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御返し御製

春のみやに木たかく匂ふ花ならハわきてやみまし宿の梅が枝

同集賀部云みこにおましける時內裏にて人々題をさくりて百首歌つかうまつりけるとき梅を御製

いく千世もかわらす匂へうゑをきてわが春しらむ庭の梅が枝

初の二首ハかならす立坊あるへき御方とみえ後の御製にも我はるしらむとよませ給る一の御子にあらすしていかてかくハよませ給へき嘉喜門院御集に正平廿三年八月つねよりもあはれなりし夕暮に春宮の御かたより

おもひやれおなし空にやなかむらむなみたせきあへぬ秋の夕くれ

せきあへぬなみたのほともおもひしれおなしなかめの秋の夕くれ

此御集のうち後龜山帝をうへと芳稱しこゝに春宮と稱し給るハかならす寬成の御ことにてまさしき御同腹の御弟なるへし又花營三代記に應安〈後圓融〉六年〈文中二年〉八月二日南方奉讓位於御舍弟宮と見えたるハ街談巷說にてたとへハ大友皇子上總に沒落の樣久留里記にのせ高倉宮東國に下向のよし玉海に記し給へるかことし下に引新葉集の御製尤確據たるへきものかれハ南方の撰集是ハ武家の雜錄也是を取てかれを捨へきにあらす新葉集賀部云建德元年正月松契遐年といふ題を講せられ侍りし次に御製

十かへりの花さくまてと契るかなわか世のはるにあひおひの松