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り、是に至て聘し、廩禄六十石を賜ひ、江戸邸に居る、其後禄五百石を改賜ひ、鹿兒島に移して土著せしめ、宅一區を賜ふ、東匀大龍寺に寓止して、諸生に經を授く、既にして東匀遷て江戸邸に居る、其請に由て許さるなり、 東匀が父は、菊池元春と云、江州膳所城主本 多縫殿頭康頼に仕ふ、 大龍寺は、文之以来相繼て儒經を説くを以て、世人儒寺と稱せりとぞ、其後兒玉圖南、志賀登龍等、江戸に赴き、朱學を室鳩巣に受く、山田君豹は、鳩巣の門人河口子深に從遊す、於是室氏が學本藩に行はる、又府下組頭の宅に於て儒師經を講して士人に聽かしむ、是を俗に組講釋といふ、其儒師は、大抵室氏の學徒なり、大信公府學を建るに及て、山本正誼を教授とす、正誼は君豹が門人なり、正誼又少き時江戸に、遊て、一時の名家に從遊すといふ、凡府學に於る、師導を設け、典籍を聚め、紀律條科を制して、學政を整へ、以て國人子弟に教ゆ、於是教化大に行はれ、風俗一變して、人材輩出し、政治を裨益すること多し、今や封境の内、遐陬僻邑といへども、文學を崇尚せざる者なし、是育英の效し、遠きに及ふを見るべし、

○宣成殿 館内の西北にあり、仰高門に入れば泮水池あり、朱欄橋を架す、池の左右に石龍を置く、一は水を吐き、一は水を呑む、泮水池は、即宣成殿の道とす、殿門に入徳の二字を扁す、中山王尚穆の書なり、此門外に石碑あり、林大學頭信言撰す、内門の扉に杏壇の二字を雕る、赤信言の書なり、杏壇門の内孔廟あり、即宣成殿なり、殿宇巍然たり、宣成殿三字の額を掲く、伊賀國主藤堂高敦の書なり、殿內に聖像及ひ四配の像、十哲の神主、六從祀の畫像等を安す、古を考へ式に據り、毎歳春秋丁日を以て、釋菜を行ふ、殿の西は林木欝然たり、 孔林といふ、

○石碑、所在前文に見ゆ、