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に通へるもの多々あるを見受く、是も時勢の一變化なるべし。

 我亡きも亦明治十八年の頃其二人の弟(故津輕英麿、常磐井堯猷)と共に笈を萬里の外に負うて此地に來り此大學に學生たりしなり、爾來三十餘年は一夢と過ぎて父はとくに此の世の人に非ず、津輕の叔父も亦此春突然の訃報に巴里の予を驚かして父の跡を逐へり、當時三人の兄弟が寄寓したりしはラインと云ふ人の家なりき、此人はボン大學の敎授にして明治初年日本に來り獨逸語にて日本と云ふ著書を作せり、日本人にして此地に留學せる者は多く此人の世話になりしものにて西園寺八郞氏の如きも其一人なり、予は幼少の頃より屢々ボンの話を開きて亡き父の師たる遠き異鄕の未見の此人に一種の懷しさを感じ