心定まりてあれば違ふ事なし其外は其國の主人の仕置作法にて考知れ候十を十こそあたらすも八ツ九ツハ當るへし我等常々國々に人を付置見るに右の五ケ國の侍の心立其外日本國の人の心を西明寺殿の遊はされたる秘書太田羽州の家に傳はりて在之由聞及所望して今に所持す是を人國記と名付たり其後羽州大かた國々を巡り見られるに彼書に不違貞治元年に是を見合候て書留たる書なり付置たる者の日記と少も不替候然れば古より今に替らねば末の世になるほと惡き事は有るとも能き事はありかたし云々とて腰より扇を御拔出しなされ披見致し候へとて御出し被成候其扇に被遊候事とて山城播磨近江越前伊勢石見丹後等の風俗を記されたる文ありてさて我國甲州は右五箇國をひとつになしたるよりも猶以不可然國なれとも誠に晝夜の此國の儀さへ政道を以治れハ餘國ハ物の數と不思なり人知れぬ苦勞第一と被仰候云々記せり扨その扇に記されたりといへる國々の風俗等の文を此人國記に合せ見るに此記の大畧を約めて記されたるものなり引合見て知るへし然れハ此人國記すなはち信玄主の所持すといはれたると同書なる事明なり但し此書を西明寺殿の記されたるものとせる說ハおほつかなし其西明寺殿とハ最明寺時賴の事ときこゆるに今此書に記せる時世の趣また文詞の體を考ふるに時賴の世頃とハはるかに後のさまにきこえ又奧書に貞治元年とありといへる夫よりも後さまに見えたりおもふに大凡足利將軍家の季の亂世の頃いさゝか儒學を心かけたるものゝ志ありて諸國を巡視し或ハ同志の者をかたらひあハせなとして記せるものなるを態と撰者の名を匿して最明寺の竊に諸國を巡視せるといへる俗說に託してその記せる書なりと稱し又貞治元年の奧書をもものしたりしなるへしおのれか得たる本ともに件の朱書あるは見えされといつれにも信玄ぬしのいはれたると同書なる事はかへす〳〵も疑なしおほろけにな見過しそ〉
信 友 識
明治十七年八月
近藤瓶城校了
明治三十五年十一月
同 圭造再校