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も千世が傳ありて、此碑を載す、孝子傳梓本あり、世に行はる、固より本府孝子少からすといへども、碑あるは此二人のみ

永安橋府城の東北 坂本村、棈木川の下流に架す、多賀山の麓、祇園神社と抱眞院との間にあり、舊製板を以てし、抱眞橋、或は俗に祇園橋と呼べり、天保十三年の春、改め作るに石を以し、永安橋と名く、下三洞を設け、毎洞水を通す、頗る雅なり、

鼓橋府城の北 棈木川の上流、吉野村實方にあり、兩岸自然の巨岩より、石板を編み、柱なしの石橋なり、梅雨に於て水激流し、其勢ひ常の橋にて堪かたし、故にかゝる巧みをなして、万代不壊の慮をなせり、其形鼓の如し、

鳥越府城の東北 吉野村にあり、本府總廟諏方神社の左後迫よりこれに至る、山徑絶險の坂道にて、鬱々たる古木松柏の間、或は九天に冲り、或は無底に陥るが如く、升降屈曲して大磯に出つ、大磯石碑所謂鳥越故道是なり、

三國名勝圖會巻之二 終